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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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25/42

第25話 身一つの資本

はじめまして。鉄菊と申します。

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。

更新は毎日18時です!

なるべく続けていきます。

よろしければブックマークをお願いします!

夜明け前の、まだ薄暗い刻。ロゴスは西の門へ向かった。


 供は二人。荷は馬に括れるだけ。座も名も後見の力も、すべて王都の高みへ返した。三年前、この街の東の門から期待に胸を膨らませて入った少年は、いま西の門から、来たときとほとんど同じ身一つで出ていこうとしていた。


 街はまだ眠っていた。ロゴスはそれでよかった。見送りはいらない。別れは昨夜済ませた。あの五人を朝の門前に立たせて、去りゆく者への未練を新しい主の目に留めさせるわけにはいかない。それは彼らを危うくする。


(――静かに消えるのが、いちばんいい)


 だが西の門に辿り着いたとき。


 そこには五つの影が立っていた。


 内務のオーウェン。財務のニケ。軍事のカシウス。通商のヨナス。法のセウェルス。夜明け前の冷えた霧の中に、五本の柱が揃ってロゴスを待っていた。


「……来るな、と言ったはずだ」ロゴスは低く言った。「見られれば、お前たちが」


「見られぬよう、一人ずつ別の道から参りました」セウェルスが静かに言った。法の柱らしい隙のなさだった。「ヨナスの手配です。夜明け前なら門番もまだ眠い。……我らとて、あなたの弟子だ。危うい橋の渡り方くらい、教わっております」


 ロゴスは言葉を失った。


「ロゴスさま」ニケが進み出た。両替商の娘は、その手に一枚の古びた革の帳面を握っていた。「これを。……あなたがいちばん最初に、この街で私に作らせた、収税の"途中"を書く帳面の写しです。あなたの手が余白に書き込んだ走り書きが、そのまま残っています。あなたが私たちに何を見ろと教えたか。……忘れぬための写しです」


「持っていろ」ロゴスは首を振った。「それはこの街に要るものだ。私には」


「いいえ」ニケは退かなかった。あの、正面から「あなたは間違っている」と言いに来たセウェルスと同じ、まっすぐな目だった。「これは二冊あります。一冊は街に。もう一冊をあなたに。……いつかあなたが新しい場所で、また、ゼロから何かを始めるとき。最初の一枚が白紙では寂しいでしょう」


 ロゴスはその革の帳面を受け取った。ずしりと重かった。銭の重さではない。この一年で五人と分け合った、"見る目"の重さだった。


---


「私は」ロゴスは五人を見渡した。「お前たちに椅子を配った。だが、その椅子ごと、私が街に置いていく。……これからお前たちは、私のいない場所で、私の敷いた仕組みを守らねばならない。新しい主の下で。私を憎んだ者たちの目の前で。……辛いぞ」


「解っております」オーウェンが言った。誠実な書記の声は静かで、揺らがなかった。「ですが、あなたは仰いました。腐るな、抗って潰されるな、仕組みを生かして待て、と。……いつかあなたの敷いたものが、"誰の手柄でもない、当たり前の政"になる日まで。私たちは、その番人です」


「私たちは散らばりません」カシウスが剣の柄を握って言った。「ここに留まります。あなたが遺したものを守るために。……ですがロゴスさま。一つだけ約束してください。いつか――あなたがまた人を束ねる日が来たら」


 カシウスの若い声が震えた。


「そのときは、いちばんに私たちを呼んでください。私たちはここで腐らずに待っています。剣も算盤も法も、錆びさせずに。……あなたが迎えに来る、その日まで」


 ロゴスはしばらく答えられなかった。喉の奥が熱く詰まった。


(――この五人)


 王都の高みは彼から座を、名を、力を、すべて剥ぎ取った。だが、この五人だけは剥ぎ取れなかった。彼らは椅子で繋がっていたのではない。もっと深いところで繋がっていた。


「……ああ」ロゴスはようやく言った。「約束する。必ず迎えに来る。……そのときは椅子ではなく、もっと大きなものを配る。この小さな商都ではない。もっと広い、盤の上の椅子を」


 五人がはっと顔を上げた。負けて街を追われる男の、その言葉には、不思議と微塵の強がりもなかった。ただ、静かな確信だけがあった。


「待っていろ。……そう、遠くない」


---


 門を出た。


 街道は西へまっすぐに伸びていた。振り返れば、朝焼けにエンポリアの城壁が赤く染まりはじめていた。あの中に、自分の作った仕組みが、自分の育てた五人が残っている。自分はいなくとも。街は回る。


(――負けた)


 ロゴスは胸の内で、その言葉を噛みしめた。栄光の絶頂から、どん底へ。座も名も後見の力も財も、すべて失った。これ以上、失うものはもうほとんどない。


(だが)


 彼は馬上で、懐の二つのものに手を当てた。一つはニケの革の帳面。もう一つは――誰にも剥ぎ取れなかった、彼自身の頭の中の、途方もない"理"の蓄えだった。


(王は私の座を返上させた。名も力も財も取り上げた。……だが、私がこの三年でこの頭に畳み込んだものは。ボトルネックを見抜く目も、弱者の戦い方も、人の口を市場に変える理も、権を分ける設計も。……その、ただ一つだけは。どんな王命でも取り上げられなかった)


 城も蔵も兵も奪える。だが、頭の中の資本だけは奪えない。それは盗まれず、焼けず、朽ちず、どこへでも身一つで持ち運べる。そして――それさえあれば、彼はまた、ゼロから始められる。事実、村で彼は、脱穀の詰まり一つから始めたのだ。


(どん底とは、これ以上落ちない場所だ。……ならば、ここから先はどの道も上を向いている)


 ロゴスは西の道の先を見た。その道は幾日か行けば、彼の生まれた辺境の貧しい村――ルーメンへと繋がっている。盗賊が出て、小競り合いの絶えぬ国境の痩せた土地。誰の持ち物でもない、誰も欲しがらない、あの土地。


(誰かの跡目を継ぐのではない。誰かに与えられた椅子でもない。……今度はゼロから。私の、私だけの拠り所を築く)


 ふと、遠い記憶が蘇った。森の外れで別れたセレナ。「生きてたら、また会おう」と笑った、若い魔導師のリノ。「兵を率いる日が来たら、剣はわしが振る」と約束した、老いた武術指南のオルド。――散り散りになった、あの共に戦った者たちも、まだどこかで生きている。この広い盤の、どこかに。


(一つずつ拾い集めよう。人を。理を。土地を。……今度は誰にも、梯子を外させない。私自身が地面から積み上げた、私の城を)


 朝日が街道の行く手を照らした。長い影が西へ伸びた。ロゴスはもう振り返らなかった。背にエンポリアの灯りと、五人の約束を負って。胸に、誰にも奪えぬ身一つの資本を抱いて。


 その痩せた、剣も振れぬ十六の少年は、どん底のまっすぐな道を、一歩、また一歩と上りはじめた。


 ――第二章・エンポリア編、了。次章、再起編へ。


(続く)


---


【今回の理論メモ】無形資産インタンジブルズ――奪われない資本は、頭の中にある


 「資産」と聞くと、多くの人は、お金や土地や建物といった、目に見えるもの(有形資産)を思い浮かべます。ですが、実は、それと同じか、それ以上に大切な資産が、目に見えないところにあります。知識、技能、経験、人との信頼関係、評判――こうした形のない資産を「無形資産インタンジブルズ」と呼びます。ロゴスがこの回で失ったのは、座も、名も、財も、すべて有形のものでした。ですが、彼が持ち出したのは――誰にも剥ぎ取れなかった、頭の中の「理」と、五人との「信頼」という、無形資産だったのです。


 この無形資産には、有形資産にはない、恐ろしい強みがあります。第一に、奪われない。城や蔵は取り上げられても、あなたが学んだこと、身につけた技、築いた信頼は、権力でも、火事でも、盗人でも、取り上げられません。第二に、持ち運べる。身一つで、どこへでも運べる。だから、たとえゼロから始めても、無形資産さえあれば、有形資産はまた築き直せる。逆はできません。お金だけ持って知識のない者は、それを失えば終わりですが、知識を持つ者は、何度でも立ち上がれます。「どん底とは、これ以上落ちない場所」――つまり、すべての道が上を向く場所である、とロゴスが言い切れたのは、失っても失っても消えない資本を、その身に抱えていたからでした。


 現実でも、これは大きな支えになります。会社が傾いても、役職を失っても、あなたが積み上げてきたスキルや、人とのつながりは、あなたのものです。だからこそ、日々の中で、お金や地位といった有形のものだけでなく、"奪われない資本"――学び、経験、信頼を、こつこつと積んでおくこと。それが、いざというときに、あなたをどん底から引き上げる、いちばん確かな備えになります。ロゴスの物語は、失う話であると同時に、「本当に大切な資本は、初めから、誰にも奪えないところにある」という、再起の話でもあるのです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

そして――第二章・エンポリア編の、最終話です。

ここまでの長い道のりに、お付き合いくださり、本当にありがとうございました。


 栄光の絶頂から、どん底へ。ロゴスは、座も名も財も、すべて失い、来たときと同じ身一つで、西の門を出ていきます。ですが、静かに消えようとした彼を、五本の柱が、待っていました。「見られぬよう、一人ずつ、別の道から」――彼が教えた"危うい橋の渡り方"で。ニケが差し出した、二冊の帳面。一冊は街に、もう一冊は「新しい場所でゼロから始めるとき、最初の一枚が白紙では寂しいでしょう」と、彼に。カシウスの「いつか人を束ねる日が来たら、いちばんに私たちを呼んでください。腐らずに待っています」。――王都の高みは、彼から座も名も力も剥ぎ取れましたが、この五人との絆だけは、剥ぎ取れませんでした。椅子で繋がっていたのではなく、もっと深いところで繋がっていたからです。


 今回の背骨は、無形資産インタンジブルズです。城も蔵も兵も奪えるが、頭の中の"理"と、人との"信頼"だけは、奪えない。盗まれず、焼けず、朽ちず、身一つで、どこへでも運べる。そして、それさえあれば、また、ゼロから始められる――事実、彼は村で、脱穀の詰まり一つから、始めたのですから。「どん底とは、これ以上落ちない場所。ならば、どの道も、上を向いている」。この一年の敗北の物語は、同時に、「本当に大切な資本は、初めから、誰にも奪えないところにある」という、再起の宣言でもありました。


 そしてロゴスの足は、西へ――彼の生まれた、辺境の貧しい村ルーメンへと、向かいます。誰かの跡目を継ぐのでも、与えられた椅子でもなく、今度こそゼロから、誰にも梯子を外させない、自分だけの拠り所を築くために。森で別れたセレナ、リノ。「剣はわしが振る」と約束したオルド。散り散りになった仲間たちも、まだ、この広い盤のどこかで、生きている。一つずつ、人を、理を、土地を、拾い集めていく――第三章・再起編は、そういう物語になります。


 凪いだ目をした、あの若い男の正体。ロゴスの名の意味を知っていた理由。査問の裏で動いた、王都の高みの糸。――回収されていない謎は、まだ、たくさん残っています。それらは、ロゴスが、再びあの高さまで昇りつめたとき、一つずつ、明かされていきます。どうか、ここから始まる再起の物語も、末永く、見守っていただけると嬉しいです。感想・ブックマーク・評価が、次章を書く、何よりの力になります。本当に、ありがとうございました!

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