4、答え合わせ
「鶴羽っ!」
帰りのHRが終わり、皆が席を立ってそれぞれが散ってゆく中、俺は鶴羽の後ろを静かに着いていき、一人きりになるタイミングを伺うと、ついに声を掛けた。
中庭に面した渡り廊下で、鶴羽がゆっくりとこちらを振り返る。
その顔はいつもと変わらず朴訥としていて、まるで何百年も年輪を重ねた立派な大樹のような雰囲気があった。高校生らしからぬ落ち着きが、鶴羽の中には佇んでいる。
「どうしたんだ?」
「いきなりごめんな。 あの、お前にちょっと聞きたいことがあってさ……」
聞きたいこと。鶴羽はそういって俺の言葉を繰り返すと、その切れ長の瞳を真っ直ぐにこちらへと向けた。
俺は少しだけそわそわしながら辺りを見渡し「ちょ、ちょっとこっち来て…」中庭へと鶴羽を引っ張っていくと木々の間の茂みに無理やり押し込めた。
その際不意に掴んだ鶴羽の腕が丸太のように太く、そのみっしりと詰まった肉感から鶴羽に襟首を掴まれ背負い投げされる妄想が脳内で自動再生される。
人間の脳とは恐ろしいものだ。
意思に反して映像巧みに予期せぬ現実への危機感をこうやって教えられるのだから。
「佐藤?」
「あ、ごめん鶴羽…」
「何かあったのか?」
「あ、いや急に驚かせて本当申し訳ないんだけど…その、今なんか悩んでることとか、ある………?」
そう言いながら、恐る恐る、鶴羽を見上げる。
「悩み?」と鶴羽はひとたび呟くと、その目をくるりと丸くした。
「悩みは、特にないな」
「あーいや、そっか、うん、そうだよな。 なんか、急にごめん」
「なにかあったのか?」
そう言って鶴羽は少しだけ腰を折ると、心配そうに俺の顔を覗きこんだ。
威圧感は、確かにあるのかもしれない。
けれど、鶴羽の俺に歩み寄ってくれるその姿に、俺は意外性を感じながらも、でも嬉しさを感じていた。
きつく締められていた心のねじが途端に緩み「うん」と俺はひとつ頷いてから、思っていることをそのまま包み隠さず、鶴羽に打ち明けることにした。
「実はさこの間、鶴羽のノートに図形の丸だけがいっぱい書いてあるのを、その、見ちゃってさ」
すると鶴羽は少しの逡巡ののちに「あぁ、」と合点のいった声を出した。
「ちなみに今日は棒線いっぱい書いてあるのも、見てしまって」
「そうだったのか」
「ごめんな、勝手に見て」
「いや、それは全然構わない」
「だから俺、あんなに丸とか棒とかいっぱい書いちゃうくらい鶴羽はなんか思い悩んでることでもあるのかなあって思ってちょっと、いやかなり、心配になって、それでこうやって声を掛けたわけなんだけど…」
そう尻すぼみに呟く俺に対して鶴羽はじっとこちらを見つめたのち、やがて、ふっと表情を和らげた。
「それで、俺にわざわざ声を掛けてくれたのか、佐藤」
「…え」
「俺のこと心配して、こうやって誰にもバレないように、こっそり、わざわざ声掛けてくれたのか」
顔を上げた先にある目尻が細くなってほのかに柔らかい表情を作り出している。
俺は呆気に取られた。
「優しいな、佐藤」
「ありがとう」と優しい雰囲気が、お礼を言う。
思ってもみなかった返しに、俺は身体と脳が追いつかない。
鶴羽が嬉しそうにずっとにこにことして、こちらを見つめ続けるので
「あ、いや、何も悩んでないのなら、その、良かったよ」
と、ちっとも痒くなんかないのに、俺は鼻先をぽりぽりと掻くしかなかった。
“意外“に手足を生やしたら鶴羽になるんじゃないかと思うくらいには、想像だにもしていない表情や言葉だった。
すると鶴羽は「俺、」と低い声で口火を切った。
「俺、実は、趣味で漫画を描いてるんだ」
……漫画?
再び寄越された鶴羽からの豪速球に、俺は見事に泡を食う。
それは風圧だけを感じて、肝心の球が見えないほどの凄まじい魔球だった。
「いい絵を描くためにシンプルな丸とか図形とかをたくさん書いて、いい線を描くためのストレッチというか、トレーニングみたいなことをよくやってるんだ。 佐藤が見た図形もその一環で」
「はあ」
「準備運動みたいな感じというか」
「ほお」
間抜けには行だけを繰り返す俺を見かねてか、鶴羽は背負っていたリュックを前方に持ってくると、その中からノートを一冊取り出した。
「こういう感じ」
そう言ってその無骨な手がノートをひとたび捲ると、その中には様々なポーズを取った人間や、俺が見た丸の図形ばかりが描かれたページや、様々な種類の絵がたくさん出てきた。
俺は初めて見るものばかりで、思わず、興奮のままに声を上げる。
「えっこれ全部鶴羽が書いたの」
「…ん」
「マジ!? やばすぎ!!」
鶴羽が少し躊躇しながらも「見る?」といった感じに差し出してくれたので、俺はまるで赤ん坊を預かるように、そのノートを両手で受け取る。
いくつも何度も線が引かれたページは空白のページに比べて少し硬質で、鶴羽の描いた線の鉛が重量を帯びていた。
俺の眼球は嬉しく忙しく右往左往して、全ての絵画を満遍なく見たがる子どもみたいにはしゃいだ。
絵のことなんて1ミリもわからないけれど、何年もの鍛錬がされているものだとすぐに分かるような円熟された巧さがそこにはあった。
眼球の角度による黒眼の位置、人間の身体の筋肉や骨の構造、光の当たり方による影のつき方、服の種類によって異なる皺の入り方。
絵に関しての勉学と探究。それが全て、ページの細部に至るまでそこかしこに詰まっている。
俺はただただ黙って、そして、感嘆の息を漏らした。
このノートの中には鶴羽の努力とひたむきな想いが、まるで化石みたいにたくさん埋まっている。
「すごいな鶴羽。 マジですごい。 めっちゃすごい」
「…ありがとう」
「なるほどな、こういう絵を描くために、あーいう丸とか棒とかシンプルな図形描いて手慣らしみたいなことしてんのか」
「そう、走る前のストレッチみたいな感覚でよくやってる」
「はー、なるほど」
「これを毎日やってると、次第に引くべきところに線が引けたりしてくるんだ」
「はあ」
「考えなくても身体が勝手に導かれるというか、線に引っ張られるというか」
「ほお」
なるほど俺にはさっぱり分からん、と思いつつも、鶴羽の凄さはノートから痛いほど伝わってきたし、鶴羽の情熱は俺の想像以上に彼の内側、そして遥か彼方地平線にまで広がっていくような領域で大切に秘められていることが、よく分かった。
「だから俺は何も悩んでないし病んでもない。 どうか安心してくれ」
「うん…よく分かったよ。 教えてくれて、ありがと」
俺は感謝と共に、そのノートを鶴羽に表紙が向くよう向きを変えてから丁重に返却した。
鶴羽もぺこり、と頭を下げながらそれを受け取る。
「鶴羽はいつから絵を描いてるの?」
「どうだろう。 小学校くらいからかな」
「へえ…そうかあ。 すごいなあ」
「昔から授業中も先生の話を一切聞かずに落書きしたり前の席のやつを模写したりとか、よくしてた」
「授業中までやってんのかい」
「だからテストはいつも散々だ」
「だめじゃん」
ふふ、なんて言って、鶴羽は空気を漏らすようにして笑う。
その俯いた瞳の柔らかさに、再び静かにはっとする。
鶴羽の好きなこと。鶴羽の大切なノート。鶴羽の初めての顔。
なんだか、想像していた鬱屈さとは正反対の純粋な答えが返ってきて、俺はひどく安心してしまった。
良かった。
鶴羽、思い悩んでたんじゃなかった…
良かった…




