妄想日記―6―
大変にご無沙汰していました。夏休みって魔物ですよね。
「だから! だから、僕は怪しいものじゃない! ハロッケン伯爵家の三男、ダニエルだ!」
「恐れ入りますがダニエルさま、ダニエルさまのご身分と、当家に事前の約束なくお見えになられることの関係性がございません。お引き取りを願います」
もうこれで何度目の名乗りだろうか。今度は男爵家の家令にダニエルの身分、伯爵と三男を強調してみたものの、やはりやんわりと、それでいて断固として拒否された。
言っておくがここは玄関前のポーチである。ダニエルの身分に対してはあり得ないほどの無礼。
まさかの玄関ホール以前、玄関扉前での訪問に対する物言いだった。
もちろん、ダニエルだとて伊達にこの屋敷に事前潜入していたわけではない。ここの住人であればきっと、一面識もない相手の屋敷に初訪問なら一度目くらいの拒絶はして見せるだろうというくらいの想定はしていた。
たとえ訪問者が王の従姉妹あたりだとしても、『たかが男爵家』の身分を逆手にとってしたたかに、この屋敷の家人ならば訪問を断るかもしれない。そこまで想像していたおかげか、門前払いのような断り文句にも怒りは覚えなかった。
だが、幾度となく、けして怪しいものではないと自分の身分を出しても取次の男性は一歩も引かない。
ダニエルは最初の口上を終わらせたうえですでに玄関脇のフットマンから立場が上の人間に代わってもらっている。つまり、この家令をかわさなければ言葉通り本当に門前払いを食ってしまうということだ。
これは思ったよりも多少の時間がかかるかと、ダニエルは表情と姿勢を変えてみた。ステッキを腕にかけ、トップハットを頭から外す。真面目な顔で正面から交渉を開始した。
「待ってくれ。いや、本当に確認してみてくれないか。僕は一か月も前からソートワン男爵本人と御子息に訪問の許可を得ている。アイリーンさまの件で」
「当家の宝が関わっておられることで、男爵が私に申し送りなされておらぬことはございません」
アイリーンの名を出した瞬間に顔を硬くしたソートワン家の執事にはっきりと言いきられ、ダニエルはくるりと目を上に回す。しまった、彼女の名前はまだ出すべきではなかったようだ。
潜入しているときにも重々と思い知ってはいたが、目のあたりにすると破壊力も素晴らしい溺愛ぶり。
この分では今日の訪問も、理由や目的までソートワン男爵とその子息に推測された上で妨害されてると踏んだ自分の妄想が当たっていそうで怖い。恐ろしすぎる。
「正式な招待状は持ってない。だが、当主の言質はもらっている」
「であるのならば」
家令である自分には訪問日時を取り付けるカードの類があるはずだろうという指摘を受け、でっすっよっねー! とダニエルの脳裏に軽々しい返事が躍った。
堂々巡りの言い合いに悪態をつきかけて、かろうじて飲み込む。脳内返事といい悪態といい、うっかり下町仕様で返すところだったが、それは貴族にあるまじき態度だ。表に出すわけにはいかない。というか、なにも自分で自分の評価を下げることもないだろう。
それにしても確かに三男ではあるものの、仮にも家格が上である伯爵の直系を家令ごときが玄関先で押し問答させるとは。構成員として貴族社会の一部分を担うはずの下働きとしてありえない頑固さ、忠義者だ。先に当主と話を付けさせろ、いいから僕を家に入れろと苛立ちのあまり上から目線で考えてしまい肩をすくめる。
数えきれないくらいの潜入捜査で鍛えたダニエルの対人理性を切ってこようとするとはソートワン家、執事でさえもあなどれない。
ふと目を上げ、ダニエルは目を瞬かせた。なんとまぁ、イレギュラーなことにダニエルの目的であるアイリーン嬢が今、散歩中のようだ。毎日の決められた予定では彼女はそろそろ裏庭に到達していてしかるべきはずだが。
これぞ、神が与え給うたチャンス。ああしかし可愛らしい。陽の下で見る彼女の、なんとはかなげなことか。淡い色彩が豪奢に陽に映え、控えめに言っても妖精だとしか形容できない。
執事がダニエルの一気に蕩けた視線を追い、振り向いて聞こえないように舌打ちをする。制止の声は半瞬で届かなかったようだ。
「ダーリン! 聞いてくれ!!」
愚かしくも身の程知らずにも、ソートワン男爵家の宝に恋をしている馬鹿者に、先制を許してしまったのだから。
「ダーリン?」
驚くほどに現実離れした呼びかけにアイリーンは目を瞬かせた。今日は誰の訪問予定も受けていない。というかむしろ、今までの過去で家庭教師と医師以外で彼女に対する客はなかった。
しかし声をかけられたのが自分であろうがそうでなかろうが、誰かが誰かを呼んだことは確かだろう。アイリーンは一瞬にして自分の格好を振り返る。まず、目についたのが散歩着だ。客前に出るべきドレスではない。さらに家の庭を歩くくらいなので日傘を持っているが、それだけだ。レースの手袋もしていないしメイドもいない。
この状態で客と対峙するなら少々、恥ずかしいと思いつつも足を止める。大体がして彼女に、誰かからダーリンと声をかけられる筋合いはなかった。ほぼひきこもりに等しいアイリーンのことだ、『愛しい人』と呼びかける存在なぞ家族しかいないが……。
「ああ、ダーリン! ようやく陽の下で君と会えた! 会いたかったよ。すごーく! 元気だったかな? いや、うん、ダーリンが元気なことはこうして見ればわかるよ。おっと、でもすこーし顔色が悪いような? や、いやいやもちろん、ダーリンの父君や兄君を筆頭にメイドたちすら溺愛する君のことだから本当に体調が悪いわけでないってわかるけどね。それにしたって」
「申し訳ないが、もう少し、話に切れ目を入れてくれ」
かろうじて目の前の男性の怒涛の口を遮ってはみたものの、アイリーンは見覚えのない若者に首をかしげた。玄関脇からあっという間にこの距離を詰めてきたあたり、身体能力は高そうだ。見目もいい。着ているものも上質。
だが、まるで自分の知り合いだと言わんばかりに馴れ馴れしい距離を保っている彼は、いったい、どこの誰だ。
脳裏でガンガンと警鐘が、ダーリンという呼称と立て板に水の勢いの長台詞に気が付けと警告を鳴らしている。アイリーンはそれでも、一歩も引くことなく彼の目を見続けた。
「そう、そうだね。僕ときたら、何度も君に注意されてるのに。ねぇダーリン、君は喋りすぎる男は嫌いかな?」
「……いいえ」
「良かった。僕だっていつもはもっと無口なんだけどね。君を前にするといつだって舞い上がりすぎて、まるで道化のように口を開かずにはいられないんだ。ダーリンの声ならいつまででも聞いていられるのに、緊張しすぎて君に相槌すら打たせないなんて本末転倒すぎていっそ笑えるよ。……ああ、本当に言葉を止められないみたいだ。ごめんねダーリン。せめて木陰に君を連れて行ってから挨拶をすればよかった」
「…………そうだな、ハニー」
アイリーンの口から洩れた呼称は、見知らぬ若者の顔色をぱっと輝かせた。太陽光もかくやと言わんばかりのきらきらしい笑顔にアイリーンが半歩を引く。その心持ちの隙間を許せないとばかりに二歩を詰めてきたダニエルが彼女の手を取らんばかりにして、ふとぐるりを見回した。都合のいいことに、玄関を挟んで向こう側にはアイリーンが強すぎる日差しから避難していた木陰があった。
斜め後ろにはとてつもなく苦い顔をした家令もいたが、当たり前のようにダニエルには執事に遠慮する気にはなれない。彼にしてみれば待ちわびすぎた邂逅だ。というか、アイリーンを迎えに来るためとはいえ、彼女をじかに感じ取れるなんて何か月ぶりだと思っているのか。
アイリーンの顔と、声と、それから独特のこの喋り方。
少なくとも離れていた分の彼女を堪能するまで、ダニエルにはアイリーンの家を辞すという考えはない。
軽く手を取って木陰に誘導する。さっきは見えなかったベンチがあった。……この家での潜入時を思い起こすだにきっとあれは、この短い時間に庭師が持ってきてくれたものだろう。ダニエルに詰め寄られてもアイリーンが嫌がっていないことを見て取ってもらえたのだ。知り合いであるとも判断されたようだ。
…………薄い笑みを浮かべて同じくベンチに歩いてくるアイリーンの兄に。
「兄さま」
「アイリーン。裏庭で愛しい妹を待っていたらメイドが、君に客のようだからと知らせに来てくれてね。こちらは?」
「……あ」
困り顔のアイリーンに見上げられ、ダニエルはとりあえずそっと、彼女をベンチへと座らせた。裏庭から移動させたのか、たった今さりげなく置かれて行った冷たそうなグラスをアイリーンにもたせる。ふわりと嬉しそうな彼女と一瞬だけ目で会話した。それからダニエルは気負いなく、アイリーンの兄へと体を向ける。
「失礼いたしました。私はハロッケン伯爵家が三男、ダニエルと申します。本日はこちらに御当主と御令息との面会を申し込んであったのですが、その前にこちらのアイリーン嬢をお見かけしてしまい、つい心の赴くままに兄君さまよりも先に話をさせていただいていたのです」
「……ああ。君が、そうですか。ダニエル君」
「どうも家令の方に私が来ることが伝わっていなかったようで、いささか玄関先で騒いでしまいました。無作法をお詫びいたします」
「カートが、来ていただけるお客の予定を忘れていたのか?」
あまりに驚いて、アイリーンはぽろりと口を出してしまった。直後、しまった、と硬直する。貴族のマナーとして淑女の守るべき掟として、男性同士の会話に許可なく入り込むことは恐ろしく無礼だとされている。アイリーンの兄は慣れているからいいが、客人の前でするには失態に近い。
「忘れていた、というか。むしろ行き違いかもしれないねダーリン。君に逢いたくて僕が日付を間違えてしまったのかも。とにかくずっと、あなたに会いたかったから」
「……ハニー」
アイリーンは、じつに率直に表現すれば、たいそう混乱した。目の前の……そう、ダニエルは、伯爵家の御子息は、アイリーンの無礼を咎める気は無いようだ。にこにこしている。推し量らずとも上機嫌であることは駄々漏れだ。さらに彼女が客に対してハニー、と呼びかけたことも訂正されていない以上、では、やはり、目の前の彼はハニー、妄想交換日記相手の小人ということで間違いないようだ。
彼が、現実の、存在だった。
ぐるぐると新事実がアイリーンの目を回す。さらに惑乱の拍車をかけたのがダニエルと名乗ったダーリンの、目線の熱っぽさだ。アイリーン自身にはついぞかけられたことのない類の熱は、彼女の父が母に向ける視線に似ている。兄や父が向けてくる、生ぬるいように溺愛の視線とも違う。なんというか、その、こちらの息の根を止めてしまいたいかのような意志を持った熱さ。
「ダーリン。ハニー」
「ああ本当だね。交換日記の中では僕がダーリンなのだっけ。君がハニー。でも正直に言えば、僕にとって呼び名はどうでもいいんだアイリーンさま。シュガーでもいい、アイスティー、クリーム、パイにタルトに果実の名でも。君が、君でいてくれるなら。僕に、君を呼ぶことを許してもらえられるのなら。アイリーン」
「あ、……うん」
ぴくりとダニエルの手が動いた。彼女の手を取ろうとしたが理性でとどめたようだ。名前を呼ぶ許可も出していないのにこの距離で、しかも手を取ってしまえば彼女を追い詰めすぎると判断したらしい。それを見て、それまでヒクヒクとわなないていたアイリーンの兄の口端がきゅっと引き結ばれた。眉間に深いしわが寄る。
「……それで、アイリーン。ダニエル君とは、いつ、知り合いに?」
つかの間の妄想日記で知り合ったダーリンが現実世界に生きていた。
妙に現実離れした顔のいい若者が、熱心に自分を見つめてくる。
あわよくばもっと距離を詰めたいのだと、全身全霊で伝えながら。
全ての衝撃から微妙に立ち直れていないままに、ただただ混乱していたアイリーンは。
そうして、最大限の地雷を兄に踏み抜かれた。




