#41 第六十一噺
娘の紬に連れられて、背中を向けた宮代蛍が部屋に入っていく姿を見送ると、
久代はレモネードをコップに注ぎ、それをお盆に乗せて後を追った。
蛍ちゃん…埃で髪が真っ白になるまで頑張って……。蜘蛛の巣で頭にベールを被ったみたいになっていたわね……。
娘の部屋の戸は固く閉じられていて、中からは会話どころか、物音一つ聞こえなかった。
久代はお盆に乗せたコップ2つをうまくバランスを取りながら片手に持ち代え、
……トントン…ともう片方の手で軽くノックした。
しばらく間が空いてから、引戸が小さく開き、紬の顔が半分覗く。
「お疲れさま。蛍…ちゃん…の様子はどう?お疲れじゃない?ジュースを持ってきてあげたわよ。」と久代が言う。
「……お母さん、ちょっと向こう向いてて…」 と娘が言い、「ん?」と母が目を逸らした瞬間に、
紬は素早く扉を開け、すぐにピシャッ!と背中で閉め直しながら久代の目の前に飛び出してきた。
「な、なによ」と久代が若干驚きながら、傾きかけたお盆を水平に持ち直す。
「お母さん、ちょっと聞いてもいい?」
「なあに突然?」
「……お母さん?最近変なことに気付かなかった?……そ、その、変な視線というか……気配というか……。ど、どうやらうちの御手洗いに百蟻様が出ていたようなの……た、例えば、変な物音とかに気付かなかった?」と紬は言い、改めてその気持ち悪さに吐き気を覚えていた。
「え。」と久代はキョトン…とした顔をし、
「あ、いや、その……と、と、特に気付かなかったぁ?かしらね……」と言って視線を宙にさ迷わせた。
「そう……。私も正直、何も気付けなかった……」と言って紬も悔しそうに唇を咬む。
久代は、
(……実はここ数日、龍治さんからガラスの容器にすることを強要されていたから、……正直、しばらく御手洗いを使ってないのよね……。)と心の中で思い、
執拗な娘の視線を避けながら、「……あ、これ蛍ちゃんと一緒に飲んでね……」とお盆を娘の手に押し付けた。
「お母さん」
「ん??な、なあに?!」逃げようとしていた久代がビクッとして立ち止まる。
「……百蟻様のお祓いが終わるまで、御手洗いは使わない方がいいよ……でも、…………我慢出来る?」
「え?あ?いや…お母さんは平気よ。あ、慌てないでゆっくりお祓いして、って蛍ちゃんに伝えてね…オホホホホホ………」と久代は裏手で頬を押さえながら後退りして台所の方に去っていった。
紬は、……お母さん、すっかりセーラー服姿の蟲姫様を蛍だと勘違いしてるわ……と思い、ジュースを乗せたお盆を持ちながら、肘で上手に扉を開けた。
紬の部屋の中央には、セーラー服を着た蟲姫がちょこん、と座っており、お腹の辺りにミントグリーン色のクッションを抱えている。
「姫様。お母さんから差し入れです。お飲みになりますか?」
紬は床にお盆を置き、汗をかいたグラスを一つ、蟲姫の方へ寄せた。
「『お母さん』か………」と蟲姫は少し寂しそうに笑い、「思えば昔そういう制度もあったのぉ……」と言いながらレモネードを手に取った。
白髪の美少女は、薄い黄色の液体をグイッと一気に飲み干し、「これも懐かしい味じゃ」と言った。「……よ、よろしければ私のもどうぞ。」と紬が自分のコップも差し出す。
「ああ。悪いな。後で百蟻を誘き寄せる為にいっぱい飲んで、お腹に水を溜め込んでおかねばな……ゴクゴクゴク……」
蟲姫の身体の中に流れ込んだ冷たい水が、ぐるぐるぐる……と彼女の胃腸を鳴らす音が聞こえた。
「ところで黒の髪よ?」「は、はい。」「玄関で聞いた先ほどの会話の様子だと、おぬしには『お父さん』もおるのだよな?」「はい、おります。」
蟲姫はクッションを抱いたまま、肘を垂直に埋め、お腹をぐいぐいとマッサージしながら「……ではもう一つの水場はどこにあるのじゃ?」と言った。
「もう一つ?」
「そうじゃ。男用の方じゃ。あるのじゃろ?」
「は、はい…ありますが。それが何か?」
蟲姫は難しい顔をして、「一応そちらも確認しておこう。」と言う。
「で、でも姫様?……あっちの方は……お父さんしか使ってませんよ…」と紬が居心地が悪そうに、正座した脚を組み換えた。
蟲姫は返事をせず、「よし。そろそろおしめ縄を解こうかの……」と言って立ち上がる。
「え………」と紬も思わず立ち上がり、警戒するように壁まで下がっていった。
蟲姫は、紺色のスカートの中に手を突っ込むと、がに股になり、手際良くシュパパパパ……と白いおしめ縄をほどいて畳の床にポトンとそれを落とした。
「ふ、封印を解いてしまって大丈夫なんですか………」
紬は足元に落ちたドビー織りの綿布から、また一歩離れるように後退りをする。
蟲姫は夏の女子校の女生徒のように、スカートの裾をはしたなくパタパタとさせると「あースッキリじゃ。風が心地好い……」と言い、「黒の髪よ、いったんこのままではマズいゆえ、何か適当なパンツを貸してたもれ。」と手を差し出してきた。
すでにむわぁぁぁん……と漂い出していた妖気に紬はあたふたとして、「こ、これをどうぞ……お使いください……」と引き出しから、お馴染みの黒いうさちゃんプリントパンツを引っ張り出してくる。
蟲姫は素早くそれに脚を通すと、
……ん?と驚いた顔をして、「この黒パン……履き心地抜群じゃな……どんな魔法がかかっておるのじゃ?」と聞いた。
「あ、はい……私にも何か分からないのですが……それ大人気なんです……この界隈で………」と紬が言う。
「さて。」
と、蟲姫はニ、三度屈伸運動をした後、「では男用の小部屋に案内せい。」と言った。
「……な、何故、行く必要があるのですか?た、多分、百蟻様は……その……男には興味…ないんですよね……?」と言って紬は、床に置かれたままのおしめ縄に、あまり気に入っていない貰い物のピンクのスカーフを被せ、
部屋の戸を薄く開けると廊下の様子を伺った。
「おぬしはまだ若いから知らぬと思うがの」と白髪の少女が静かに口を開く。
「大正から昭和にかけての頃はな。女も皆立ってしておったのじゃ。」
「……………。」
「はいぃ????」
「そんなに驚くこともなかろうて。昔の女は着物を着ておったしな。立ってするのは理に叶っておったのじゃ。まあ、さすがに時代と共に妾も座ってするようにはなったがな?昔は老いも若きも中腰で、後ろに向かってピッ!と上手に飛ばしておったものじゃ。」蟲姫はお尻を突き出して、握った両拳を手首のところで合わせ、顎の下でハートを作るとベロを出しながらウィンクをした。
「か、可愛く言ってもダメです!」と紬は真っ赤になりながら叫ぶ。
蟲姫は突然「…三々賀、三神、弁天堂、チョロチョロ流れる蛇腹川、イキな姐さん立ち小●……大したもんだよカエルのション●♡」と歌うように言って、何故か偉そうに人差し指で天を差し示しながら、片手をスカートのウェスト部分にあてがうポーズを取った。
「それ最近、どこかでも聞きましたよ??その口上、流行ってるんですか??お母さんの買ってた雑誌に、『ウーマンリブ』とか書いてありましたけど、それの一環ですか??」
「いや、その言葉は知らぬが……後でおちゃっぴーに聞いておこう。……いや、話が逸れてしもうたな。それでな?昔は、百蟻神なんかも、こそこそ隠れてはおらんかったんじゃ。多分、女の方が隠すようになってから百蟻も、見つからないようにこっそり盗み見るようになったのではないかな。」
「……つ、つまり?」と紬は額の汗を拭きながら聞き返した。
「つまりな?堂々と立って用を足せば百蟻もすぐに姿を現して、きっと目の前に座って見てくると思うのじゃ。……そこを一気に捕まえる……というわけじゃ!」
蟲姫は得意気に、正面にいる髪の長い少女を見つめ返した。
「…………お、お好きにどうぞ………。姫様がそうされたいなら、そうしていただいて構いません……。ただ……あまり床を汚さないでくださね………」と紬は言った。
「何を言うておる??するのはおぬしじゃぞ?」「はあ???いや、おかしいですよね?さっき蟲姫様が囮になるってご自身で言ったじゃないですか?」
「……いや、それがの……誠に言いにくいのであるが……」と言って蟲姫が床を指差した。
「このおパンツが気持ち良くってな。……封印を解くのが少し早かったかも知れないの………。もう出てしもうた……」
ジョロジョロジョロ………と白髪の少女の足元に大量の水が流れ落ち始め、真珠色の足袋をレモネード色に染めていった。
「ちょっと姫様??!」と怒鳴って紬は大急ぎで棚から、雑巾に使えそうなタオルを掴んでくると、畳に流れ出す水を塞き止めながらゴシゴシと左右に腕を振った。
四つん這いになった紬の長い髪が垂れてきて、溢れ出す水に浸かって濡れそうになり、片方の手で急いで背中に跳ね除ける。
「立ってするどころの騒ぎじゃないですよね?!せめておパンツを脱いでからしてくださいよ??」
「すまぬ……」と蟲姫は恥ずかしそうに言い、「……しかし、おしめ縄以外にするのも気持ちが良いな……」と白髪を指でクルクルとさせながら言った。
「もう!」と紬は3枚目のタオルを畳の上で動かしながら、花菱の縁からニョキニョキとタンポポが生えてくるのを見て、「キャ!」と小さく叫んで尻餅をついた。
「悪いの…。ほれ、黒の髪よ、さっき外したおしめ縄を上から被せておくといい。数時間すれば枯れると思うぞ。申し訳ないのぉ……」
蟲姫はブルッ!と肩を震わせ、
「……これで妾は囮にはなれなくなってしもうた。黒の髪よ、やはりおぬしが潜入捜査をするべきじゃ。…ここはおぬしのうちじゃろ?責任を持って、その家の者がやるのが筋ではないか?それにこういうことは素人であるほど興奮するというし……」
「いや、待ってください!?無理です!ゼッタイ無理です!」
「まあ、そう言うな。多少は嫌かも知れぬが…、見られたところで、次の瞬間には百蟻はこの世から抹殺されるんじゃからの。なんなら奴の網膜を剥ぎ取って擦り潰してやろう。脳みそも靴で踏み潰して玄関石の縁にでもなすりつけておけば、おぬしのご用事を見た記憶は存在しなくなるぞ?」
「それでも嫌です!!」と、紬は目をばってんにして大声で叫んだ。
「……困った|女〈おなご〉よのお……」
蟲姫はそう言いながら、紬から受け取った4本目のタオルで脚を拭く。
「何がそんなに不満なのじゃ。百蟻を退治してやろうと言うておるのに。…このまま放置しておくと、至るところに覗き穴を空けられて、そのうち柱や壁がボロボロになって地震や台風の時に家が傾くぞよ。」
「で、でも……だからと言って、囮捜査しか方法がないというのはおかしくないですか??もっと他にいいやり方が無いんですか?!」と紬が言う。
「*ハア*何故そんなに頑なに拒否するのかのう………まあイマドキ女子は足腰が弱くなったというしのぉ。立ってするのは難しいか?それならば他の方法を試してみるか?」
「あるんなら最初からそう言ってくださいよ……(ホッ)そもそも姫様だって汚さずに出来てないじゃないですか。」
蟲姫は悪びれず、びちょびちょになった下半身に風を送りながらテヘ☆と笑い、「……まあ、なにも覗きは厠と風呂だけとは限らぬしな。」と言った。
「……もう覗きって言っちゃってますけど……」
「マニアには、ご両親がイチャイチャしておる部屋なんかも人気があるというな。」
「………いえ。うちのお父さんは厳格な人ですから……イチャイチャとかはしていないと思います……そういう子供っぽいことはしないはずです、多分。」紬はそう言いながら、甘やかされて育った自分を恥じて俯いた。
「そうなのか?」と蟲姫は言い、乾いた臭いを発してきた下半身にパタパタと風を送る。
「ウッ……き、着替えませんか…姫様」
白髪のセーラー少女は、「おお!その手があったか。」とポム!と手のひらの上で拳を打った。
「はい?」
「……3大覗きスポット、風呂、厠、更衣室。つまりな?女生徒の生着替えでも十分ということじゃ。」そう言って蟲姫は制服のスカートのボタンを外し、ストン!と足元に落下させた。
「キャ!?」と紬がパーでクロスした手で自分の顔を覆う。
そのままの姿で蟲姫は、キョロキョロと辺りを見回し、壁や天井に新しい穴が開かないかを確認し始めた。
「…………………やはり、風呂や厠に比べるとインパクトが弱いかの……」
「そうじゃ!」と姫は何かを思いつき、スタスタと正面の白い壁に近付いていった。
「…姫様?」と恐る恐る紬が閉じていた目を開ける。
湿った黒パンのお尻をこちらに向け、畳の上に膝を立てた姿勢の上半身セーラー服少女が、壁に向かっている。
「それ!」との掛け声の後、蟲姫はドリルのように纏まった白髪の先端で化粧壁の表面に、
上部に小さな穴を2つ、何故か下部には直径3センチほどの穴を一つ空けてしまった。
「姫様??!なんで穴を空けちゃうんですか??」
「まあ見ておれ。」と白髪の美少女は固くなった髪を手櫛で梳かし直しながら笑顔で振り返った。そして、立ち上がり迷いのない足取りで紬の方に戻ってくると、「木守紬よ。」と真正面から彼女の目を見据えて呼び掛けた。
「はい??」と紬が変な声で返事をした瞬間、「おぬしは美しいの」と囁いて、彼女の頭を掴み、鼻を斜めにずらしながら桃色の唇に柔らかく噛みついた。
「ぐじゅるるるる……みゅ、みゅしひみぇしゃま???……にゃ、にゃにを!???」
蟲姫は片側の腕をお尻に下ろし、「好きじゃ……愛してほしい…」と言って、もどかしそうに濡れた黒パンを脱いでいった。
「お、おやめください!」涎で頬を濡らした紬が、顔を仰け反らせると、
「……出たな」と言って、上半身セーラー少女はニヤリと笑って素早く振り返った。そして銀色の長い髪をしゅるるるる…………と回転させながら剣のようにギュン!と伸ばすと、
ズッバン!!☆
…という破裂音の後、先ほど姫が空けた壁の穴の下に、何か赤黒い芋虫のようなものがボトリ…と落ちるのが見えた。
ウギャァァァァァァァァァァァァ……!!
と壁の向こうから断末魔の叫びが聞こえ、
蟲姫は、アッハッハ……と高らかに笑った。
「穴とみれば突っ込みたがる百蟻の習性を利用させてもろうたわ!馬鹿め!湿度の高い百合を見られたかと思ったか!残念だったな!これで二度と悪さは出来ぬぞ!」
「姫様??」と紬は混乱した様子で、べたべたになった口を拭く。
蟲姫は、床の上で弓なりに反った茶色い芋虫(?)を摘まみ上げると、
それをポイ!と小さなお口に放り混み、ぷちゅ♡と汁を飛び散らせて噛み切った後、先端部をペッと足元に吐き出した。




