#42 第六十噺
「ふう。さすがに今日は疲れたの。もう帰るとするか。」
蟲姫はそう言うと、畳の上に伏せられたおしめ縄を名残惜しそうに見て、「……まあ、仕方がないか。これはここに置いて帰ろうかの。」と、伸ばしかけていた腕を引っ込めた。
そして「久しぶりに脳犯で帰るとするかの。」と呟き、床の上で傘のように開いたスカートに手を伸ばした。
「……ご苦労様です。」と、紬は畳の縁の内側に三つ指をついてお辞儀をし、「……ところで、蟲姫様、そのセーラー服はホタルの物ではなかったでしょうか?」と上目遣いで尋ねた。
「……確かに。そうじゃった。忘れておった……。返さぬといかんな。じゃが妾は今日はもう疲れた。このまま真っ直ぐ屋敷に帰りたい。」
蟲姫は、本当に疲弊しきったように背中を丸め、ミントグリーンのクッションを腰の上にあてがいながら溜め息を吐いた。
「……そうじゃ。宮代の服はここに置いて帰るから、黒の髪よ。おぬしが返却しておいてくれぬか?」
「お着替えはどうされます?」と紬が言い終わるのを待たず、
白髪の美少女は胸元のリボンをほどき、スルスルスル…とセーラー服の上を首から脱いでいった。
「ちょ??!姫様??」と慌てて紬が目を瞑る。
しかし瞼を閉じ切るのが一瞬間に合わず、紬の目には上半身の白いお椀と、優しい赤茶色の丸いボタンが見えてしまった。
「ひ、姫様??ブラしてないんですか?そんな無防備な姿になったら、また百蟻様が出ますよ?!」「ん?妾の髪はまだ乱れておるか?ブラシして帰るからおぬしのを貸してたもれ。
ちなみに百蟻の方は大丈夫じゃろ。先ほど鎮魂したばかりじゃからな。徐々に九十九蟻などもこの家から去っていくだろうて。」
ゴソゴソと紬の衣装箪笥を漁る音が聞こえ、「何か着て帰れるものはないか?」と白い曲線美の少女が言った。
「て、適当にどうぞ!ブラもお好きなものをお貸し致しますので!」と首まで真っ赤になった紬が、目を閉じたまま言い、
蟲姫が「……なんじゃ、本当にどれも穴だらけじゃな。まあ、妾のせいで虫達が活発になったのが悪いのじゃが……。でもな?元はと言えば宮代が妾のことをひと月も放っておいたのが悪いのだ。…あ、しもうた」
「な、なんですか??」と紬が堪らず目を開けて、白肌の白髪少女がこちらにプリン♡と桃色のお尻を向けて立つ方へ駆け寄っていった。
「いやな。今、封印を解いていたことをすっかり忘れておった。」そう言って蟲姫が指差した先には、彼女の髪の毛から虱のように落ちてくる虫達が、
リアルタイムで紬の服を食い荒らしている最中だった。
「うひゃ!??」
編んだ長い髪を、しっぽのように振り払いながら紬が割り込んできて、一番上のシャツをバサバサッ!と荒っぽくひっくり返す。
「重ね重ね、すまぬの……」
腕で胸を隠した蟲姫がこちらを真っ直ぐに見つめながら言った。
「いいから下も隠してください!」
蟲姫は今この瞬間、てへぺろ☆をしようとしていた舌を引っ込め、「そう怒るでない。」と…下は丸出しにしながら呟いた。
「そうじゃ!この前おぬしが着ておった、あの護身防具を貸してくれぬか?」
「だ、駄目です!そもそもあれはお祖母ちゃんのお部屋にありますし!しかもあれは木守家の大切な家宝ですからお貸し出来ません!」
「……そうか…」と蟲姫は残念そうに肩を落とし、「……今日はもうあまり力を使いたくないが、致し方ない……」と言うと、
先ほど空けた直径3センチほどの壁の穴に近寄っていった。
そして再び白い髪を尖らせると、スパン!と穴の直径を10センチほどに拡げ、唇の端からフィィィィィィ………と歯笛を吹き始める。息が続かなくなった辺りで、蟲姫はいったん紬を振り返り「さらばじゃ。今日は楽しかったな?あ!あとな、家の者には妾がお漏らししたことは内緒じゃぞ?!言ったら家族全員呪い殺すからな!」と赤い目をして言った。
バサバサバサッ……と壁の裏側で羽ばたく音が聞こえ、一気にブワァ!と穴から翡翠色の葉っぱのようなものが大量に吹き出してくる。
よく見るとそれはオオミズアオという蛾の大群だった。その手のひらよりも大きい翅は、淡い青緑色をしていて、
瞬く間に蟲姫の白い身体を囲っていくと、旋回しながら徐々に肌に張り付いていった。
紬は、舞い散る鱗粉に咳き込み、巨大な蛾に覆われていく姫の姿を、涙で滲んだ視界に納めると「……お、お帰りですか!?あ、ありがとうございました!!」とようやく叫ぶことが出来た。
「ゴキげんよ~~」と蟲姫が手を振り、ぶわん!と身体全体が蛾の群れと共に持ち上がっていく。
そして「あっちじゃ!!」と南東を指差すと、一瞬にして竜巻のような突風が吹き荒れ、
メキメキメキ!!と天井の一部を吹っ飛ばしながら空へ向かって飛び去っていってしまった。
「ちょ?!?」と紬が高い声で怒鳴り、反対側の壁へ叩きつけられると、
フワリフワリ……と…タツマキ旋風機の力で完全に乾いた黒パンが、
上空から舞い落ちてきて、紬の頭にふわさっ……と当たった。
「紬??今の音はなあに!?もうお祓いは終わったの??」と言いながら久代が部屋に駆け込んでくる。
そして、ぶち抜かれた屋根を見上げ、「……また修理が必要みたいね……」と言って溜め息をついた。
「最近、雨が降らないからいいけど……紬?しばらくこのお部屋は使えないわね……」
紬は頭の上から黒い布をどかし、空を仰ぐ母親の顔を見た。
「蛍ちゃんは帰ったの?」と久代が尋ねる。
「珍しいわね、蛍ちゃんがお稲荷さんを食べずに帰るだなんて……で、トイレの工事(?)はもう終わったの?百蟻様の駆除は済んだのかしら?」
「駆除はもう終わったと思う……」と紬が答え、「でも御手洗いには小さな穴が空いているから、お父さんに塞いでもらわないと駄目かも。」と付け加えた。
「他は?」と久代が言う。
「お風呂場は、湿気がこもらないようにしてって。換気扇の場所が汚れてるみたいだから掃除をしないといけないみたい。……男子トイレの方は結局確認してもらわなかったよ。」
「……まあ、でもそっちの方もしばらく使えなくても問題ないと思うわ……」と久代が静かな声で言った。
「え?でもお父さん困るでしょ?」
「困らないわよ。」
……だって龍治さんはいつも私のお口に、「ただいま」の熱い●ス(^з^)をしてくれるから……。
今でも新婚のように熱々な両親が、基本それらの水場を利用していないことなど知る由のない娘の紬は、
頭の上にクエスチョンマークを出しながら、
……やはり後日、蛍にちゃんと見てもらった方がいいかしら……と考えていた。
****************
しばらく学校を休んでいた宮代蛍は、暗涅4日目を過ぎ、
巫女服姿で木守邸を訪ねていた。
盗まれていたセーラー服を受け取りながら蛍は「………蟲姫様は派手に暴れたみたいね………」と言って、紬の部屋の天井に張られたブルーシートを見上げた。
「紬ごめんねー、ホタルちゃんが看てあげられなくて。」
「もう、いいよ。今回の綿朱は重かったんでしょ?…何のかんので蟲姫様に百蟻様を退治してもらえたし。」
「でもその結果、天井はぶち破られ…ツムちゃんのお洋服はほぼ全滅……。これじゃ巫女の力がアンネで暴走してもおんなじだったかもね。」と蛍は言いながら衣装箪笥を覗き込んでいた。
「ツムちゃん、……あの黒パンは無事?」と蛍が心配そうな表情で聞いてくる。
「え?ああ、無事よ。お洗濯してしまってあるわ。なんなのよ、いったい……そんなにあのおパンツが気に入ったの?私はもう履きたくないんだけど……」と紬が言った。
「なら私に頂戴!次のアンネの時にあれを履いて、辛い夜を乗り切るわ!」
「……か、考えとく……言ってもあれは、いまや私にとって貴重な、虫に喰われていない数少ない下着の一つだから……」と紬は言い、そっと引き出しを閉じる。
「考えといてね!……じゃあ早速、実況検分といきましょうか。百蟻どころか、蟲姫様の呪いが残っていないか確認しておかないと!…久々に食べるおばさんのお稲荷さんも楽しみ♪まずは御手洗いから見ていきましょう。」
蛍は、畳の上に伏せられていた乾いたおしめ縄を捲り、下に隠れていた枯れたタンポポに、瓢箪から出した謎の白い粉を振りかけると、聞こえないくらいの小さな声で祓え詞を唱えた。
2人の少女は、ギシギシと鳴る廊下を進み、突き当たりにある厠に到着する。
蛍は扉の鍵が『青』なのを見てから、一度軽くノックをして、…返事がないことを確認したうえで慎重に把手を握り、ギィィィィィ……と手前へ引っ張った。
「おっとぉ…?」と言ってすぐに蛍が後ろへ一歩退く。
「どうしたの?」
「いや、クチナシの花にオオスカシバの幼虫が発生してるわよ……」「え?」
紬が後ろから覗き込むと、タイル張りの床に置かれた一輪挿しの白い花の周辺に、
緑色の太い芋虫が落ちていて、黒い角を立てながら這い回っていた。
「き、昨日まではいなかったのに……」
「まだ卵だったんじゃない?蟲姫が産み付けていったのよ、きっと。」
「うへ……」と言ってから紬は、「……壁の穴も確認してもらえる?」と言った。
蛍はパンジー柄のビニールスリッパを履き、水場を跨いで奥の壁に顔を寄せた。
「おじさんが塞いだの?」
「うん。その日のうちにお父さんがパテで埋めてくれた。」
「う~ん……」「なあに?駄目?」
「紬……言っては悪いけど、こんな簡易的な補修だと、一ヶ月も経たないうちに白蟻が出て、すぐに九十九蟻になってしまうわよ。」
「……そうか。やはり駄目か……」
と、2人の背後から低い声がして、少女達が振り向くと、
そこには紬の父親の木守龍治と、祖母の幸が立っていた。
「あ、お父さん。」「あ、おじさん、おばあちゃんコンニチワ」
「蛍ちゃん、先日はありがとうね。百蟻様を退治してくれただけでなく、こうやってアフターケアもしてくれるなんて、本当に助かるよ。」と龍治が言うと、
「いえ、先日のあれは私では……」と言いかけた蛍の口を、慌てて紬が塞ぐ。
(……やめて、ホタル、蟲姫様のことを言ったら家族全員呪い殺されちゃうわ……)(ん?ああ、ゴメンゴメン)
「ところで、蛍ちゃん?やっぱりここはもう駄目かね……」軽くウェーブした髪に、艶のある整髪料をつけた銀縁眼鏡の落ち着いた男性が、諦めた様子で微笑みながら言う。
「ああ、はい。多分、もう駄目かと。」
「……そうか。では、ここもそろそろ洋風にリフォームしなければならないね。」
「ダメじゃ!!」
と、鋭いダミ声で幸が割り込んできた。
「お義母さん?」と龍治が眉を八の字にして大袈裟に肩を落として振り返る。
「洋風はダメじゃ!!許さぬ!木守家に異人の文化は入れさせぬぞ!」と言って老婆がキッ!とこちらを睨んだ。
「……でもお義母さん…、和風は九十九蟻のリスクを20パーセント増やすと言われていますよ……。これを機会に、この部屋を洋風に改築した方が良いのでは……蛍ちゃんはどう思いますか?」
巫女姿の蛍は、う~ん……と胸の前で腕を組んで考え込み、
「そうですねぇ……。水洗である時点で、かなりリスクは軽減されていますから……まあ、和風のままでもいいんじゃないですかね……ただし、この部屋は今日から封鎖すべきです。百蟻神よりももっと恐ろしい神により汚染されていますから。」
蛍は巾着から取り出したリトマス試験紙を便器に浸し、それが虹色に染まるのを確認しながら言った。
(……あちゃー……これは蟲姫様が垢舐めしちゃってるわね……。もう手遅れだわ。)と蛍は胸の中で思い、
「後ろに下がっていてください。」と木守家の人々を、廊下の反対の壁まで下がらせた。
「……あまつみやごともちて あまつかなぎをもとうちきり……」
と唱えながら三々賀村の巫女宮代蛍は、懐から葉のついた榊の棒を取り出し、そこに結ばれた紙垂を優雅に左右に振り、
……狭い入り口に肩をぶつけてよろけながらヒョロロロロ~と舞いを踊った。
そしてトイレットペーパーを凄い勢いでカラカラカラ……と空中に引き出すと、祓え串でそれを綿菓子のように巻き取り、
シュパン!シュパン!シュパン!と、壁!天井!床!とジャンプしながら小部屋に白い紙で立入禁止のテープを縦横無尽に張っていった。
「とりあえず宮代がリフォーム業者を手配します。工事が終わるまでここはゼェッタイに使用しないでください!」
「ちょぉっと待ってよ、ホタル??!じゃあうちは今日からどこを使えばいいのよ??」と紬が金切り声を上げた。
「ツムギさんのお話によれば、もう一つの水場はあの神に侵入されなかったとのこと。そちらをお使いください。」
「いやいやいや?ホタル?あっちは男性用よ?!わかってる??」
「これ、紬。」と幸が形式ばかりに孫を注意した。
「蛍さん、孫の言うことは気にしないでくださいまし。…誠にありがとうございます。これでしばらくは我が家も安泰でございます。」と幸と龍治が深々と頭を下げる。
「え?え?え?お祖母ちゃん?お祖母ちゃんは昔の人だから立って出来るのかも知れないけどさ??
あと、お父さんは言わずもがな……。でもお母さんと私はどーするのよ??て、言うか、大きい時はどーすんの??誰か教えてよ!おかーさん?!ちょっとこっち来てーーー!!!」
****************
「では、しばらく紬を宜しくお願い致します。」
と、木守龍治はもう一度頭を下げながら言った。
「はい。お任せください!」と、宮代の巫女が嬉しそうに返事をする。
「責任持ってツムギさんをお預かり致します。」
紬は、まだ納得していないような顔をしていたが、
祖母からおみくじの紙がいっぱい入ったお菓子の缶を渡されながら「じゃあ……いってまいります…」と小さな声で言った。
「やったねツムちゃん!」と蛍が、髪の長い幼馴染みを小突く。「今夜はナニ食べる?一緒にお風呂入ったり、お布団隣り合わせにして寝れるね!あ、ついでに夜なべも手伝ってくんない?おしめ縄があと60本くらい残ってんのよ。(コソッ…)」
紬は歯磨きセットをリュックにしまいながら、「……わかった手伝うよ……居候させてもらうんだから仕方ないわ……」と言った。
「やったぁ~!」と蛍は跳びはね、
「ついでにお風呂場も封鎖しときますから、木守家の皆さんは今日から銭湯にでも行ってくださいね!」とテキパキと指示を出した。
廊下の奥の方から、エプロン姿でお稲荷さんを包んだ風呂敷を持った久代が現れ、
「あら、それじゃあ龍治さんのお勤め先に行けるかしら……」と言った。
何となく、幸と久代と紬と蛍は、ここにいるただ1人の男性、龍治の顔をじー……っと見つめ、黙ったままの家長が何か言うのを待った。
「………。」
「龍治さん?」
「ん?あ、ああ、ゴメン。ちょっと考えごとをしていた。……うん。いいんじゃないかな。家族割もあるし。…思えば紬が小さい頃、沙因も一緒に行っていた時以来だね。あ、そういえば、ターナーさんの所の愛衣花ちゃんだっけ?彼女もこの前スパリゾートに遊びにきていたようだよ。」
「……あの子、まだあそこに行ってたの……」と蛍が呟いた。
「いや、勿論中学生は入れないからね。まあどのみち本人も男の子と一緒に入るのは嫌だったみたいで、どうやら女性限定のナイトプールが目当てだったようだね。未成年だからそれも門前払いだったけど。結局、家族風呂にも入らず、ICUで集中治療だけを受けて帰ったらしいね。」
「メイカちゃん……ナニやってんのよ……」と紬が床を見つめながら言う。
「では、予約の空きを見て、我々大人達は『龍神の湯』に泊まりにいこう。」と龍治が言った。「それまではタライで行水かな。では、蛍ちゃん。年頃の紬は宮代様のお宅にしばらく泊めてやってください。宜しくお願い致します。」「わしは行かなくて良いぞ。木守の家で番をしておるから。」と幸が言う。
久代は「あら!久しぶりの夫婦水入らず、楽しみね」と微笑み、「いってらっしゃい♡」と言いながら、娘の髪に特大のおみくじを結んでやると、嬉しそうに夫の横顔を見た。




