表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/42

第27話 最初の垣根

はじめまして。鉄菊と申します。

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。

更新は毎日18時です!

なるべく続けていきます。

よろしければブックマークをお願いします!

夜明けの霜がまだ畦に白く残るころ、ロゴスは猟師のノルドに連れられて、村の北の境に立っていた。


 目の前に、荒れた麦畑があった。境の畑――村のいちばん外れ、盗賊の出る林との境目に細く伸びた、共同の耕地だ。踏み荒らされていた。まだ青い穂が無造作に薙ぎ倒され、幾条もの足跡が、露に濡れた土に深く残っている。


「見ろ」ノルドが腰を落として、その足跡を指でなぞった。「刈るでも盗むでもない。ただ踏んでいった。……様子見だ。畑の広さ、村までの距離、逃げ道。全部測っておる。こんな真似をするのは、腹を空かせたこそ泥じゃない」


 ロゴスはしゃがんで足跡を見た。踵の沈み方がそろっている。歩幅も乱れがない。整然と歩く、訓練された足だ。


(――これは飢えて荒れた山賊の足ではない)


 彼の背に、冷たいものが走った。エンポリアで査問の末席に座っていた、あの凪いだ目の男。あの男のまわりに感じた静かな底の知れなさが、ふとこの辺境の土の上で蘇った。国境の盗賊の練度が、ある年、急に上がる。それがただの偶然かどうか、今のロゴスには断じられない。だが、覚えておく価値はあった。


 そのとき、林の方の畑で、犬がけたたましく吠えた。


 見れば、一軒の農家の裏手。低い垣根で囲われた菜園に、痩せた野良犬が鼻を突っ込もうとしていた。すると家の老いた女房が箒を握って飛び出し、犬を追い、垣根の破れをその場で藁縄で括り直しはじめた。まだ朝も早いというのに。


 ロゴスは、その老女の背をじっと見た。それから、踏み荒らされた境の共同畑を振り返った。こちらには誰も来ない。青い穂が倒されたまま放ってある。誰も起こしに来ない。


(――同じ村の人間だ。同じ朝だ)


 片や、犬一匹に箒を持って飛び出す。片や、畑を丸ごと踏み荒らされても誰も鍬を握らない。


(違いは一つ。あの菜園は"あの家のもの"で、この畑は"誰のものでもない")


 彼の胸の奥で、昨夜からのもやが一つ、形を結んだ。


---


 昼、村の広場に人が集まった。村長のゲオルグ。顔役のボルク。次兄のガイル。隣家のカイ――四年前、読み書きのできたあの娘は、いまや村で数少ない字の書ける若い女になっていて、ロゴスの頼みで、村の畑の割り付けを板に書き取る役を引き受けていた。


「境の共同畑を」ロゴスは皆を見渡して言った。「分けます。一枚ずつ線を引いて、それぞれの家のものにする。作った麦はその家のもの。よその者は手を出せない。……あの境の荒れ地が"誰のものでもない"のを、やめさせる」


 広場がざわめいた。真っ先に腕を組んだのは、やはりボルクだった。


「待て待て」ボルクは太い声で遮った。「都帰りの坊主が、よりによってあの境の畑を寄越そうというのか。あんな林の際の、盗賊にいちばん近い危ない土地を。……いいか、ロゴス。共同畑なら、刈られても村みんなの損だ。薄く分け合える。だが、あれを俺のものにしたとたん、盗賊に刈られりゃ俺一人の丸損よ。誰がそんな貧乏くじを欲しがる。境の畑なんぞ誰も欲しがらん。だから今まで"皆のもの"にしておいたのだ。……お前の言う、線を引くというあの理屈。あれは安全な村の内側でしか通らんぞ」


 もっともな反論だった。広場の幾人かが頷いた。ロゴスは、すぐには退けなかった。


(――そうだ。ボルクの言う通りだ。危ういから、誰も己のものにしたがらない。だから共同のまま放られて、いちばん無防備になる。……盗賊は、そこを狙う)


 彼は少し間を置いてから、口を開いた。


「ボルクさん。一つ伺います。今朝、林の際で犬を追い払った老いた女房を見ましたか。犬一匹に箒を持って飛び出し、垣根の破れをその場で括り直していた」


「……ああ、見た。あれは当たり前だろう。自分の菜園だ」


「そうです。自分の菜園だから命がけで守る。……では、なぜそのすぐ隣の、踏み荒らされた共同畑を、誰も直しに来ないのです」


 ボルクが詰まった。ロゴスは一歩、踏み込んだ。


「盗賊が境の共同畑を狙うのは、あそこが村でいちばん痩せているからではない。あそこが村でいちばん"守る者のいない土地"だからです。誰のものでもない畑を、命がけで守る者はいない。刈られても、皆で薄く損を分け合うだけ。……盗賊はそういう無主の境目を嗅ぎ分ける。獣と同じだ。抵抗のない所から食う」


「では、どうしろと」ゲオルグが皺深い顔で身を乗り出した。


「線を引くのです」ロゴスは言った。「境の畑を家々のものにする。すると初めて、そこに守る者が生まれる。自分の麦、自分の土地となれば、人は犬一匹にすら箒を持って飛び出す。まして盗賊が相手なら、守る理由ができる。……垣根は、木の枝でできているのではない。"これは俺のものだ"というその一念でできているのです。境を引くことは、畑を分けることであると同時に、この村に初めて"守る者"を置くことなのだ」


 広場が静まった。だが、ボルクはなお食い下がった。


「……理屈はわかった。だがロゴス、守る理由ができたところで、守る力がなきゃあ同じことだ。今朝のあの足跡を見たか。訓練された連中だ。境の畑を一人の百姓にくれてやって"さあ守れ"と言って、その百姓が鍬一本で、あの練れた盗賊どもに勝てると思うのか」


 ロゴスは静かに頷いた。ここでは退かなかったが、嘘もつかなかった。


「勝てません、一人では」彼ははっきりと言った。「私は剣が振れない。この村に、いまあの盗賊を力で押し返す術はない。……それは認めます。ボルクさんの言う通りだ」


 思いがけない率直さに、ボルクが目を瞬いた。


「ですが」ロゴスは続けた。「順序があります。守る力をそなえる、その前に。まず"守るに値するもの"を作らねばならない。誰のものでもない土地を、いくら大勢で守ろうとしても、人は命を賭けない。他人の畑のために槍は持てない。……まず境を引き、"これはお前のものだ"と定める。守る理由のない者に、力は宿らない。垣根が先。刃は、その次だ」


---


 その日のうちに、最初の線が引かれた。


 境の共同畑のうち、いちばん林に近い、いちばん危うい一枚。それを名乗り出て引き受けたのは――ガイルだった。


「俺がやる」次兄は皆の前で鍬を地面に突き立てて言った。「弟の言うことだ。……いや、弟だからじゃない。俺は聞いていて腑に落ちた。誰のものでもないから荒れる。なら、誰かのものにすりゃあいい。そのいちばん危ない一枚を余所の者に押しつけて、俺だけ安全な内側の畑を取るのは、筋が通らねえ」


 ロゴスは、兄の日焼けした顔を見た。四年前、村を出る彼をただ一人理解してくれた、あの兄だった。喉の奥が、また熱くなった。


 その日、村の男たちが集まって、ガイルの新しい畑のまわりに垣根を結った。低い、粗末な木の枝の垣根だ。盗賊を防ぐには、あまりにも頼りない。だがそれは、この村に初めて引かれた"境"だった。誰のものでもなかった土地に、初めて"持ち主"が生まれた印だった。


 ノルドがロゴスの隣に来て、その頼りない垣根を見て、鼻を鳴らした。


「こんな枝の囲いで、あの足跡の連中が防げると思うのか」


「防げない」ロゴスはあっさりと認めた。「これは盗賊を止める壁じゃない。……村の頭の中に引く線だ。これまで誰も守らなかった境目に、今日初めて"ここはガイルのものだ、余所者は入るな"という掟が立った。人が境を守るということを思い出す、その最初の一本だ」


 果たして、その夜。


 林の際で犬が吠え、松明が二つ、三つと揺れた。盗賊の先触れが、ガイルの新しい畑の垣根まで来て――そして、止まった。垣根の内では、ガイルと数人の男たちが、ノルドの指図で暗がりに伏せ、鎌や棒を握って、身じろぎもせず待っていたのだ。誰のものでもない畑なら、誰も伏せなかった。だが今夜、そこはガイルの畑だった。


 盗賊はしばらく垣根の外で探るように留まり――やがて松明を伏せ、林へ引いていった。無主と思って来た土地に、初めて"待ち構える目"があったからだ。彼らは抵抗のない所から食う。今夜は、そこに抵抗があった。


 だが、ロゴスは喜ばなかった。引いていく松明の動きを遠くから見て、彼は静かに確信した。あれは追い払われたのではない。ただ"今夜はやめておく"と判じただけだ。数をそろえ、刃をそろえて、また来る。垣根と、伏せた村人たちの覚悟は、盗賊に一晩のためらいを与えた。それが精一杯だった。


(――守る理由は、できた。だが、守る力は、まだない)


 境を引けば、人は守ろうとする。だが、その素朴な覚悟を束ね、鍛え、刃に変える者が要る。剣を振れる者。人に剣の振り方を教えられる者。……ロゴスの頭の中に、一人の老いた武人の顔が浮かんだ。禿げ頭に刀傷。かつて、剣の才のない彼を、それでも「剣は解っておる」と評し、こう約束した男。


『いつか兵を率いる日が来たら、剣はわしが振る。お前は振り方を教えろ』


(――オルド)


 その約束を交わした日から、もう四年。あの老兵は、いまどこにいるのか。


 ロゴスは垣根の内から、暗い林の向こう、そしてその遥か東の空を見た。あの王都の高み。凪いだ目をした若い男のいる高さを。あそこまで昇るには、まずこの痩せた谷に"守る力"の芯が要る。掟を、垣根を束ねて刃に変える、最初の一人が。


(垣根は引いた。次は――剣だ)


 剣も振れぬ十六の少年は、頼りない木の枝の垣根に手を置いて、東の白みかけた空をまっすぐに見据えた。


(迎えに行く。約束を交わしたあの人を。……この最初の垣根を、本物の防壁に変えるために)


(続く)


---


【今回の理論メモ】所有権プロパティ・ライツ――「自分のもの」が、人を働かせ、守らせる


 前回の「コモンズの悲劇」は、〈誰のものでもない共有資源は荒れていく〉という"問題"の話でした。今回は、その裏返し――〈では、どう直すか〉という"解決"の話です。答えの一つが、「所有権をはっきり定める」こと。経済学では、これを「プロパティ・ライツ(所有権)の設定」と呼びます。


 所有権には、二つの力があります。一つは、前回描いた「肥やす力」。自分の土地なら、人は水をやり、肥やしを入れ、明日のために手を掛けます。手を掛けた分が、まるごと自分に返るからです。そしてもう一つ、今回の肝が「守る力」。人は、自分のものは犬一匹にすら箒を持って飛び出して守ります。ですが、誰のものでもない共有地は、踏み荒らされても誰も直しに来ない。だから、外から掠め取ろうとする者は、決まって「無主の境目」を狙うのです。抵抗のない所から食う――盗賊も獣も、同じです。


 ロゴスが引いた「最初の垣根」は、盗賊を物理的に防ぐ壁ではありませんでした。それは「ここは誰のものか」を村人の頭の中に刻む、一本の線でした。線を引いた瞬間、これまで誰も守らなかった土地に、初めて「守る者」が生まれる。守る"理由"のない場所には、どれだけ人を集めても、力は宿りません。だからロゴスは言います――「垣根が先、刃は次だ」。守るに値するもの(所有)を先に定めなければ、守る力(武力)を注いでも空回りする、と。


 現実でも同じです。担当者の決まっていない共有の仕事は、誰も改善せず、誰もトラブルから守りません。逆に「これはあなたの担当あなたのもの」と一線を引いた瞬間、人は初めて、それを育て、守りはじめます。放置されがちな何かを立て直したいなら――まず、持ち主を決めること。すべては、その最初の一本の垣根から始まります。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。第三章・再起編の、二話目です。


 前回、ロゴスは村の貧しさを「コモンズの悲劇(誰のものでもないから、誰も肥やさない)」と診断し、「まず直すのは柵でも鍬でもなく、掟だ」と再起に着手しました。ですが末尾、猟師ノルドが持ち込んだのは、例年と数も練度も違う盗賊の足跡。ボルクの「線を引けと言うが、守る力がこの村にはない」という正論が、最初の壁として立ちはだかりました。今回は、そのまっすぐ続きです。


 今回の背骨は、所有権プロパティ・ライツ。前回が「みんなのものは荒れる」という問題編なら、今回は「では、線を引く」という解決編です。ですが、ただ線を引くだけでは、賢い読者もボルクも納得しません。だから、いちばん手強い反論をぶつけました――「境の畑は、盗賊にいちばん近い危ない土地だ。自分のものにしたとたん、刈られれば自分一人の丸損。だから誰も欲しがらず、共同のまま放られて、いちばん無防備になる」。これはもっともな理屈で、実際その通りなのです。ロゴスはここで、安易に勝ちません。「一人では勝てない。私は剣が振れない。守る力は、まだない」と、正直に認めます。


 その上で彼が示した順序が、今回のいちばん伝えたかったところです。所有権には「肥やす力(前回)」だけでなく「守る力」がある。人は自分のものは命がけで守るが、誰のものでもない土地に槍は持てない。だから――守る力をそなえる前に、まず"守るに値するもの"を定めねばならない。「垣根が先、刃は次だ」。ロゴスが引いた最初の一本の粗末な垣根は、盗賊を防ぐ壁ではなく、村の頭の中に「ここは誰のものか」を刻む線でした。そして次兄ガイルが、いちばん危ない一枚を「余所者に押しつけて自分だけ安全な畑を取るのは筋が通らねえ」と自ら引き受ける。四年前、村を出る弟をただ一人理解してくれた、あの兄です。この一線から、痩せた谷の再建が、ようやく地面を離れて動き出します。


 そして夜、盗賊の先触れは、初めて"待ち構える目"のあった垣根の前で、引いていきました。ですが、それは追い払われたのではなく「今夜はやめておく」と判じただけ。所有は「守る理由」を生みましたが、素朴な覚悟を束ね、鍛え、刃に変える者――剣を振れる者、剣の振り方を教えられる者は、まだいません。ここでロゴスの頭に浮かぶのが、禿げ頭に刀傷の老兵。かつて「兵を率いる日が来たら、剣はわしが振る。お前は振り方を教えろ」と約束した、あの人です。次回、ロゴスはついに、散り散りになった仲間を"迎えに"動きはじめます。垣根を、本物の防壁に変えるために。


 なお、今朝の足跡が「飢えたこそ泥のものではない、訓練された足だ」というノルドの見立てと、ロゴスがそこに、王都で対峙したあの凪いだ目の男の底知れなさを重ねた一瞬――この不穏は、覚えておいていただけると、後々効いてきます。


 地面から一本ずつ、垣根を、人を、積み上げていく再起の物語を、どうか末永く見守っていただけると嬉しいです。感想・ブックマーク・評価が、次を書く何よりの力になります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ