#4 第九十八噺
家に帰ってきた紬と父親の龍治は、早速ひこばえ神様の様子を確認するために、裏口から庭の方へ回り込んでいた。
「紬、ちょっとこれを持っていなさい。」
龍治はそう言うと片膝をついて土の上にしゃがみ込み、更に姿勢を低くしながら娘に帽子と鞄を手渡した。
彼は、手元のランタンによって作られた仄暗い灯りを頼りに、暗闇の中を慎重に覗き込むと「これは…確かに。何故だろう、今まで全然気付かなかったな」と言った。
「どう?お父さん」
「…………」
龍治は暗い顔をして立ち上がり、「……うん、まだなんとも言えないな。」と答えた。
「このタケノコは見たところ、20日後半ぐらいのものにも見える。知っての通りひこばえ神は、30日過ぎると祟り神になるというからね。これはまだ微妙なところだな。今のところ目立った動きはない感じだし……、正直明日の朝になってみないと分からないな。」
「……夜のうちに、畳を突き破ったりしない?」
と紬が小さな声で言った。
「ああ。多分大丈夫じゃないかな。このひこばえ神様からは、荒ぶっていらっしゃるような気配は感じられないし。…さ、もう家に入ろうか。今夜は蛍ちゃんが言っていた通りに盛り塩をしておけば、明日までは抑え込んでおけるだろう。」
龍治は娘から鞄を受け取り、背中を向けないように背すじを伸ばしながら立ち上がると、「ゆっくり。そう、目を逸らさないようにね。急な動作をしては駄目だよ」と言って、紬の腕を掴むと摺り足で後退りを始めた。
紬は息を止めて父のエスコートに従い、
緊張した面持ちで徐々に後ろに下がっていく。
10メートルほど動いたところで、龍治が「もう大丈夫だ。」と言い、ザザッと砂利を踏みしめ大股で家の正面に回り込んでいった。
そして「ただいま~」と大きな声を出し、玄関の引き戸を開けると、ランタンの火を消した。
三々賀村の人々は、基本、家に誰かいる時は鍵をかけないのが普通だった。
村人は全員顔馴染みであり、幼馴染みであり、同級生であり、同窓生であると言えた。人々は何世代も昔から宮代様に守られているという安心感から、
施錠するのは水車小屋と廁と風呂場くらいなもので、それらでさえも、とても厳重とは呼べない簡単な構造の鍵が使われていた。
「お帰りなさい」
と久代がすぐに玄関に迎えに出てくる。
湯上がり後の上気した身体に、柔らかな部屋着を纏った妻の姿を見て、龍治は「…ただいま」ともう一度優しい声で囁いた。
そのすぐ後に、すみれ色の着物姿の幸が現れ、「で、宮代様はなんとおっしゃっておったんじゃ?」と言ってきた。
「お義母さん。それがですね……」
龍治が帽子を玄関先のポールハンガーに引っ掛け、久代に革の鞄を渡すと、
静かに三々賀村の守護者の不在について説明をし、
代わりに明日の朝、蛍ちゃんが来てくれる旨を家族全員に伝えた。
「……ふむ。それならば、まあ、ひとまずは安心かの……」と、幸が呟くのを聞くと、
紬は、ホッとして思わず肩の緊張を解いた。
「……ところで龍治さんや。」と老婆が重々しい口調で唸るように言う。
「はい、なんでしょうかお義母さん。」
「今日な?龍治さんがおらん時に、久代が玄武様のことを冒涜するような言霊を吐いたのじゃ。」
「お祖母ちゃん?!」と久代が慌てたように手を顔の前で左右に振りながら言う。
「違うのよ?!龍治さん!あれは言葉のあやと言うか……ほら、お祖母ちゃんがあんまりターナーさんの所を嫌うものだから……」と、
横結びにした髪を肩のところで撫で付けながら、久代は必死に早口になって捲し立てた。
幸は、冷たい目で自分の娘のことを睨むと、
「龍治さん?久代はな、玄武様のことを、あろうことかカミツキガメと呼んだのじゃ。」と言った。
「………」
「………」
「………」
「………」
重い沈黙が玄関を覆い、
紬の耳には、廊下の向こうから聞こえる柱時計の振り子の音だけが聞こえていた。
数分が数時間にも思える、気まずい時間が過ぎた後、
龍治が
「……久代?今のは本当かい?」と言った。
「お父さん!お、お母さんを叱らないで!」と、紬が堪らず叫ぶ。
「……いや、紬。お父さんはお母さんを叱ったりはしないよ。……カミツキガメか……言い得て妙だな。なかなかうまいことを言うじゃないか。神様は異世界からいらしたことを考えると、三神様を外来種に例えるのはあながち間違いではない。」と龍治が微笑みながら言った。
「龍治さん??あんまり久代を甘やかしてはいかんよ?!
おい久代!!龍治さんは優しいけ、こうおっしゃってくださっとるけどな!!今度三神様をコケにするようなことを言うたら、わしが許さんからな?!」
そう言うと幸は、プンスカしながら奥の部屋に戻っていってしまった。
あはは……、と龍治は笑い、久代の肩を抱くと、「あんまりお義母さんを怒らせるんじゃないよ。」と言った。
久代も幸せそうにはにかみ、「はい、ごめんなさい。」と囁いた後、夫の胸板にそっと頭を預けた。
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その夜。
紬は、自分の部屋の布団の中で、落ち着かなさげに何度も寝返りをうっていた。
……………。
……ひこばえ神様はお怒りじゃないだろうか……。今夜のうちに床を突き破ってしまうことはないだろうか……。
お祖母ちゃんは、蛍が来てくれるから大丈夫みたいなことを言っていたけど、正直私はまだ不安。あの子、いい加減なところがあるし…。大好きなこのおうちが呪われてしまったらどうしよう……。
長い髪を緩くふんわりと三つ編みにした紬は、細かい花柄のパジャマ姿で上半身を起こし、
妙にドキドキする心臓を落ち着かせようと深呼吸をしていた。
………。
……駄目だ。眠れない。
紬はガサガサと静かに音をたて、まだ自分の温もりが残る布団を名残惜しそうに抜け出すと、
白い枕を掴み、それを鼻に押し付け、すぅ~~っと匂いを嗅いだ。
……シャンプーの中に薫る、妙に落ち着く湿った頭皮の匂い。
紬は内股になってしばらく畳の上にペタンと座り、夜の闇に目が慣れるまで青白い壁を見つめていた。
……ピシッ
……ピシッ
ふと意識を夜の静寂に戻すと、遠くで何かが弾けるような音がしていることに気付く。
紬はまだぼんやりとした頭を振り払うように、ふるふると左右に揺すり、
そっと唇を舐めると、ふらつきながら暗闇の中で立ち上がった。
……ギシッ
……ギシッ
廊下の奥から聞こえる小さな破裂音に合わせて、つま先立った紬は、いつしか音のする方へ歩き始めていた。
廊下の突き当たり、昔、お祖母ちゃんが踊りの稽古に使っていた広間から、
細い仄かな灯りが洩れているのが見える。
紬はゴクリと唾を呑み込み、片方の手でパジャマの襟口をギュッと握りながら、
広間の引き戸の隙間から、そっと中を覗き込んだ。
ビシッ!!
近くで聞くと思ったよりも大きな音が空気中に響き、紬は首をビクッと竦めた。
薄明かりが洩れる戸の、狭い隙間から見える広間の中央には2人の人影があり、
一方は立ち、もう一方は膝をついていた。
紬は、中にいるこの2人が誰なのかが分かると、息を呑んで、そのままほとんど呼吸が止まりそうになってしまった。
広間には焦げ茶色の作務衣を着た父親の姿と、
白い肌を露にした一糸纏わぬ母親の姿があり、
…母は身体を縄で縛られ、父の手により竹の定規で何度も何度も叩かれているところだった。
え?!
……お、お母さんが罰せられている!!や、やっぱり、玄武様を侮辱したことを許されていなかったんだ!!
母親の身体のあちこちは、きつく縛られたことで鬱血し始めており、痛々しいまでに皮膚には赤い傷痕が這っていた。
「……許して、許して、龍治さん……」と久代が、何処か夢見るような表情をして囁く度に、
父親の手に握られた定規が、ヒュン!と唸り、母親の白い肌を打ちつける。
2人のすぐ脇には、細長い花瓶に生けられた水仙が立っていて、行灯の薄明かりの中に、その白い花びらを浮かび上がらせていた。
丸い久代の尻には、いく筋もの赤いみみず腫れが出来ており、それでも構わず龍治は執拗に妻の身体を叩き続けた。
……や、やめてお父さん……お母さんを……許してあげて……
引き戸の隙間からその様子を見つめる紬の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ち、微かに産毛の生えた頬を伝っていく。
やめて……お父さん……。
……お母さんが、こんなに酷い罰を受けるのなら……私だって……罰を…受けるべきだ。
だって私は、昼間お祖母ちゃんに口ごたえをしたから……、お父さん?私だって罰を受けるべきだよね?………どうして私は罰を受けないの?
紬は自分の手首を、もう片方の手で強く握り、それでもどうしても目を逸らすことが出来ずに、母親が後ろ手で縛られた姿をそのまま凝視していた。
「許して……」ともう一度久代が言いかけたところで、龍治は黙って妻の長い髪を吊るし上げるように引っ張り上げ、
床に置かれていた猿ぐつわを掴むと、それを無理矢理に彼女に装着した。
「りゅうじしゃん………かんにん……」
そう呟く久代の口元から、きらきらと光るものが糸を引いて、痩せた肋骨の上に垂れ落ちる。
「誰が口をきいていいと言った!」と龍治が腕を振り上げ、妻の肌をビシリと叩く。
……やめて……お父さん……やめてよ……お母さんが可哀想だよ………。お母さんは悪くない……罰するのなら……私を……罰してよ………悪い子は私なんだから………
紬はその場で座り込んでしまい、肩を震わせながら涙をパジャマのズボンの上に溢し始め、堪らず耳を塞いだ。
龍治の腕が再び振り上がり、
「このっ!汚くて!臭いっ!女狐めっ!お前はっ!どうしようもなくっ!不潔でっ!醜い女だっ!恥を知れっ!」と強い口調で言いながら定規を連続で振り下ろす。
そして最後にビシリ!とひときわ強い一撃が、久代の尻を襲うと
「……ごめんなしゃい………」
と幸せそうに彼女は呟き……、
足元で細長い花瓶が倒れ、その受け口から腐りかけた茎の臭いのする生け水が、しゅうぅぅぅぅぅ……と静かな音を立てながら畳に染み込んでいくのが見えた。
紬は目を離すことが出来ず、
放心して半身を濡らす母親の様子を凝視し続けていた。
久代が水の上に座り込んでいるのを見て、龍治は急に表情を和らげ、
妻の側に跪くと、「……愛してるよ」と言って彼女を抱き寄せた。
そして、涎で濡れた猿ぐつわをゆっくりと外すと、汚れた足を優しくさすってやる。
久代が震える声で「……龍治さん……わたし、とっても幸せ……」と言って、夫に体を預けると目を閉じた。そして紬が見たこともないような表情をした母が、
「龍治さん、私は臭い虫です。だからいっぱい踏み潰してください。」と幼い女の子みたいな話し方で言うのが聞こえた。
…………。
………。
……。
………罰を受けたから…お母さんは許されたんだ……。
人は罰を受けたからこそ、許される。
それに引き換え私は。
一度も罰を受けず、だからこそ、許されることも、愛されることも、ない。
紬は青い顔をして立ち上がり、ふらふらと廊下を戻っていった。
……ふと、脳裏にあの言葉がよみがえる。
『夜寝る前に、決して水を飲んではいけません。』
紬は、すぐに首を振り、腰が引けたように身体をくの字に折ってパジャマの襟ボタンを強く握った。
……私、なにを考えているのかしら……。恐ろしい考えだわ。これも全部ひこばえ神様のせい?
いくら、お父さんに本気で怒られたいからって、村の禁忌を破ることを考えるだなんて、……私、本当にどうかしている。
紬は、すでに冷えてしまった布団に戻り、頭から毛布を被ると、膝を抱え、繭のように丸くなった。そして目蓋をギュッと閉じ、
「……ごめんなさい……」と小さな声で呟き、自分が父親に叩かれている姿を想像しながら「……ごめんなさい…ごめんなさい…」と何度も囁いていた。




