妄想日記―5―
『ダーリンは、もういないのか。返事が欲しい』
未練がましくも先日書いた下の方、白紙の部分にそう付け足し、彼女はため息をつく。
別に、大したことじゃないのだと自分に言い聞かせながらもノートから目は離れなかった。交換日記の相手がいなくなったからといって落ち込む筋合いじゃない。
ましてや、相手は黙っていなくなったんだし。
だが、気になって仕方がない。
彼女は気分の晴れないままにペンを置いた。あれからそろそろ二か月になろうかという時間が立っていたが、どうしても諦めきれなかった。
ずっと机の上にはノートをひろげるようにしてある。もちろん、メイドや兄たちに見つかるわけにもいかないから、実際に広げてある部分は白紙だ。
彼が何かを書き込みやすいよう、ペンも無造作に傍らに転がしてある。
目線だけでチロチロとノートを伺いつつ部屋着から散歩着へと着替える。どれだけ気が進まなくても外には出なければならない。まったくもって体力の問題とは根深いものだ。
彼女はこの家で唯一の女児なのだから、男爵令嬢としていつでも駒になれるよう、子供を産める体を保つ義務がある。
義務。
私ごときを嫁にもらう男性は哀れだと口をゆがめながら、彼女は屋敷の玄関へと向かった。いじましくもノートは机の上にある。引き出しにも仕舞っていないあたり、どうやら彼女の心は本当に友人が欲しかったようだ。かの軽口が恋しい。
ふと、裏口から出て家人を驚かせようかとも考えたが……すぐに取りやめた。彼女の散歩コースは彼女が知らないだけで多分、監視の対象になっている。でもなければ兄や父が細かいことまでイロイロと言ってくるわけがない。
急な思い付き、きまぐれで屋敷の家人に迷惑をかけたくはなかった。
外に出れば太陽がまぶしい。反射で彼女はついショールを頭から被ってしまった。薄い紗がかかり、あるかなしかの影を目元に作り出す。勇気を出して玄関先のポーチから爪先を出した。痛い。気のせいかジリジリと焦げ付くようだ。大きく息を吸い、ひらりとショールを舞わせて外へと出る。焼かれそうだ。主に、網膜が。
いやいや、これじゃ淑女失格だ。年頃の娘と言うものは常に隙を持たねば。光線を遮るものに被り物を使用すればただの不審者だろ。
なかば目を閉じるようにして急ぎ、彼女は反省して木陰でショールをかけなおそうと出来うる限りの早足で散歩コース最初の陰に到着する。そこにはすでに日傘が置いてあった。
いや…………もちろん、それでいいのだ。
いいんだけれどもな。
ほんの少し、こう、怖いというか。
彼女は樹にもたれて薄い景色、優しい庭を眺める。さんさんと降り注ぐ太陽、早手回しで先手を置かれる心遣い。
気が付けば好きな花が庭に咲いていた。控えめな紫、元気いっぱいのオレンジ、目に鮮やかな白、ピンク。色の種類が多い花なのだと気に入ってしばしば足を止めてはいたが、好きなのだとは家人にはもちろん、独り言ですら漏らしたことはない。彼女は苦笑する。
庭師すら意識のレベルが高くて恐れ入る。
愛されてる。私はそれを知っている。
「……だけどなぁ。私は、誰かとおしゃべりがしたいんだ。ダーリン」
がさりと植木が揺れた気がした。風だろうか。日差しは強いものの気温はそう上がっていない今が、散歩の時間にふさわしい。彼女は意を決し日傘をひろげた。レースだの透け素材だのと反射材は相性が悪い。今度はこっちのほうに手を出してみようかとぼんやり思う。アイスティー、冷たい茶菓、実用性とかわいらしいをたっぷり詰め込んだ日除け。ドレスにも転用できるかもしれない。……ふむ、悪くない。アーシャの方で扱えそうだ。
アーシャ、アナスタシアは、彼女が生まれたソートワン男爵家が所持している商会だ。管理人と経営者はソートワンとは縁もゆかりもない人物を立てさせてもらったが、実質のオーナーは彼女の父にあたる。よって将来は商会も兄が継ぐのだと彼女は信じている。現体制を続けていけるのならばそちらの方が好ましいだろう。残念ながら貴族たる者、自力で働くなどと言う風潮にはまだまだ偏見が多い。彼女もアナスタシアの商品開発にはこっそりと助言めいたことをさせてもらっているが、これだってたいていの爵位持ちなら眉をしかめるところだ。豪農も感性は似ているだろう。
そう、彼女が甘やかしてもらっているだけで、嫁げば女性は社交を担い、子を成す生き物とみなされる。根本的に。
日傘を閉じて、また開く。引っ掛かりのない骨の動きが素晴らしい。実に滑らかに磨きたてられ、まっすぐと伸びた木。しなやかで強く、爽やかに香る。
アナスタシアを立てた理由は至極明快で、金が足りなかったからだ。
彼女の情けない体質のせいで、自転車操業だったソートワン家の領地経営は火の車になりかけた。いや、実際、彼女の医者を領地に呼び寄せたあたりでは借金まみれだった。昔の経理書類を読むとはっきりしている。赤、赤、赤字。さぞかし父と兄は頭が痛かっただろう。
それが徐々に上向いてきたのは彼女が『彼女』として助言を行ったからだ。幼いころの疑問の数々――どうしてお医者様の家族は私に会いに来てくれないのか(これは男爵が医者を友人として紹介したことに起因している)、どうして薬は苦いのに飲まなければならないのか(体力が非常に低いため常に彼女の体調は底辺をさまよっていた。なので薬湯の出番だったわけだが) ――は、真面目に受け止められただけに、父親と兄、それからの医者の在り方に大転機をもたらした。大胆に括ってしまえば、幼女のわきまえない要請を溺愛の果てにかなえてしまったからこそ、今の医師薬師ギルドの発展があると……あぁ、まぁ、彼女としては認められなくもない。
そこはたしなめておいたら良かったんじゃ……との疑問は、飲み込んでおくべきだ。彼女のように成人男性二人から涙目で、過大評価と砂糖も固化しそうな甘ったるい賛辞を聞き続けたくなければ。
人が来れば、なによりも金が動いた。ソートワン男爵はいささかバランス感覚がおかしい人間だったがチャンスをチャンスとして学習できない人間ではなかったようだ。さらなる借金を多大なる苦労して背負い、街、を作り上げたのだ。人を呼ぶことと同時に、入れ物の器も作った。
その結果が……詳細を省くと、アナスタシア商会となったわけだ。彼女が大きくなってからは女性用小物も扱い始めたため、薬、人材、小物と加速度的に商会の規模は大きくなり、現在の売上たるや同じ男爵程度では比べられないほどになっている。彼女がまだ自分の価値を家人以外に知らしめていないときには隠すつもりもなかったため、アレがアナスタシアの要だと誤解する人間も多かった。彼女は豊富な誘拐事例を持ち、自称友人もたくさんいる。家の中からかどわかされたこともあるのでいつしか窓には鉄格子が入るようになった。庭師にどうして戦闘経験が必要なのか、さすがにこの屋敷以外ではそんな変な人材は見当たらない。メイドでさえも多少の心得を持っている。
つんつんと傘の先で地面を突く。日課は、決まっているからこその日課だ。そろそろ裏庭まで行かなければ。メイドも心配するしアイスティーも温くなる。庭師だってそわそわしてしまう。……そう、呆れたことに『庭に散歩に出てぼんやりしてるだけ』の彼女を『迎えに来た』兄のように。
「……兄さま?」
「仕方がない。かわいいアイリーンが倒れてたらどうするの」
それが言い訳になると思うのか、この男。
彼女は、今、切実に、メイドたちが持っている多少の心得が欲しかった。成人男性を投げ飛ばせるのならきっと、兄だって仕事を投げてまで自分を心配しなくてよかったのに。
散歩するくらいの自由が、手に入るだろうに。
兄に手を伸ばし、寸前で取りやめた。目を見開く兄に笑いかける。
「兄さま、私が裏庭に行くまで待っててくださいますか?」
「ここにもう、僕がいるのに?」
「はい。私、兄さまが向こうで冷たい飲み物を飲まれてることを思ってできるだけ急ぎます。体力づくりの一環なのですから」
「言ってることは正しくないが……困った子だ」
どこが正しくないのか、兄以外には理解できない理屈でもって彼女の兄は退場した。その背中にくるりと彼女も背を向け、一歩をようやく踏み出す。
今度は聞き間違えようもなく、屋敷の正面ゲートから騒ぐ声が聞こえてきた。




