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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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第24話 梯子を外す者

はじめまして。鉄菊と申します。

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。

更新は毎日18時です!

なるべく続けていきます。

よろしければブックマークをお願いします!

エンポリアへ帰って、季節が一つ巡った。


 街は変わらず賑わっていた。市が立ち、川に荷が上り下りし、収税の帳簿は途中まできちんと見えていた。五本の柱はそれぞれの府で、日々を回していた。表向き、何も変わってはいなかった。


 だが、ロゴスだけは知っていた。自分の首に、王都から伸びる細い鎖が掛かっていることを。


 王都で自ら手放した、力の鍵。あの日以来、エンポリアの大きな一手は――兵を動かすことも、蔵を大きく開くことも、隣領と事を構えることも――すべて、王の副署を待たねば動かなくなった。王都からの、使いの往き来。一つの裁可に幾日もかかる。政は目に見えて鈍った。


(――縄は効いている。私はいま、自分の手足を王都に預けている)


 ガレアスはそれを、日ごと苦い顔で見ていた。


「ロゴスどの。……これではいけませぬ。裁可を待つあいだに、商機は逃げ、揉め事はこじれる。あなたは身の証を立てるために、この街の手足を縛られた。……街が、その付けを払わされておる」


「解っています」ロゴスは静かに答えた。「ですが、これは私が選んだ縄だ。……鎖が引かれるまでの猶予でもある。その間に、できることをしておきたい」


「――引かれるまで、とは」


 ロゴスは答えなかった。ただ、東の見えぬ王都の方角を、じっと見ていた。


---


 鎖は思いのほか静かに引かれた。


 その日、王都から一騎の早馬が着いた。監察使ドミティウスの名代である。広間で、彼は王の封を捺した二通の書状を、順に読み上げた。


 一通目。――故エンポリア領主アウレリウスが生前、王へ上申した、ロゴスを養い子とし跡目と定める件。これを、王は"裁可せず"と。


「先代アウレリウスの忠勤と、その眼力は、王も深く認めておられる」名代は乾いた声で読んだ。「なれど、跡目とは、血と家の事なり。辺境の農の子を、由緒ある商都の主と定むるは、国の古き筋目を乱すもの。……ゆえに、この上申は容れられぬ」


(――来た)


 ロゴスの胸の底が、すっと冷えた。だが、驚きはなかった。あの借り物の座を、彼は初めから知っていた。王の朱印の、ないままの椅子。その、たった一本の糸を、いま静かに切られたのだ。


 二通目。――エンポリアの新たな領主として、王は、さる王家に連なる年若き貴顕を任ずる、と。後見には、この地の儀礼を長く司ってきたオズヴァルト卿を充てる、と。


 広間の古参たちの列で、オズヴァルト卿の細い目が、勝ち誇りに光った。七代仕えた旧家の、その男が、ついに辺境の子を退けたのだ。


 だが、ロゴスは、その勝ち誇りの奥を見ていた。


(――卿。あなたも気づいていないのか。あなたは、勝ったのではない。使われたのだ)


 新しい領主は、まだ年若い、王家の傍流。政の実は、後見のオズヴァルト卿が握る。そして、その卿の背後には、結界札の元締めが、王命の根が、王都の高みまで、まっすぐに伸びている。豊かな商都エンポリアは、いま、ロゴスという「御しがたい手」からするりと抜き取られ、あの、村を痩せさせて食う輪の、いちばん太いところへ、そっくり収まったのだ。オズヴァルト卿は、その受け皿の飾りに過ぎなかった。


(この一年、私を憎み、貶め、査問に駆り立てた、あの市場の戯れ歌も、王都への言上も。……卿は、自分の格のために動いていたつもりで。その実、もっと上の手に、いいように梯子を登らされ――私が落ちた今、その梯子は、卿自身の足元からも、そっと外されている)


 ロゴスは、勝ち誇る老貴族を、憐れむような目で見た。だが、それを言葉にはしなかった。言っても届かぬ。人は、自分が誰かの駒だと、いちばん認めたがらない。


---


 その夜。ロゴスは、五本の柱とガレアスを、かつて自分の執務室だった、その部屋に、最後に集めた。


 誰も口を開かなかった。軍事のカシウスは、剣の柄を握りしめ、俯いていた。財務のニケは、唇を噛んでいた。通商のヨナスも、内務のオーウェンも、法のセウェルスも、言葉を探して見つけられずにいた。


「そんな顔をするな」ロゴスは静かに笑った。「私は、約束を守らせた。お前たちは、誰一人咎められない。仕組みも残る。収税の帳簿も、種籾の貸付も、王命で覆されはしなかった。……私が、王都で鍵を手放してまで守ったのは、これだ。お前たちと、お前たちが回す、この仕組みだ」


「ですが、ロゴスさま」カシウスが絞り出した。「あなたが、いなくなる。あなたが、いなければ――」


「回る」ロゴスは、はっきりと言った。「回るように作った。……いいか。もし、私がいなければ回らぬのなら、それは私の負けだ。私はこの一年、"ロゴスがいなくとも回る領地"を作ろうとしてきた。それができていれば――私が消えても、この街は回る。お前たちが、いる限り」


 彼は、五人を一人ずつ見た。


「オーウェンの記録が、街の記憶を繋ぐ。ニケの目が、銭の目減りを見張る。カシウスの剣が、街を守る。ヨナスの舌が、外と繋ぐ。セウェルスの法が、権を縛る。……お前たちが揃っていれば、私は要らない。それが、私の遺していく、いちばんの誇りだ」


(唯一無二は、弱さである。……アウレリウスさま。私は、私を唯一無二にしませんでした。だから、私が斬られても、この街は倒れない)


「一つだけ、頼みがある」ロゴスは声を落とした。「新しい主の下で、腐るな。抗って、潰されるな。……仕組みを生かして待て。いつか、この街に、私の敷いた仕組みが、"誰の手柄でもなく、当たり前のもの"になる日まで。そのときには、もう誰も、それを、辺境の子の平民びいきとは嗤わない。ただの、正しい政になっている。……お前たちは、それを守る番人だ」


 ガレアスが、老いた目を伏せた。白いものの混じった顎鬚が、かすかに震えていた。


「……ロゴスどの。わしは」老財務官は、掠れた声で言った。「あなたを、"小僧"と呼んだ。初めて会うた日、幼い頭で何が解る、と。……あの日のわしを、殴ってやりたい。あなたは、この一年で、わしが二十年仕えても見えなんだものを、見せてくれた。政とは、一人の名君の頭の中にあるものではない。皆で分けて持つ、仕組みなのだと」


「ガレアスどの」


「後見として、あなたを守り切れなんだ。……面目、ない」


「いいえ」ロゴスは、首を振った。「あなたが後見でいてくれたから、五人は守られた。あなたがいなければ、この別れは、もっと酷いものになっていた。……どうか、この街に残ってください。新しい主の後見として。そして、五人の盾として。あなたの白髪が、まだ、この街には要ります」


 ガレアスは、答える代わりに、深く、深く頭を垂れた。かつて「小僧」と侮った相手に、老臣が、貴人に対するように腰を折った。


---


 ロゴスに許されたのは、供二人と、身の回りのものだけだった。座も、名も、后見の力も、すべて王都の高みへ返した。彼をエンポリアへ導いた、あの梯子は、一段、また一段と外され、いま、彼は、来たときとほとんど同じ、身一つに戻っていた。


 街を出る、前夜。ロゴスは、一人、館の高い窓辺に立った。眼下に、エンポリアの灯りが瞬いていた。川。橋。市場。無数の屋根。かつて、老領主の死の朝、「今日から、この肩に載っている」と、身の竦む思いで見下ろした、あの街だ。


 その街は、今日も灯り、明日も灯るだろう。自分が、いなくとも。


(――それで、いい)


 胸の底に、負けの苦い味があった。だが、その苦さの隣に、確かに一つ、温かいものが灯っていた。自分は、負けた。座を追われた。だが、自分が遺したものは、自分と心中しなかった。仕組みは残った。人は守られた。街は回る。


(負けの中に、残せるものを、すべて残した。……ならば、これは、いちばん賢い負けだ)


 だが、その温もりの、さらに奥で、あの、王都で覚えた名状しがたい寒けが、まだ、消えずに蟠っていた。凪いだ目をした、若い男。私の名の意味を知っていた男。私と同じ高さで盤を見て、私の逃げ道の先で、いつも待っていた男。


(あの男は、誰だ。……なぜ、私を、これほどまでに恐れた。私は、まだ、辺境の、小さな商都の一領主に過ぎなかったのに)


 問いは、闇に溶けて、答えを返さなかった。ロゴスは、長いあいだ、その、見えない王都の方角を見つめていた。差した影は、まだ細い。だが、その細い糸の先が、どこまで伸び、どれほどの高さから垂れているのか――彼には、この一年で、いやというほど思い知らされていた。


 いつか、必ず、あの高さまで昇る。あの、凪いだ目の男と、同じ盤の同じ高さで向き合う。そのときこそ、この、名状しがたい寒けの正体を、掴んでみせる。


(――待っていろ)


 ロゴスは、窓を閉じた。明日、彼は、この街を出る。身一つで。だが、その胸には、この一年で掴んだ、途方もない"理"が、一つ残らず畳み込まれていた。それだけは、王も、誰も、返上させることができなかった。


(続く)


---


【今回の理論メモ】繰り返しゲームと裏切り――「また会う相手」には協調し、「もう会わぬ相手」は裏切られる


 ゲーム理論に、「繰り返しゲーム」という考え方があります。同じ相手と、この先も何度も付き合う(=関係が続く)とき、人は裏切りません。今日ずるをすれば、明日、仕返しをされ、信用を失い、長い目で損をするからです。信頼も、評判も、協力も、実は「この先も付き合いが続く」という前提の上に成り立っています。ロゴスがこの一年、エンポリアで築いてきたものは、まさにこれでした。約束を守り、評判を積み、人と長く関係を結ぶ。だから、人は彼に協力した。


 ところが、「これが最後の一回きり」=もう二度と会わない相手には、この歯止めが効きません。仕返しの明日が来ないなら、裏切ったほうが得だからです。ロゴスは、第二十三話で、自らを縛る鍵を王に預けました。それは、「王とは、この先も長く付き合う。だから、無茶はされまい」という、繰り返しゲームの読みの上に立った賭けでした。ですが、王都の高みにいる者にとって、辺境の一領主との関係は、"続くもの"ではなかった。むしろ、御しがたい駒は、依存させて無力にした、その一回で抜いてしまえばいい。梯子を外すなら、相手が、いちばん高く登り、いちばん頼りきった、その瞬間が、最も効くのです。


 現実でも、これは覚えておく価値があります。長く付き合う取引先や同僚が誠実なのは、必ずしも人格だけの話ではなく、「関係が続く」構造がそうさせている面がある。逆に、一度きりの相手、去っていく人、力関係が一方的な相手ほど、裏切りのコストは低い。だからこそ、大切な鍵を誰かに預けるときは、「この人は善い人か」だけでなく、「この人と自分の関係は、この先も続くのか(続く構造があるのか)」を、冷静に見極めねばなりません。ロゴスの敗着は、そこにありました。彼は、相手を、繰り返しの相手だと思った。相手は、これを、一度きりの、最後の一手だと見ていたのです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

前話でロゴスが自ら首に巻いた、王都から伸びる細い鎖。

今回は、その鎖が、静かに引かれる回――失脚が、ついに完成する回です。


 鎖は、驚くほど静かに引かれました。二通の書状。一通は、亡きアウレリウスの上申(養い子・跡目)を"裁可せず"。もう一通は、王家傍流の年若い貴顕を新領主とし、後見にオズヴァルト卿を充てる、と。ここで描きたかったのは、失脚の"本当の受益者"です。勝ち誇るオズヴァルト卿は、実は勝ってなどいない。豊かなエンポリアは、ロゴスという御しがたい手から抜き取られ、結界札の王命の根=あの縦軸の、いちばん太いところへ、そっくり収まった。卿は、その受け皿の飾りに過ぎず、私を落とすために登らされた梯子を、私が落ちた今、自分の足元からも外されつつある。「梯子を外す者」というタイトルは、ロゴスにだけでなく、卿にも、かかっています。


 今回の背骨は、繰り返しゲームと裏切りです。ロゴスは前話で「王とは長く付き合う。だから鍵を預けても無茶はされまい」と賭けた。それは、関係が"続く"ことを前提にした読みでした。ですが王都の高みにとって、辺境の一領主は"続く相手"ではない。依存させて無力にした、その一回で抜いてしまえばいい。梯子は、相手が最も高く登り、最も頼りきった瞬間に外すのが、最も効く。ロゴスの敗着は、才の不足ではなく、「相手を、繰り返しの相手だと思った」その一点にありました。


 そして、別れ。ロゴスは五本の柱に、そしてガレアスに、何を遺したか。「私がいなければ回らぬのなら、それは私の負けだ。私は"ロゴスがいなくとも回る領地"を作ってきた」――統治編を貫いた脱属人化の思想が、彼自身の失脚によって、最も苛烈に、そして最も美しく、証明されます。彼は座も名も後見の力も失い、来たときと同じ身一つに戻る。ですが、遺したものは、彼と心中しなかった。仕組みは残り、人は守られ、街は回る。かつて「小僧」と侮ったガレアスが、貴人に対するように腰を折る場面は、この一年の全てが結晶した瞬間でした。


 次回、第25話。いよいよ、ロゴスがエンポリアを去ります。第二章・エンポリア編の、締めくくり。栄光の絶頂から、どん底へ。ですが、どん底とは、もう、これ以上落ちない場所――つまり、すべての道が、上を向く場所でもあります。身一つに戻ったロゴスが、その胸に畳み込んで持ち出す、たった一つの、誰にも返上させられなかったものとは。そして、彼の足が、次に向かう先は。第三章・再起編への、扉が開きます。どうぞお付き合いください。感想・ブックマーク・評価が、次を書く、大きな力になります!

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