#5 第九十七噺
フンフフ~ン♪
まだ肌寒い台所に、朝食のお味噌汁の香りが漂う中、
鼻唄を歌う木守久代が、桶に入れた酢飯を木のしゃもじで縦に切っている。
久代が手を激しく動かす度に、着物の下からサポーターを巻いた細い腕が見え隠れし、
それが捲れ上がると、手首に昨夜の縄の痕が痛々しく覗いた。
彼女は頬を染めると、その傷を愛おしそうに見つめ、
まだひりひりする腰の下を、円を描くように優しく擦った。
「お母さん……」
背中から声がかかり、慌てて久代は手首の傷を隠すと笑顔で振り返る。
「あ、あら、紬?お早う…。今朝は早いのね?」
起きたばかりで、まだ髪を緩い三つ編みに纏めたままの娘を見て、母は優しい目をして、随分長くなったわね……と考えていた。
えらく機嫌の良さそうな母の様子を見て、
……昨夜の出来事は夢だったのかしら。と紬は考えていた。彼女の視線は、そのまま自然と湯気の立つ桶の中に注がれる。食欲をそそるお酢の匂いが、起きたばかりの胃を刺激した。
「ほら、今朝は蛍ちゃんが来るでしょ?うちがご用意するのはお稲荷さんだけでいいのよね?……あとお祓いが終わったらお味噌汁にタケノコを入れるから……そうね、あく抜きには1時間くらいかかるでしょうし……今日の朝御飯は遅くなるわね。」と久代が弾むような声で言った。
「お、お父さんは……?」と紬が言いにくそうに声を詰まらせながら言う。
「ああ。お父さんはもう先に起きてらして、畑を見にいってるわ。敷地内に悪い神様がいらっしゃると、土に夜盗虫が出るからって。お祖母ちゃんと一緒に出ていったわよ。30分くらいで戻るって。」
「ひ、ひこばえ神様のご様子は?」
「……さあ。お父さんはまだ大丈夫そうだって言ってたわよ?私にはそういうの、よく分からないから、お父さんや蛍ちゃんに任せておけばいいと思うわよ?……ほら、貴女は早く着替えて顔を洗ってらっしゃい。目やにが付いてるわよ?女の子はいつも綺麗にしていなきゃダメ。着替えたら朝のご準備を手伝ってね。」
紬は、白粉の良い薫りがする母を見つめ、頭をふるふると小刻みに振ると、黙って台所を後にした。
……昨夜のは…本当に夢だったのだろうか……。
紬は板の軋む廊下をゆっくりと進み、奥の広間へ向かっていった。
注意深く辺りを見回すと、そっと引き戸に手をかけ、紬は板壁を滑らせた。
昨夜とは違い、すぐに明るい広間と、大きな柱に挟まれた簡易的な舞台が目に入る。
水仙の花瓶は片付けられていて、隅に置かれた行灯からは、まだ煤と油の臭いがしていた。
夜、父と母が立っていた所の畳が、微かに変色しているように見えたが、近付くと気のせいのようにも思えた。
紬はその場で四つん這いになると、…躊躇いながらも畳の匂いを嗅いでみる。
すぐに菫のお香のような薫りが鼻腔をくすぐり、
逆にこの場所に匂いをつけていることが、昨夜の出来事が夢でなかったことを紬に確信させた。
**************
「遅いね。」
と、龍治が三神丘の方を見やりながら呟いた。畑から戻ってきた父と祖母が紬の方を向きながら言う。
「……あまり日が高くなると、ひこばえ神様が動き出す恐れがあるね。」
「そうや。早う蛍さんにお祓いしていただかんと、手に負えなくなる可能性があるやもしれん」と、今日は鶯色の着物を着た幸が微かに苛々したように言った。
縁側の前に集まった木守家の人々は、ひこばえ神の周りに簡易的なしめ縄を渡した棒の外に立ち、不安そうにお互いの顔を見合せていた。
「紬?アナタ、今から蛍ちゃんを迎えにいきなさいよ。」と久代が言う。「……ほんとこういう時、宮代様がおうちの電話番号を教えてくださっていればいいのになって思うわよね。」「これ、久代!またバチ当たりなことを言うて!!宮代様には昔から直接お伺いをたてにいくのが決まりじゃ!宮代様のお住まいにあのけたたましい電話のベルが鳴るところなど、想像できんわ!龍治さん?!久代をあんまり甘やかし過ぎないでくださいな!そもそも妻の教育は夫の務めじゃけ…本当に宜しく頼みますぞ……」
幸はそう言うと、はあ…と肩を落として「ほれ、紬。蛍さんを呼んできなさい。」と呟き、
グイッと孫の手を掴み、手のひらを上向きに開かせると、そこへ大粒の飴玉を置いた。
「…こ、これなあに?」と紬が戸惑いを隠せない様子で祖母を見つめ返す。
「蛍さんは小さい頃からこれが好きやったけ……。婆ばは心配しておるんよ。もしや、蛍さんは、ひこばえ神の除霊にあまり気乗りしておらんのかも知れん。無理もない。これは本来は若い巫女がやるものではないからの……。この飴ちゃんで何とかお願いしてもらえないやろうか。」
お、お祖母ちゃんこそ、蛍のことを甘やかしすぎじゃない……?
紬は心の中でそっとそう思ったが黙っていた。
それに…お父さんは陰でお母さんのことをちゃんと叱っている。お祖母ちゃんは知らないかも知れないけど、
お父さんはルールに凄く厳しい人だ。昨夜のお母さんへの躾?を見た限り、道徳、倫理に関して、お父さんは本当にきちんとした人だということが分かる。そしてそれを表に出さないところも立派だわ。
そう。……お父さんみたいな人格者は、なかなか居ない。よく考えたら、昨夜罰を受けたのだってお母さんが100%悪いんだし……。
紬は、尊敬する父の横顔を見ながら、
……でもなんでお父さんは私を叱ってくれないんだろう……。とまた考えていた。
「紬?」「は、はい??」
急に父に声をかけられて、紬は裏声になって答える。
「……悪いね。お祖母ちゃんの言う通り、紬が蛍ちゃんを呼びにいってはくれないだろうか。まだ子供とはいえ、蛍ちゃんの意志は宮代様の意志と同じことだ。朝いちにうちへ来ると言っていたにもかかわらず、ここへ来なかったということは、何か考えがあるに違いない。我々は強制は出来ないし、宮代様の決定に従うしかない。
……ただ、蛍ちゃんは紬とは小さい頃からの友達でもあるわけだし……、なあ、紬?お前から蛍ちゃんにお願いしてきてはもらえないだろうか。」
と、龍治は縁の下の方を睨みながら言った。
……まずいぞ。ひこばえ神の気配が変わったように感じる。このままだと、家の床を突き破るのも時間の問題……。畑の夜盗虫の数もかなり多く、30分でとても潰し切れる量ではなかった……。
龍治は努めて冷静な表情を保ちながら、次女の体を庇うように、しめ縄との間に斜めに立ち「行ってくれるね?」と穏やかな口調で言った。
…………蛍は寝坊しただけなのでは……。
宮代様のところは目覚まし時計のベルを鳴らした方がいいんじゃないかしら……あの子、学校もたまに遅刻するし……
無表情の紬は、「うん。行ってくる。」と答え、紙にくるまれた飴玉を手の中に握ると、すぐに走り出そうとした。が、背中を向けて動いてはいけないことを思い出して、ピタリと止まって慎重に後退りを始める。
それを見た龍治は「よく覚えていたね。偉いぞ。」と言い、「……紬は本当にいい子だな。」と付け加えた。
*************
その頃、宮代蛍は枕に涎を垂らしながら、ハッ!と目を覚ました。
ね、寝坊した!!
昨晩、ネップラのドラマを見過ぎた!!
面白かった!!
一気見した!!
蛍は、寝巻きのまま飛び起きて、ヤバッ!と衣桁に掛けてあった巫女装束をひっ掴むと、ボサボサの髪に霧吹きで水をかけながら、トースターから飛び出した食パンを口に咥え、あ、今日は紬の家でお稲荷さん食べるんだった……と皿にパンを戻し、野菜ジュースをコップに並々と注ぐと、腰に手を当てて一気飲みし、
台所の奥にある発酵器を開けて、グラタン皿上で一晩かけてアンモニアから、亜硝酸、硝酸へと変化して出来上がった硝酸カリウムを取り出した。
遅刻、遅刻~~!
蛍は、急いで緑色の瓢箪に白い粉を注ぎ入れ、
もう一つの黄色い瓢箪の方には、砂糖と木炭を砕いたものを混ぜた灰色の粉末を、
それぞれ折ったパラフィン紙を使って入れていった。
蛍は蓋をきつく絞めると、
机の上に散らかった粉を小皿に集め、試しにすりこぎ棒を使ってゆっくりと混ぜてみる。
そしてブツブツと口の中で祓詞を呟き始めた。
……かけまくもかしこき……
……もろもろのまがごとつみけがれあらむをば……
そこで蛍は『それ!』と指パッチンをする。
小さな火花が飛び、
ボン!!と流しの中で小さな爆発が起こると、
ゲホゲホ……と蛍は軽く咳き込んだ。
ま、大丈夫っしょ。なかなか上手に出来たんじゃないかしら。
………。
て、言うかのんびり実験なんかしてる暇はなかったわ!急がないと!遅っ刻、遅刻~!
蛍は流し台の中で溢れた粉に水をかけ、四角い宝石のような結晶が出来るのを見届けると、
緑と黄色の瓢箪を腰に巻き付け、鉄の御札を巾着に突っ込み玄関へ駆けていった。
**************
その頃、長い髪をいつもの後ろ3回束ねスタイルにした木守紬は、長袖のTシャツにジーンズという出で立ちで、
急ぎ足で参道を歩いていた。
……………。
紬は歩きながら、ふと違和感を感じて、足元の草むらに目をやった。
おかしい。
……いつもよりも虫の気配がする。
そう思った矢先に黄色と黒の縞々の蝶が、直線的に足元を横切っていく。
春の訪れを知らせるギフチョウ。
ふらふらせずに、まっすぐに参道の外へ飛んでいく。
……クスノキの杜に虫がいるなんて……
宮代様が本堂にいらっしゃらないせい?
紬が、一本鳥居の処に辿り着かないうちに、向こうから白い千早を靡かせた蛍が走ってくるのが見えた。
胸元に差した七五三鈴が、しゃんしゃんしゃん……と鳴り響いてくる。
「ごめ~~ん!つむつむ~!寝坊した~~!!」
蛍は紬に抱き着くようにぶつかってきて、ゲホゲホゲホ……と死にそうなぐらいに咳き込んできた。
「ちょ、ちょっと??唾飛ばさないでよ?!」と着崩れした見習い巫女の肩を掴み、後ろへ引き剥がす。
「ひ、ひ、ひこばえ神はまだ大丈夫だった??ツムギのおとーさん、遅刻したこと怒ってなかった?おばーちゃん心配してない?!」「お、落ち着きなさいよ。大丈夫かどうかはアナタじゃないと分かんないでしょ……ほら、なんかアナタの好きな飴玉持ってきたわよ…これでも舐めて気を静めなさい…」
「お!助かる~、紬気が利く~♡」
そう言うと蛍は、差し出された大きな飴玉を鷲掴みにして、ポイッとお口に放り込んだ。
その瞬間、「うぐ?!」と不吉な声を出し、一瞬にして顔が赤くなり、そのまま真っ青に変わっていった。
「ちょ??ホタル?!アナタなにやってんのよ??!」と紬が慌てて、巫女装束の親友を羽交い締めにし、彼女のみぞおちに組んだ拳をあてがうと、
一気に突き上げるように肋骨を押し上げる。
『ゲボン♡』
と、蛍の口の中からまん丸の白い玉が飛び出してきて、ぴゅーっと弧を描いて足元の砂利に落ちた。
ごぉへっごぉへっごぉへっ………
蛍は涙を流しながら紬の肩に手を置いて、「し、死ぬかと思ったわ……ありがとう……」と唇の端から糸を引きながら言い、最後に「おうぇ♡」と呻いた。
「ば………ばか過ぎて言葉を失うわ……。アナタ、そんなんで本当に大丈夫なの?」
蛍は恨めしそうに、地面に落ちた飴玉を睨み、「……チッ……3秒ルールはもう適用対象外ね……」と呟いた。
「…て、アナタ、この期に及んでまだ食べようと思ってたの??どんだけこの飴が好きなのよ…アナタ」と紬が言う。
「宮代家は甘いお菓子を食べちゃ駄目なの……。こういうの、うちは盆と正月にしか食べさせてもらえないのよ……。おやつは干し芋と干し柿がメインなの……誰か…じ、人工甘味料…を…私に。」と蛍が涙ながらに語るのを聞きながら、
紬は「アナタ、学校ではよくチョコとか色々食べてるじゃない……反動か何か知らないけど、その食生活の在り方……確実に太るわよ……」と言った。
紬は片目を瞑ろうとして両目を閉じ、テヘペロ☆をすると「わかったわかった。いつも私のことを心配して助けてくれる紬は、蛍ちゃんの第2のママよね!あ、さっきの臨死体験でちょこっと私が裾よけにお禊っちゃったのは内緒よ!」と言って、彼女の背中をドン!と叩いた。
「その情報いらない……」
参道の出口に向かっていく2人の少女の姿が小さくなり、やがて見えなくなると、
道に残された白い飴に、徐々に黒い蟻がたかり始めた。
蟻達は、べたつく甘い表面を吟味するように触覚を揺らし、次々に新しい仲間を呼んでくる。
宮代の杜の地面には、節足動物の乾いた足音が静かに満ちていき、
一本鳥居の向こうからは、不穏な風に似た淀んだ気配が、じっとりと吹き下ろしてくるかのようだった。




