#36 第六十六噺
魔が差したとしか言いようがない。
この温泉施設で、それらの物がセイレン星葉の目に入らないことは、まずあり得ないことであり、
自然と手の届く距離に整然と並べられていることに、宿泊客である彼女が気付かないはずはなかった。
洗面所の棚にあるアメニティ類の中に、琥珀色に輝く小さなガラス瓶を見つけた星葉は、
目を逸らしながらも、斜めに開いた棚戸の鏡に映った自分の顔が嫌悪に歪んでいるのを見ていた。
…微かに薫る香水の匂い。
喪服ワンピ姿の星葉は、う……と鼻と口を押さえて扉を閉めようとしたが、
……ふと、パパが煙草の匂いを隠す時に付けているオーデコロンの薫りを思い出して、もう一度棚の中を覗き込んでいた。
香水は嫌いだけど……私は……パパの煙草の匂いは嫌いじゃない……。たまに香る、焦げたようなお口の酸っぱい匂いも……。
その香りと重なるコロンの重苦しい甘い臭いは…、そう、あれは男の人の臭いだ………パパ……。
星葉は、白魚のような細い指で鏡の扉を開け、小さな隙間から、分厚いガラスで出来た小瓶を摘まみ出していた。
棚全体から漂う
海外製の石鹸のきつい臭い………。堪らず香水の瓶を洗面台に置く。
……臭い。
ふらふらと星葉は、洗面所の横に備え付けられたユニットバスの部屋に入り、そのままノロノロと黒いワンピースのフリル襟のボタンに触り始めた。
……魔が差しただけだ……。
星葉はそのまま着ていたものを順番に洗濯籠に押し込んでいき、周囲の壁にこびりついた石鹸粕の臭いに包まれながら、
最終的に、日焼け跡の全くない青白い肌を、壁に嵌めこまれた姿鏡に晒していた。
デパートの化粧品売り場にいるような女の、ファンデーションで肌を塗りたくった汚ならしい臭いがする……。気持ち悪い。気持ち悪いよ、パパ………。
心の中ではそう考えながら、自分自身がデパートの受付嬢のような見た目をしたセイレン星葉は、長い黒髪を白いお腹に向かって垂らすと、無造作にシャンプーのボトルを掴んでいた。
そして、それを両手を使って頭の上に持っていく。
……ワンプッシュ……。とろぉり……と、冷たい液体を髪の分け目に流し込むように垂らす。
強い臭い……。野生のものよりも強烈な……、濃縮された花と果実の甘く腐った臭い。
はあ、はあ、と星葉は口で息をしようとしたが、逆流して鼻腔に戻ってきた花臭を嗅いでしまい、一層、はあはあ……と呼吸を荒らげる。
……女の……化粧と、香水と、石鹸のいやらしい臭い………。
ああ臭い!!臭い臭い臭い臭い臭い!………堪えられない!!
星葉は顔を歪めながら崩れ落ちるように半分濡れたフロアの床に尻を落とすと、
頭頂からこめかみ、首、そしてうなじに向かって、真珠色のシャンプー液が、胸やお腹に流れていくのを感じていた。
次に星葉は、牛の刻印がしてある固形石鹸を手に取り、少し濡らした丸い角を使って、
頬から顎の下、そのまま脇腹と胸の前、おへその周りにかけてを、優しく弧を描くようになぞっていった。
(はあはあはあ。)
堪らなくなって星葉は、シャンプーのノズルをもう一押しすると、出てきたドロリとした固まりを、指に掬い、
それを自分の顔に近付け…、
おもむろに両方の鼻の孔の中に塗り込んでいった。
臭いよお………パパ……スタバはお花臭い女の子になっちゃったよお……。
ぬるぬるとした床にそのまま背中を擦り付け、
色の白いセイレン星葉は、長い髪を散らしながら、コンディショナーにも腕を伸ばす。
そして、もどかしそうに柔らかいお腹の上でプラスチックの容器を立てると、
シュコシュコシュコ……と激しい手のひらの動きで、白濁した溶液を下に向かって飛び散らせた。
それだけでは飽き足らず、星葉は立ち上がると洗面所に戻り、棚から歯磨き粉のチューブを掴んでくるなり、
指をもつれさせながらキャップを後方へ弾いて、なりふり構わず中のものを口へ直接注ぎ込んでいった。
グチュ……グチュ……グチュ……
強烈な臭いのする練りものが、彼女の口内で涎と混ざって、
歯と歯の隙間から溢れ出し、唇の端から、じゅるるるるる……と泡を立てて顎に垂れていく。
………パパ!醜いスタバを見て!!女臭くてお花臭い、ミルク石鹸まみれの私を見て…!!近くで嗅いで!!そして、スタバはすごく気持ち悪いねって言って!!!!!!
ジャッ、バーーーーーん。
カッポ~ン。
……………。
……スッキリ♡
セイレン星葉は、生まれてこのかた見たこともないくらいサッパリとした顔をして、
湯上がりの体に湯気を立たせながら、部屋に戻ってきた。
備え付けのバスローブに身を包むと、
……急に今まで感じたことのないほどの恥ずかしさが胸の底から沸き上がってきて、吐き気のように喉に戻ってくる。
……い、今の私を誰かに見られたら……もし、今の洗いたての私の姿をパパに見られたら………恥ずかし過ぎてこの場で死ねる自信がある………。
か、体に…まだ石鹸の臭いが残っているわ……。これじゃ私がお風呂に入っていたことがバレバレじゃない……。やだ……恥ずかしい!恥ずかしい!
星葉は慌てて、洗濯籠に押し込んでいた黒い喪服ワンピースを引っ張り出すと、さっきまで着ていた肌着も、靴下も、内側に汚れの残った使用済み保湿マスクも、全部元通りに身に付け直した。
そして、ユニットバスの床に残った泡を、シャワーを使って残らずお湯で流し、湯気と共に立ち昇ってくる臭いに、オエッと軽くえずく。
そう、魔が差しただけなんだ………。
二度とこんなことはしない………。
多分、冴木みくるんに会って、あの変態的な臭いを嗅がされたせいだ。
…………。
……パパはよく、あんな臭い女の体臭を嗅いで平気でいられるな……
………。
……そういえば今日はパパは仕事がお休みだって言っていた。
……お休みの日のパパは、何処にいるんだろう……。お仕事の日も、夜寝る時は療養所にいないみたいだけど……
セイレン星葉は鉄格子のついた窓から外を眺め、中庭で植物に水をやっているパパの幻影を見つけて、お~い、と肘から上だけで手を振ってみた。
よく見ると、それはマスクをした高校生くらいの少年で、彼はなにやらバケツの中から柄杓を使ってドロッとした茶色い液体を、庭に撒いていた。
今日も星葉の母の墓に供えられた新鮮なぼた餅には、沢山の蝿がたかり、
周囲には白い肌の蛆虫が湧いている。土の中に埋められているであろう清廉星葉の腐敗した屍体の中では、チャバネゴキブリが鞘状の卵を産卵し、今も百匹単位で幼虫が孵化していた。
稲田創士は、その細いサラサラの前髪に風を受けながら、
療養所の庭が蟲の気配で充たされていくのを感じて、楽しそうに鼻唄を歌いながら肥料を撒き続けるのだった。
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木守龍治は、玄関の引戸の枠の所にしゃがみ込み、
「これは不味いね……」と低い声で呟いた。
「先日、ひこばえ神さまに破かれた屋根を直したばかりだと言うのに……次はこれか……」
そう言うと龍治は、妻、久代が持ってきた懐中電灯の明かりを頼りに、戸と床の僅かな隙間を確認した。
「久代。見てごらん。ここに木屑のような粉の山が出来ているだろう。これは犠道と言われる神さまの通り道だ。最近、戸の立て付けが悪くなっていると思ったら、こういうことだったのか……。久代、すぐお義母さんを呼んできなさい。これが本当に百蟻さまの糞かどうか見てもらおう。場合によってはこれは大事だぞ。先祖代々、木守家が住んできたこの家に住めなくなるかもしれない……」
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報せを聞いて離れからやってきた幸が、手に持った古い煙管を裏返すと、
……コンコン…と床や柱を叩いて歩き回る。
やがてすみれ色の浴衣に埃をかぶって老婆は立ち上がり、
心配そうに見つめる龍治と久代に向かって、「ワシだと判断がつかぬ。」と言った。
「……やはり蛍ちゃんに見にきていただこう。久代や。紬をここへ呼びなさい。」「はーい、ただいま。」と久代が答え、パタパタとスリッパの音を立てながら走り去っていく。
しばらくすると、母に連れられて、長い髪をホットタオルにくるんだ紬が、部屋着姿で入ってくる。
久代は改めて、娘の白いTシャツと、紫色のキュロットスカート姿を見て、
「そんな服、あなた持ってたっけ?」と言った。
「ああ、これ?蛍にもらったの。私の夏服、虫に喰われちゃって、ほぼ全滅しちゃったから……」
「そうだったの??…それがツムギ、大変なのよ。お洋服だけじゃなく、どうやら白蟻も出たかもしれないの……」
「これ!久代!『百蟻様』とお呼びしなさい!神様は何処で聞いていらっしゃるのか分からぬのだぞ??」
久代はすかさず、夫、龍治の顔色を伺い、今の失言に対してはそれほど怒っていないような様子を見て取ると、少しがっかりして幸に「ごめんなさい……」と言った。
2人の会話を聞いていた紬が「それ、蛍も言ってたよ。白蟻……いえ、百蟻様?が発生していないか気を付けろって……」と口を挟む。
「……そうか。流石、蛍ちゃんじゃな。ひこばえ神の時に、すでに気配に気付いていらっしゃったのかもしれぬの。紬や、今一度、蛍ちゃんの所へ行って調査見積りをお願いしてまいるのじゃ。……正直、お前が蛍ちゃん達と三神丘に行ったと聞いた時、こうなることはある程度予想できておったのじゃが……。」と、最後のところは小声になって耳打ちしてくる。「……もしや、お前、たんぽぽ姫様に会うたのか?まさかな……蛍ちゃんが一緒とは言え、それはないか……。ばあばの小さい頃、同級生が何人か亡くなったことがあったからな。じゃがここ数十年は宮代様のおかげで、三神丘は静かであった……」
……て言うことは…蛍は蟲姫様をうまく抑え込めていないのかしら?
紬は無言で首を傾げ、心配そうな表情で、祖母を見つめ返した。
孫の顔を見た幸は、「安心せい。宮代様にお任せしておけば大丈夫じゃ。今回は祟り神が再発した時の補償内で動いてもらえるじゃろうし、アフターケアも万全のはず。お祓い後の二次被害に関して、下請け無しで全て一貫して対応してもらえるのは宮代様の所だけじゃ。
ますば無料の床下診断をお願いする流れじゃ。………ん?紬?」
と、幸は孫に近寄って、彼女の白いTシャツを引っ張った。
「……このシャツ、蛍ちゃんから貰ったと言うておったな……」「うん……」
「可愛いわね。袖がパフスリーブになっていて。」と久代が言う。
幸が目を細くして、紬の周囲をぐるっと回り、
角度によっては虹色に光って見える糸で編まれた白シャツの裾を返すと、タグに刺繍された剣片喰の紋を見つけ、
「……紬や……、これはもしや宮代様のところの遥様が着ていたものではないか……。」と言った。「……ほれ、この背中のところが少し擦り切れておるのは、あの大きな木刀を背負っていた跡じゃ。……確かにこの服なら虫には喰われないじゃろうが……、あまり宮代様の男衆に借りは作らぬ方が良いぞ……お主は元々器の候補。唯一人の宮代にしか仕えてはならぬのじゃ……」
「お義母さん。」と龍治が静かに言った。「おやめください。紬はもう器ではない。そういった風習が沙因を追い詰めたことを、もうお忘れですか?」
「……お姉ちゃんが?え?昔、何かあったの?」と紬が驚いて尋ねると、
「……あの子は器に選ばれなかったからねえ……」と久代が何処か悲しそうに呟いた。
「わ、私だって選ばれたくなかったよ!だって……だって!みんな腫れ物でも扱うように、私を育ててきたじゃん……!」
龍治がびっくりしたような目で、娘のことを見つめる。「……紬、お前そんなことを考えていたのか……。」「だってそぅじゃん!!」と紬は今にも泣きそうになりながら叫んだ。「わ、わたし、まともに怒られたこともないし……ぶたれたこともない!!私は本当にここの子供なの??愛されていたの??」
真っ赤になって叫ぶ紬のことを見て、龍治は「……それは誤解だ。お前は本当に良い子なんだ。褒めるところばかりで、叱るところなんて見つからないよ……。お前はね、本当にお父さんの自慢の娘なんだ。」と寂しそうに微笑みながら言った。
それを聞いた紬は、うっうっ……と肩を震わせて泣き出し、
何かを察した久代が娘の肩を抱き締めた。
「……アナタもいつかね、……心から叱ってくれるような素敵な人に出会えるわよ。」と久代が紬の耳の側で囁く。「お父さんはね、お姉ちゃんの躾のことで、宮代清一郎と揉めたの。それ以来、お父さんは娘を叱ることは控えるようになったのよ。アナタは覚えていないかも知れないけどね?小さい頃はアナタも結構叱られてたわよ。」「え?!」
「これ久代!聞こえたぞ!宮代様の所の男子を呼び捨てにするでない!罰当たりが!」
「でも、あの子はもう宮代様の家の子じゃないでしょ?」
「こら、久代!それ以上、紬の前で変なことを言うと怒るからな?」と厳しい口調で龍治が言うのを聞くと、
久代は背中をゾクゾクッとさせ、赤面しながら変な風に腰を引いて後ろに下がっていった。
………え?え?…蛍の一番上のお兄さんと、お姉ちゃんの間に…何かあったの……??
と、紬は泣いていたのも忘れて必死に考えていた。
「紬や。」と祖母が声をかけてくる。
「今すぐ蛍ちゃんを呼んでくるのじゃ。土日祝日、GWも対応してくれるお祓い業者は宮代様しかおらぬ。専門知識も豊富で、見積りからの追加料金はいっさいかからないのは宮代様だけ!飴玉を持たせるけ、宜しくな。」
「……だ、大丈夫??蛍って、そこらへんの資格とかちゃんと持ってるの……?」と紬が掠れた声で呟く。
幸は、「……また余計な心配を」と言い、金魚の描かれた巾着袋を孫に渡して、「宮代様のお子達はな、国土交通省の許可を得た資格を12歳で取得しておるし、それらは3年ごとに更新が必要なんじゃ。ほれ、早うせんと、木守の家が傾くかも知れぬぞ。」と言って孫娘の背中を優しく押し出した。
まだ評価もらえませんか?
なんかちょっと自信喪失………
でもそうも言ってられません!
民衆の為に無料で物語を配布する、理想に燃える現代のプロレタリア詩人カレイドスコープ先生は、皆様の為にこれからも頑張る所存であります!
是非評価を……。




