第26話 誰も欲しがらない土地
はじめまして。鉄菊と申します。
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。
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西へ幾日。街道は進むほどに細く痩せていった。
石畳は途中で砂利に変わり、やがてただの土の道になった。行き交う荷馬車も旅人も、一人また一人と姿を消していった。豊かなエンポリアから遠ざかるほど、道もまた貧しくなる。だがロゴスはその痩せていく道を、不思議と懐かしいと思った。
これは帰り道だ。四年前、彼が期待と不安を半分ずつ抱えて下っていった道を、いま彼はちょうど逆向きに上っている。
五日目の夕暮れ。低い丘を一つ越えたとき。
眼下に見覚えのある谷が開けた。
ルーメン村。国境に近い辺境の痩せた村。斜面にへばりつくような狭い畑。藁葺きの低い屋根が身を寄せ合い、村を囲む柵はあちこちで朽ちて倒れている。四年前より村はいっそう瘦せて見えた。
(――変わっていない)
ロゴスは馬を降りた。ここから先は歩いて入りたかった。領主の子として、ではない。ただダリオの家の末の息子として。
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村の入り口で最初に彼に気づいたのは、水汲みの女たちだった。
やがて報せは痩せた家々を駆け巡った。畑から鍬を放り出して駆けてくる、日に焼けた男。それが次兄のガイルだと気づくのに、ロゴスは一瞬かかった。四年で少年は逞しい若者になっていた。
「ロゴス……お前、ロゴスか」ガイルは弟の両肩を掴んだ。「大きくなりやがって。手紙にゃ、都で偉くなったと……」
その言葉の途中で、母のエマが来た。読み書きを覚えたてのあの手で、たどたどしい文字を綴って幾度も便りをくれた母だ。エマは何も言わず、ただ末の息子を抱きしめた。その肩が震えていた。父のダリオは少し離れて立っていた。字の書けぬ無骨な農夫は、こみ上げるものを日焼けした深い皺の奥に押し込めるようにして、ただ何度も頷いていた。
その夜。囲炉裏の乏しい灯りの下で。ロゴスは包み隠さず話した。領主の跡目を継いだこと。そして、その座を追われたこと。名も財も力もすべて失って、来たときと同じ身一つで帰ってきたこと。
家族は静かに聞いていた。ガイルが拳を握った。「……そんな。お前は何も悪いことは」
「悪くなくとも、負けるときは負ける」ロゴスは静かに笑った。「だが、失ったのは外側のものばかりだ。ここは」彼は自分のこめかみを指で軽く叩いた。「誰にも取られなかった。だから私はまた始められる。……村を出たときと同じだ。あのときも私は身一つだった」
ダリオが初めて口を開いた。太い掠れた声だった。
「帰ってきてくれたか」
それだけだった。だが、その一言にこの四年のすべてがあった。ロゴスは喉の奥が熱くなるのを堪えた。
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翌朝、ロゴスはガイルと村を歩いた。
歩けば歩くほど、彼の胸の底に静かな痛みが溜まっていった。畑は半分ほどしか耕されていない。村の共同の放牧地は草を食み尽くされて、地肌が剥き出しになっていた。共有の林は手近な木から乱雑に伐り倒され、若木を植え直した跡もない。柵は朽ちるに任され、誰も直そうとしない。
(――なぜだ)
村人は決して怠け者ではない。ダリオもガイルも朝から晩まで働いている。それなのに村全体は年々痩せていく。四年前もそうだった。ロゴスはあのころはまだ幼くて、その理由を言葉にできなかった。だが、いまはできる。
昼、村長のゲオルグと太った顔役のボルクが、ロゴスの話を聞きに来た。ボルクは四年前、脱穀の詰まりを彼が直したときも、最後まで渋い顔をしていた男だ。その顔はいまも渋かった。
「都帰りの坊主が」ボルクは腕を組んだ。「何を言い出すかと思えば。……この土地はな、ロゴス。昔から痩せておる。神様がそうお作りになったのよ。お前が都で小賢しい言葉をいくら覚えてきても、痩せた土は痩せたまま。神様のお決めになったことは変わらん」
「ボルクさん」ロゴスは退かなかった。「一つ訊かせてください。あの共同の放牧地。あそこの草が食い尽くされて禿げているのは、なぜです」
「なぜって……皆が山羊を放つからだろう」
「では、なぜ皆、草が尽きるまで放つのです。少し休ませて根を張らせれば、来年もっと生えるものを」
ボルクは詰まった。それから吐き捨てるように言った。
「……そんなもの、当たり前だ。俺が遠慮して山羊を引っ込めたところで。隣の家がその分、余計に食わせるだけよ。俺が我慢して損をするだけだ。だから皆、先を争って食わせる。草が尽きる前に」
「そうです」ロゴスは深く頷いた。「それが、この村の痩せている本当の理由だ。土のせいではない」
ボルクもゲオルグも怪訝な顔をした。ロゴスは一歩ずつ噛み砕いた。
「あの放牧地は"皆のもの"です。皆のもの、とは――突き詰めれば"誰のものでもない"、ということだ。誰のものでもないから、誰も守らない。誰も肥やさない。皆が我先に少しずつ削り取り、誰一人、一粒も戻さない。一人ひとりは賢く立ち回っているつもりで――村全体は、その賢さの寄せ集めで痩せていく」
彼は畑を指さした。
「北の境の畑。あそこは豊かな年でも麦がまばらだ。……なぜだと思います。土が悪いから、ではない。あそこに種を蒔いても、実る前に盗賊が来て刈っていく。あるいは隣の放し飼いの山羊が食う。誰かが掠め取る。だから誰も、その畑に精を出さない。今日食う分だけ蒔いて、あとは放っておく。……手を掛けても、その実りが己に返らぬ土地に、誰が汗を流します」
ゲオルグの皺深い顔が動いた。
「では……我らはどうすれば」
「見てください」ロゴスは少し離れた一軒の家の裏手を指した。そこだけ低い垣根で囲われた小さな菜園が、青々と実っていた。「あそこは、あの家の"その家だけのもの"だ。だから、あの家は雑草を抜き、水をやり、肥やしを入れる。手を掛けた分がそっくり己に返るからです。……土は村じゅう同じ土だ。違うのは土ではない。"誰のものか"、それ一つです」
ボルクは腕を組んだまま、長いことその青い菜園を見ていた。反論を探していた。だが、見つからなかったようだった。やがて太い息を一つ吐いた。
「……理屈は解った。だが、それがどうなる。畑に線を引けというのか。この貧しい村で」
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ロゴスは村を見渡した。夕日が痩せた斜面を赤く染めていた。
「私は」彼は言った。「ここで始めます。この誰も欲しがらない土地で。……この村は貧しいから、誰も奪いに来ない。誰も欲しがらない。だから――誰にも梯子を外されない。私が地面から積み上げれば、それは私の、いや村のものになる」
(――誰かの跡目でも、与えられた椅子でもない。今度こそゼロから)
「まず直すのは、柵でも鍬でもない。掟だ」ロゴスは静かに続けた。「手を掛けた者に、その実りが返る掟。皆のものを少しずつ"誰かのもの"に変えていく。境を引き、守り、肥やした者が報われる仕組みを。……そうすれば、痩せた土はひとりでに肥えはじめる。人が初めて明日のために汗を流すようになるからです」
ボルクはまだ半信半疑の顔だった。だが、その目の奥に、四年前、脱穀の詰まりが嘘のように解けたのを見たときの、あの光がかすかに揺れていた。
そのとき。
村の北の林の方から、猟師のノルドが血相を変えて駆けてきた。四年前、森を知り尽くし、ロゴスの作戦に力を貸した、あの相棒だった。
「ロゴス……! 帰っておったか。だが、悠長にしておる暇はないぞ」ノルドは息を切らして言った。「北の境の畑の外れだ。足跡があった。……盗賊の。それも今年は数が違う。四人、五人のこそ泥じゃない。もっと多い。もっと慣れた連中の足だ」
村人たちがざわめいた。ボルクの顔から血の気が引いた。
「……見ろ、ロゴス」ボルクは掠れた声で言った。「線を引け、掟を作れとお前は言う。だが、その線を誰が守る。境を引いたところで、あの盗賊どもが来れば――守る力が、この村にはない。刈られるだけだ。昔からそうだった」
ロゴスは北の暮れゆく林を見た。
(――そうだ。掟だけでは足りない。掠め取る者がいる限り、境は境にならない。守る力が要る)
だが、彼の胸に恐れはなかった。むしろ静かな熱があった。剣は振れない。魔法も平凡以下。だが、彼には他にあった。人を束ね、力を集め、弱い者が強い者に勝つ、その理が。かつてこの村で隘路にキメラを追い込んだ、あの日のように。
(一つずつだ。人を。理を。土地を。……そして、いつか)
遠い東の空を彼は見た。あの王都の高み。凪いだ目をした若い男のいる高さを。
(必ず、あの高さまで昇る。この誰も欲しがらない土地から。……待っていろ)
剣も振れぬ十六の少年は、暮れなずむ痩せた谷をまっすぐに見据えた。それはどん底の、まだずっと底のような土地だった。だが、彼の目には、もうそこが何もない土地には見えていなかった。
(続く)
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【今回の理論メモ】コモンズの悲劇――「みんなのもの」は、なぜ荒れていくのか
牧草地でも漁場でも森でも、「誰もが自由に使える共有の資源」は、しばしば荒れ果てていきます。これを「コモンズ(共有地)の悲劇」と呼びます。理屈はこうです。共有の牧草地では、一人ひとりが「自分の家畜をもう一頭増やせば、自分の得になる。草が減る損は、みんなで薄く分け合う」と考える。だから全員が我先に家畜を増やす。結果、草は食い尽くされ、牧草地そのものが死んでしまう。ひとりひとりは賢く振る舞っているのに、全員が同じことをすると全員が破滅する――これが恐ろしいところです。
ロゴスが村で見抜いたのも、これでした。土が痩せているのではない。手を掛けても、その実りが「自分に返らない」から、誰も手を掛けないのです。誰のものでもない土地は、誰も守らず、誰も肥やさず、皆が少しずつ削り取っていく。「みんなのもの」は、突き詰めれば「誰のものでもない」――だから荒れるのです。
では、どうすればいいか。経済学者エリノア・オストロムが示した答えは、「線を引く」ことでした。所有や利用の範囲をはっきりさせ、手を掛けた者にその果実が返る仕組み(ルール)を作る。すると人は初めて、明日のために汗を流すようになります。会社の共有の備品置き場が散らかるのも、誰も掃除しない給湯室も、「担当のいない共有の仕事」が放置されるのも、すべて同じ構造です。荒れる場所には、たいてい「持ち主」がいません。何かを健やかに保ちたければ、まず「これは誰のものか、誰が責任を持つのか」を決めること。ロゴスの再起は、まさにその一線を引くところから始まります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
そして――第三章・再起編の、第一話です。
栄光の絶頂から、どん底へ落ちたロゴスが、いよいよ、ゼロからの再起を始めます。
彼が向かった先は、生まれ故郷の、辺境の貧しい村ルーメン。四年ぶりの帰郷は、静かで、温かいものになりました。読み書きを覚えた母エマの抱擁、字の書けぬ父ダリオの「帰ってきて、くれたか」の一言。座も名も財も失って帰ってきた末息子を、家族はただ、迎え入れます。彼が失ったのは外側のものばかりで、頭の中の「理」だけは、誰にも取られなかった――前話の"身一つの資本"が、ここで、確かな手応えとして描かれます。
今回の背骨は、コモンズの悲劇です。村人は怠け者ではないのに、村は年々痩せていく。ロゴスの診断は、「土が痩せているのではない。手を掛けても己に返らぬから、誰も手を掛けないのだ」というものでした。誰のものでもない放牧地は食い尽くされ、盗賊に刈られる境の畑には誰も種を蒔かない。一人ひとりの賢い立ち回りの寄せ集めが、村全体を痩せさせていく。ここで大事にしたのは、ボルクの反論です。「この土地は昔から痩せている。神がそうお作りになった」――もっともらしく、半分は誰もが頷いてしまう。ロゴスはそれを一歩ずつ崩し、「垣根に囲われた、あの家だけの菜園」だけが青々と実っている一点を突きます。土は同じ、違うのは"誰のものか"だけ。賢い相手を、理屈で、少しずつ腑に落とす――この作品の核を、再起編の初手にも置きました。
そして再起の設計図は、「まず直すのは柵でも鍬でもなく、掟だ」という一言に集約されます。手を掛けた者に実りが返る仕組みを作り、"皆のもの"を少しずつ"誰かのもの"に変えていく。荒れた場所には、たいてい持ち主がいない――現実の私たちの職場や暮らしにも、まっすぐ効く話だと思います。
ですが、ラストで猟師ノルドが持ち込んだ、不穏な報せ。今年の盗賊は、数も、練度も、違う。「線を引け、掟を作れと言うが、その線を誰が守る。守る力が、この村にはない」――ボルクの言葉は、正論です。掟だけでは、掠め取る者の前で、境は境になりません。剣を振れぬロゴスが、次に、どうやって"守る力"を手に入れるのか。散り散りになった、あの仲間たち――「剣はわしが振る」と約束した老兵オルドの影が、そろそろ、動き出します。
どうか、ここから始まる、地面から積み上げていく再起の物語を、末永く見守っていただけると嬉しいです。感想・ブックマーク・評価が、次を書く、何よりの力になります。ありがとうございました!




