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#9 第九十三噺


木守(きもり)龍治(りゅうじ)は、四国山にある療養所(サナトリウム)温泉施設の中庭で、

シャベルを片手に桜の木の下に立っていた。


あまり広くない庭を四方から囲む高い壁は、のっぺりと薄桃色に塗装されていて、全ての窓には鉄格子がはまっている。

龍治の視界に入る範囲にある全てのネモフィラの花壇は、ポツポツと咲き始めたばかりで、

春先に見られる青い絨毯のような見た目からはまだ程遠かった。


中庭の中心に立つこの桜の木は、一年近く前から幹が腐っていたが、今年の春、花を咲かせるのを最後に斬り倒されることになっていた。

そう。この桜は今年も満開に咲き誇るだろう。

龍治は木の根元から外側に向かって、円を描くように白い灰を撒き、

「……枯れ木に花を咲かせましょう…」と、わざと芝居がかった言い方で呟(つぶや)いてみた。


この温泉施設の高い壁と窓の鉄格子は、外からの侵入者を防ぐ為のものだった。


知る人ぞ知る名湯、ここ『龍神の湯』は、都心からそこまで離れていない距離にある隠れ家的な療養所兼保養所として、実は芸能人のようなセレブリティ御用達の人気施設であった。

この温泉の利点として上げられるのは、

交通の便の悪さと、不審な人物が近付けば一目瞭然になる森に囲まれた一本道の道路だった。

龍治は、そこを通るたった一つの交通機関であるバスに乗って、毎日この場所へ三々賀(みさんが)村から通(かよ)っている。


龍神の湯には、仕事に疲れた公人(おおやけびと)がお忍びで、日々代わる代わる訪れてきた。


今、泊まっている世間に疲れた有名人は5人。声優、アイドル、俳優、スポーツ選手。そしてVチューバーの中の人。

施設の厳格なルールで、それぞれの宿泊客は、いっさい交流をしないことになっている。生活をする時に使う導線も厳密に分けられ、彼らは顔を合わせることもないし、お互いの音が漏れることもない。そして勿論誰が泊まっているかも明かされることはない。

そして、何より逢い引きに利用されるのを避ける理由から、この療養所(サナトリウム)は一人でしか泊まることも出来ないようになっていた。彼らは希望があれば施設のスタッフとも顔を合わせることなく、滞在期間を孤独なまま過ごすことも可能だった。


龍治は、いつもこの時間は中庭に出て、植物の手入れをしている。その後は温泉の清掃をし、3から6号室に配膳した食事を片付ける予定が入っていた。


「龍(りゅう)さん。」と背中から声がかかる。

龍治はゆっくりと振り返り、しばらくは目の焦点を合わせるのに苦労するような素振りを見せながら笑い、やがて髪の長い若い女性と目を合わせた。

……この子は確か今年で26になるはずだったな。

だが目の前にいる女性は、まだ大学生のような雰囲気を持っていて、その色白で端正な顔立ちに、微かに疲れたような翳りを見せながら、

彼女は緩やかなレースを施(ほどこ)した白いブラウスに紺色のロングスカートという出で立ちで、「ご無沙汰しております。」と小さな声で言った。


「やあ冴木(さえき)さん、お久し振り。お泊まりになっていたんですね。」と龍治はシャベルを置きながら答える。

「『冴木さん』、だなんて堅苦しい呼び方はお辞めください。」そう答えた女性は、一瞬口の中で何かを言おうとしたが、すぐに呑み込み、「私、5号室に泊まっておりますので、その、…この宿泊中も色々と宜しくお願いいたします。」と頭を下げた。

「………ええ、わかっております。ではまた後程(のちほど)……」

そう言うと龍治も頭を下げ、回れ右をすると、裏口から建物の方へ戻っていく。


中庭に残された背の高い、長い髪の美しい女性、冴木みくるは、黒く捻れた桜の木を見上げ、…初めてこの施設に来た日のことを、静かに思い出していた。


…………。


………。


……。


あれは、みくるがまだ子役時代の頃だった。

彼女は母に連れられて、数時間おんぼろバスに揺られ、ここ『龍神の湯』にやってきたのだ。


賢く、品行方正、大人顔負けの演技力。小学三年生にして敬語を使いこなし、学校の成績も一番。大人達からは人生二周目と揶揄され、最年少で、日本マカデミー賞も取った。

元外交官のお爺さんと、体操選手だった母親、大学教授の父親との間に生まれた、

整った顔立ちと、長い手足の天使。


人気絶頂の四年生の春。みくるは、唐突に全てが壊れ、大きなキャスケット帽と、丸眼鏡、黒いマスクをした姿でバスの段差から降りてきた。


出迎えたグレーのジャケットを着た男性が、「お母様。申し訳ございませんが、ここでお引き取り願えますでしょうか。……ここからはスタッフがサポート致しますので。」と低い声で優しく語りかけてくる。


「……よ、宜しくお願いいたします……」と青ざめた様子の母親が言い、

「じゃ、みくるさん……お母さんは行きますからね。……一週間後に戻ってくるから。それまで一人でがんばるのよ。」と娘を抱き締めようとして拒否された。


「失礼ですがお母様。『頑張る』というのは適切な言葉ではございません。ここでは娘さんはいっさい頑張る必要はありません。……みくる…さんと言いましたか?」と、男性は片膝をつき、少女と目の高さを合わせた。

少女は顔をこちらに向けず、紺色のオーバーオールの脇に手を突っ込んで、軽く「チッ」と舌打ちをする。

「み、みくるさん??!その態度はなんですか??スタッフの方に謝りなさい!!」


「いえ。その必要はございませんよ。…

ご存知の通り、この療養所(サナトリウム)は外界から隔離されております。……まあ、簡単に申しますと、ここに宿泊されるお客様は、日頃のストレスを好きなように解消して頂いて構わないのです。……みくるさん?どうぞ思うままに好きにしなさい。ほら、お母様、バスの時間ですよ。すぐに乗らないと東京に戻れる次の便は、今日はもうありませんよ?」


母は、衣装ケース2つ分のスーツケースを施設のスタッフである龍治に預け、後ろ髪が引かれるように何度も振り返りながらバスのステップに乗った。


ブルルン。


エンジンが唸り、灰色の排気ガスを撒き散らしながら、天井の錆びたボンネットバスが、

舗装されていない道を揺れながら去っていく。


しばらく木守(きもり)龍治(りゅうじ)は、同じ背丈くらいのスーツケースと並んで立つ賢そうな少女を見下ろして、

何か反応がないか、黙って様子を伺っていた。


「…ん…ざり……」


少女が俯いたまま、何事かを呟(つぶや)く。

「ん?」と龍治が、耳を近付ける為に体を傾けた。


「うんざり……。」


そう言うと少女は大きなカボチャのような形をした帽子を地面に投げ捨てて、

中に畳まれていた長い黒髪を肩にふわさっと垂らした。


そしてバレエを踊るように片手を頭の上まで真っ直ぐに上げると、軽くピルエットを回り、


「『みくるちゃんは、マジメでえらいね~。』『小さいのに大人顔負けで、礼儀正しくって、ホンット羨ましい!」『綺麗なお顔よね~』」

と急に、少女は息を吹き込まれた人形のように身振り手振りを交えて、

まるでそこに、子役を囲う大人達がいるかのように、一人で何役もこなしながら声色を変えて演技を始めた。

「『大人になったら女優さんかな?お歌も上手だし、トップアイドルになったりして!それとも博士号とか取って研究者?お勉強も出来るし、みくるちゃんって本当に完璧ね~』『あ、そうでなかったらモデルさんになってパリコレに出るかも!!』」


呆気に取られ、龍治が少女のことを見ていると、

彼女はピタリと動きを止め、

「クソが……」と呟(つぶや)いた。

そして徐(おもむろ)に、白く細い指を自分の顔の正面に持っていくと、

いきなりそれを鼻の穴に突き刺し、鼻筋の形が変わるくらいにかき混ぜた。


……驚く龍治の目の前で、少女は黄緑色の粘膜を鼻から引き摺り出して、それを桃色の唇に突っ込んだ。


ニチャニチャと音を立てながら少女は咀嚼を繰り返し、「……なに見てんだよ?冴木みくるちゃんが、鼻糞食べてんのがそんなに珍しいかよ??」とガラガラ声で吐き捨てるように言った。


**************


木守(きもり)龍治(りゅうじ)は、冴木みくるの芸能界でのその後の活躍を、詳しくは知らなかった。


三々賀(みさんが)村の住人は、外界のテレビ番組を見る機会がない為、

唯一の文化的娯楽は、宮代(みやしろ)様主宰で行われる祭りの時期に、村の公民館でかかる映画だけだった。

そこで龍治は、女優冴木みくる主演の戦前を舞台にしたラブストーリーを見た。

長女の沙因(さより)は、うっとりとそれを見ていた。


……あの子は、外の世界に憧れ、村を出た。


村を出た女は、生きているうちに二度と三々賀村に戻ることは許されない。

ただ……、この四国山には足を踏み入れることは可能だ。……いつの日か……、大学を卒業した沙因(さより)が帰ってきて、皆でご飯でも食べる日が来るだろうか。あの子は意志の強い子だから、そう簡単には帰省はしないだろう。お義母さんは、本当の意味で沙因(さより)を許してはいないだろうが、久代(ひさよ)と紬(つむぎ)はいまだに寂しがっている。……それは俺も同じだ。


龍治は、離れた棟にある3から6号室を順番に巡っていき、客が食べ終わった夕飯を回収し終えると、

最後に、飛ばしていた5号室の前に戻った。


…………。


うキィィィィィイィィィイ??!



防音が施された分厚い扉の向こうで、遠く小さく、…女性の金切り声のようなものが聞こえる。

微かに、激しく物がぶつかり合う音が聞こえ、急にドン!!と扉が震える。


少し驚いて身を引いた龍治は、いったん食事のワゴンを廊下の反対側まで押し戻し、マスクを付けると、ポケットから白いゴム手袋を取り出し、それを肌に密着させながら装着した。

そして、コンコン…と軽くノックをして、返事がないのでしばらく待ってみると、

数分後、…内側からくぐもった言葉にならない大きな怒鳴り声が返され、それを合図に「入ります」と、龍治は扉を外側から合鍵で開けた。


5号室は長年、冴木みくる専用の宿泊部屋となっていた。


室内には基本何もなく、周囲は真っ白な壁に囲まれ、シングルベッドと簡易的な机と椅子だけが置かれている。

床も天井も真っ白で、窓はなく、換気口が東の壁に備え付けられて静かに唸っていた。


扉を開けた瞬間に、強い臭(にお)いがマスクの下にある鼻腔を突き刺してくる。

冴木みくるは、先程着ていたサテン地の白いブラウスと紺色のスカート姿のまま、部屋の中央の床にペタンと座り込んでいて、

……床一面、壁の至るところ、そして天井の一部にまで……、濃い茶色から黄土色に擦(こす)り付けられた練り物(▪▪▪)のようなものが、激しく飛び散っているのが目に入った。

それは、みくるの艶やかな黒い髪の毛にもこびりつき、

床に伏せられた両手の、か細い指の間で今もクチャクチャと握り潰されている。


龍治が入ってきたのを見ると、冴木みくるは「……日本マカデミー賞受賞の女優が、壁中にカレーを撒き散らしているのがそんなに珍しいか!!」と怒鳴り、拳の中に握り締めた緩い固体を、彼の足元にビチャッと投げつけた。

手に握ったものをそのまま口に運ぼうとするみくるの腕を、龍治は素早く抑え込む。

「何をする!!」とみくるは口の端から泡を吹きながら叫び、

龍治が「……やめなさい。それは汚ないから。」と言って、強い力で、だが優しく腕を下ろさせた。


「へ?……あはははは……汚ないのか??お前何を言ってる?!ここにいる私、冴木みくるはな!人気ナンバーワンの清純派女優だぞ?小さい頃から美少女子役(こやく)の称号を欲しいままにして、毎年、お嫁さんにしたいタレント一位をキープし続けているんだぞ?!どんなに暑い日だって汗をかかないし、いつどんな時でも花のようないい薫りがしてるんだぞ?!それが、はあ??汚ないだと??」

「ああ。汚ないよ。……そして臭(くさ)い。マスク越しでも鼻が曲がりそうだ。」


「あはははは、あはははは……」

みくるは涙が出るまで笑い続け、「クソが!」と口に溜まった唾をペッと床に吐いた。

やがて脇の下から、だらんとした身体を支えられ持ち上げられると、

溢(こぼ)したカレーの残りを床に引き摺りながら、まだ粘り気のある汚れを、白い足から垂らしつつ温泉場へ運ばれていった。


***************



入浴を終えたみくるは部屋着に着替え、

リラックスした様子で、脱衣所の外にある風通しのよい休憩室で、

部屋の掃除が終わるのを待っていた。

少し離れた所に置かれた扇風機から、弱く不規則な風が流れてきて、汗を心地よく乾燥させていく。

タオルの中に纏めた長い髪からは、シャンプーの良い薫りが下りてきて、一房垂れてきた髪の束を鼻に持っていくと、優しい匂いを胸一杯に吸い込む。


丸い藤の椅子に身体を沈めるみくるは、

少し顎を上げながら、長い睫毛の生えた目蓋を閉じ、

……龍さんは、いったい今お幾つなんだろう……と考えていた。

50代?いえ、それとも40台後半くらい?いつまでもお若く見えるけれど、出会った時、私が子供だったことを考えると………私のお父さんより年上?それとも年下?とつらつらと思いを馳せていた。


木守(きもり)龍治(りゅうじ)は仕事中、宿泊客に怪我をさせないよう、いつも指輪を外していた。


冴木みくるは、初めてこの療養所(サナトリウム)に来た日から数えて何年か経ったある日の午後から、龍治の左手の薬指を、彼に気付かれない程度に観察するようになっていた。


……龍さんは、あの年齢になるまでご結婚をされていない………。

龍さんは、私みたいな若い女のことをどう思っているのだろう……。

龍さんは何処にお住まいなのだろう……。

その場所で龍さんは、ずっとお一人で寂しく暮らされているのかしら……。


みくるは、苦しそうに胸を抑え、

……誰も本当の私を知らない。日本中の誰も……。

そう、龍治さん以外は……。と思い、「お前らみんな○ね……」と日本中の人間に向かって毒づき、


いつしか彼の住むまだ見ぬ遠い土地へ、狐のように列を作りながら嫁入りしていく自分を思い描いていた。


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