#32 第七十噺
お盆特別編です。お楽しみください。
四国山療養所には、温泉スパリゾート『龍神の湯』が併設されていて、
それは俗に言うスーパー銭湯と呼ばれるものだった。
高い煉瓦の壁と、トウカエデの並木に囲われた療養所に比べ、龍神の湯は白いコンクリートの明るい外観をしており、
時期になると、各地の小学校の遠足バスが代わる代わる駐車場を埋める人気リゾートだった。
まだシーズンには早かったが、今日も都心の小学生を乗せたバスが、3台連なりながら広い駐車スペースに入ってきている。
木守龍治は、バインダーに挟んだ名簿を見ながら、
隣に立つ中年の男性スタッフに「今日は四年生ですか。」と、紙の上の方に気温と時刻を書き込みながら話しかけていた。
「これぐらいの歳ですと、男女一緒に入れるし楽しいですよね。」と背の低い小太りの男性スタッフが言う。
龍治も「そうですね。ぎりぎりこのくらいの歳までは一緒でも大丈夫ですよね。」と言い、
キャアキャアと興奮して騒ぐ子供達の群れを、引率の若い女性の先生が苦労しながら並ばせているのを見つめていた。
リュックサックを背負った子供達が、駐車場に整列し、体育座りをして静かになるまでに、10分ほどかかった。
すでに疲れた様子の若い先生が、汗でおでこに貼り付いた髪を横に分けながら、こちらの方へ歩いてくる。
「おはようございます。」
「おはようございます。」と龍治も答えた。
「本日は宜しくお願い致します。」と先生が深々と頭を下げる。
「こちらこそ宜しくお願い致します。生徒さん達はみんな元気ですね」と龍治が笑顔で返した。
「みんな、何週間も前から楽しみにしていまして。もう、バスの中でも大騒ぎして大変だったんですよ。」と先生は苦笑いしながら言った。「……まあ、気持ちは分からなくないですけどね。」と彼女は少し悪戯そうに笑い、「そういう私も小学生の遠足で、一度ここに来たことがあるんですよ?」と言う。
「……へえ、そうだったんですか……。うちも長いこと営業していますからね。失礼ですが、今おいくつですか?」
「え~それは内緒です。でも数年前に大学を卒業しましたから、ここに来たのはかれこれ10年以上前になります。……ここは楽しいですよね。温泉なのにプール遊びが出来て。ウォータースライダーも大きいですし、確か蓮の花みたいなアスレチックもありましたよね?ターザンロープで飛び込んだり。……何よりここはお風呂ですから、みんな水着なしで遊べるのが最高ですよね。あ~私も小学生でしたら時間を忘れて遊べるのに……。」
「引率の先生ですから、子供達に付き添ってもらっても一向に構いませんよ?」と龍治は笑いながら答えた。
「…いえ、遠慮しておきます。今日の子達は四年生ですし。男子も女子も一緒に入りますからね。さすがにうちのクラスの男子達と一緒に私は入れませんよ。」
「まあ、そうですよね。あ、でも安全面は心配しないでください。時間中は、あそこに立っているスタッフが同伴して、きちんと監視することになっていますので。」
龍治はそう言うと、今は離れた所に立つ背の低い小太りの男性スタッフを指差した。
若い先生は顔をそちらへ向け、軽く会釈しながら「それなら安心ですね。」と言った。
「温泉に入るのは2時からですか?」と龍治が確認の為にバインダーに鉛筆を立てながら尋ねる。
「はい。そうです。あ、夕食は7時からでしたよね?でもプール遊びが終わった後は夕食前に大浴場を使わせてもらいます。」「男湯と女湯は1時間ごとに交代制ですからお気を付けください。」「はい。さすがに四年生ともなるとお風呂は分けませんとね。」と先生が、うんうん…と頷きながら言う。
「ええ。うちはそこのところの防犯はしっかりとしております。プールとお風呂とでは話が全く違いますからね。子供であれど、女湯を覗くような行為は絶対に許しません。学校によっては男の子のやんちゃな行為として、少し叱られるだけで済まされることもあるようですが……、うちの施設ではそういったことは許しませんから…犯罪として処理させていただきます。」
「ありがとうございます。頼もしいです。」と先生が言う。
「はーい!みなさ~ん!今から部屋に荷物を置いたらプールに行きますよー!」と若い先生が大きな声を出しながら手を叩いて叫ぶ。
子供達は一気に色めき立ち、ざわざわと騒ぎ始める。
「男子の更衣室は右の建物!女子の更衣室は左側ですからねー!」と先生が口の両端に手を当て、子供達のざわめきにかき消されないような声量で怒鳴る。
「山下~!女子の着替え覗くなよ~??」髪にイルカのアクセサリーを付けた女子が隣の男子をつつきながら言う。
「へ!誰がお前のパンツなんか誰が見たいんだよ!」
サッカーでもやっていそうな背の低い日焼けした男子が言い返す。
「え?明日香ちゃん?なんで入らないの?一緒に入ろ~よ~~」
少し肉付きのよい女子が、友達に引っ張られて「………」と無言で先生の方を見つめている姿が見えた。
やがて嵐のように子供達が過ぎ去っていった後、最後に残った木守龍治は、
(……沙因や紬にもこんな可愛らしい時期もあったな……)と考えていた。
回れ右をして駐車場から出て、療養所の方へ向かう途中で龍治は、向日葵や虹の絵が描かれた壁の向こうで、嬉しそうな子供達の叫び声と、プールに入る水しぶきの音を聞いて、
一瞬壁の隙間から、遮るもののないキラキラとした肌色の姿が走っていくのを見ていた。
龍治は、壁の上に飛び出したウォータースライダーの外側を見上げ、
……こういうのは意外に女の子の方が平気なんだよな……と考えていた。
案の定、壁の向こうから「ダッサ!男子、びびってんじゃん!」と言う女子の声が聞こえてきた。
「怖いからって目ぇつぶってんじゃねーよ!」とゲラゲラと笑い声も上がる。
「私なんか、ほら見て!両手を上げて滑れるよ!」
……ザブ~ン!!
「ほら!男子!優衣香ちゃんが滑るよ!見なくていいの!」
「男子!手で押さえてんじゃないよ!情けない!なんか女子の方が全っ然勇気あるじゃん!手で押さえなくても平気でしょうが!その方が勢いが出るからね??」
キャキャ!と女の子達のはしゃぐ声が聞こえ、水を掛け合う音が聞こえた。
龍治が微笑みながら、立ち去ろうとすると、
壁を越えてビーチボールがぽーん!と飛んでくる。
……おっと…、と彼が濡れたボールを顔の前で掴むと、脱衣場から続く渡り廊下の板をバタバタといわせながら「すみませ~~ん」と子供達が走り込んできた。
龍治が「こら。危ないから走っちゃダメだよ。」と優しく言うと、2人の少女が立ち止まった。
2人はじゃれ合いながら肘を絡ませると、こちらを見てクスクス笑い、まだすじばった子供っぽい身体で「やめてよ、」「そっちが!」とふざけながら押し合って、先頭になった子がビーチボールを受け取った。
「気を付けて遊ぶんだよ」と龍治が言うと、
痩せた上半身のすぐ下に、不釣り合いに丸く膨らんだ白いボールを抱えた女の子が、
空気をパンパンに入れ過ぎたせいで、突っ張りじわの寄ったビニール風船の下部をこちらに突き出し、その中央にある空気穴の栓を数ミリ飛び出させたまま、「ありがとうございます!」と元気に返事した。
「滑るから気を付けなさい。」
注意されたそばから、走ってその場を去ろうとするお揃いのボブカットの少女達に、
「こらこら……、ワンレンめで、ツルツルおでこを丸出しにした可愛いお嬢さん達?」と龍治が笑いながら声をかける。
「四年生にもなって恥ずかしいよ?ちゃんとルールを守って遊びなさい。まったく……昔は男の子の方が悪戯ばっかりしていたものだが……。これじゃどっちが男子だか女子だかわからないよ……」
「え?おじさん、ひっど~い!私たちのどこが男子だって言うんですかあー?」と2人の少女が、プンプン!と胸の前で腕を組んで龍治の前に戻ってくる。
「……それにしても君達、そっくりだね……ひょっとして双生児かい?」
「どこが双生児?!」と2人の少女が、このプールの係員と思われるおじさんに向けて、自分達のお腹を突き出してみせた。
龍治は「……もういいから。ほら、早く戻りなさい。こんな所で油を売っていると遊びの時間が終わっちゃうよ。」と言ったところで、
渡り廊下の方からもう一人少女がやってきて、「七瀬!葉子!ナニやってるの??」と叫んだ。「あ、未央ちゃん……」
未央と呼ばれた気の強そうな女子は、ボブカットの2人よりも、少し開いた真ん中分けをしていて、濃い茶色のおニューの林檎椿の髪留めのせいか、他の2人よりもずっと大人っぽく見えた。
「いつまでボールを探してたのよ?次は男子達とビッチバレするんだからね??…あいつらさ?女子のこと舐めてるみたいだから、ホント、ムカつく!田所なんてさ!優等生の皮を被ってたの、とうとうバレたじゃん??マジうける!あいつのどこがカッコいいのよ?もう果南ちゃんも先に行っちゃったよ!果南ちゃん、一番声出しして張り切ってたからね……ほら早く!そんなおじさん放っておいて戻るよ!男子なんかに負けないからね!」
仲良し2人組が、闘争心剥き出しのクラスメイトに連れられて去っていくと、龍治はヤレヤレ……と笑顔で溜め息をつき、踵を返した。
すると、療養所の建物に続く紫陽花の小路に、
白い麦わら帽子を被り、タオルタイプのラッシュガードを羽織った黒いビキニ姿の冴木みくるが立っているのが目に入った。
彼女は冷たい目で龍治のことを見ると
「……□リコンかよ……」と呟く。「おい??あんな忄臭いガキのどこがいいんだ……お前、□リコンだったのか?キモ過ぎんだよ……」
「おや、冴木さん。こんな所まで出てくるなんて珍しい。小学生達に見つかりでもしたら大騒ぎになりますよ?」と龍治が心配そうな表情をして言った。
冴木みくるは、演劇界では有名な冷たい流し目をして、「……お前、□リコンだったのかよ……だからお前は、この国民的女優みくるんに興味を示さなかったのか………キモ……私みたいな大人の女が怖いのか?お~いお巡りさ~ん、ここに変態がいますよ~。大人の女には興味がないみたいですよ~」と半笑いで言った。
龍治は、この宿泊客に対して、再びヤレヤレ……と首を振り、砂利道に音を立てながら歩み寄ってきて、身長差のある女優を見下ろしながら口を開く。
「……冴木さん。私にとっては貴女のような年齢の女性も子供みたいなものなんですよ。小さい頃からよく知っていますし……。私にはいつまでも貴女が、幼い頃の可愛らしいミニ女優さんのままに思える。覚えていますか?晴れた日には日傘を差してさしあげましたし、おしめりの日には、あの可愛いフリルの付いた雨傘をいつも差してあげましたよね……貴女は、はしゃいですぐビシャビシャに汚してしまったから大変でしたけど………」
「な?!なにを言ってるんだお前は!!□、□リコン!小さかった頃の私にもそんな目を向けていたのか??死ね!!変質者!犯罪者!!小二say-i-者!!」
「おや?初めてお会いした時は小三でしたよね?」
「どっちでもいい!寄るな!!気持ち悪い!」
「アハハ……冴木さんは小三の頃からちっとも変わりませんね。私が思うにその純粋さこそが貴女の魅力です。」
「み、魅力………」と言ってみくるは後退りを始める。
「そう。魅力です。貴女の子供のままの純真な心が、そういった強めの言葉を使わせているのだと思います。正直私は貴女の暴言も、その汚ない言葉も、歯に衣を着せない毒舌も、貴女の魅力の一つだと考えております。外の生活では使えない、そういった言葉の数々……、どうぞここでは自由に使ってください。……それが貴女の傷付いた心を治癒する一歩なんです。」
「………………………おい……………、わ、私は……別に傷付いていない……疲れているだけだ………。で、わ、私はその……も、もう?……言ってみれば大人に?なってしまったわけだけど………そ、それでもいいのか………その、つまり………お前は萎えたりしないのか………大人の女に……」
みくるがラッシュガードの先端を指でぐしゃぐしゃにしながら小さな声で言う。
「……萎えるとは??私はこの仕事にやりがいを持っております。やる気を失うようなことはありませんよ。」
「…そ、そうか?私はもうCMに出ずっぱりの可愛い人気子役ではないんだぞ?そ、それでもいいのか?私は大人の演技が出来る成熟した女優なんだぞ……何なら危険なスタントもするし、ケガいっぱいで、捻挫も日常茶飯事。ムチ打ち…首も日焼けで黒くなっているんだからな……。」
「存じ上げておりますよ。…冴木さんは称賛されて然るべきです。本当に立派になられたものです。それこそ小三まで毎晩のように枕を濡らしていた貴女が懐かしいです。」
「な、なぜそれを……お前、知っていたのか………」
「それはそうですよ。毎日枕カバーを替えていたのは私です。完治するのに時間がかかりましたよね……確か中三くらいまで……。冴木さん?私と貴女は20近く離れているんですよ?」
……龍さん……龍治さん……龍治さん……
心の中で、みくるは彼の名前を呼び続けていたが、それを表情にはいっさい出さなかった。
「……聞いてもいいか?」
「どうぞ?」
「私が………また、濡れたら……さしてくれるか……今度はお前の…黒い傘を……」
「勿論ですよ。」
「ヒッ!」とみくるが変な声を出して腰を引く。
「……に、20歳差は……少しオーバー……ですよね?」
と、急に敬語に戻った冴木みくるが小さな声で言った。
「アハハ…まあ、そうですね。でもさっきの女の子達が言っていたように、私はおじさんですよ?加齢臭のするおじさんです。香水で誤魔化していますけどね。」
「……龍さん……」
「はい?何ですか?」
冴木みくるは、つばひろのストローハットの影に、顔を半分隠しながら、囁くような声で言った。「……私……今日は龍さんの加齢具が食べたい……。硬めのカレーが……」
「ん?挽き肉のキーマカレーですか?……でも今日は小学生達が来ていますからね、少し緩めの甘口カレーです。」
「………龍さんも大変なんですね……お忙しくてお腹が緩くなるくらいストレスが溜まっているんですね……それでしたら私……緩いのでも構わないです。」
とみくるが言うのを聞くと、
木守龍治は、いつも彼女がわざと白いドレスを着て、それをカレーでべちゃべちゃに汚しながら食べるのが好きなことについて考えていた。
……あ、そう言えば昨日も冴木さんの部屋で、カレーパンが机の上に転がっていたな……。
丸めた白いふわっふわのパンッ生地に、こんもりと詰められたカレールー。それが横から溢れてはみ出していて、小麦色に染まった表面を濡らしている。
荒っぽく口を拭いたと思われる黄色いティッシュが至るところに散乱していて、最近の暑さのせいもあって部屋を銀蝿が飛び回っていた。
「気を付けないと食中毒になりますよ」と龍治は、惣菜パンを挟む大きなピンセットで、消費期限とゴムの切れた茶色いパンを回収しながら言った。
「……ところで冴木さん。今日は水着を着ていらっしゃいますが、どうされるつもりだったんですか?」と龍治が聞く。
「……水着?」
龍治も、?となり、彼女のラッシュガードの下から覗いた、ハイレグの黒い逆三角形のビキニを見つめた。
……その水着は、どこか毛足の長いボア生地のようにも見えた。
「……ここは温泉ですよね?」とみくるが言う。
「……今日は……小学生の貸し切りですよ。」
「………おい、やっぱり…剃った方がいいのか?□リコン。」
2人はそのまま黙って見つめ合い、遠くで聞こえる子供達の歓声を聞いていた。




