#31 第七十一噺
四国山温泉療養所の、花や動物の描かれた廊下と壁を通り抜け、
療法士の木守龍治は、玩具や絵本が並べられた部屋へ入っていった。
クッションのついた壁。パズルの形をした床。胸に抱えられるほど大きいぬいぐるみ達の列に混ざって、5人目の宿泊客が座っている。
「……それで…貴女の職業はVチューバーというんですね?」と龍治は、慣れない単語を間違えないようにゆっくりと発音しながら尋ねた。
「正直、世間での流行に疎いもので。先ほどのお話ですと、今、貴女のしているようなそのお仕事(?)が、世間一般では流行っているんですね?」
もう一度確認の為、龍治がメモを取りながら言うと、
目の前にいる女性が「はい。その通りです。」と微かにくぐもった、アニメのような舌足らずの声で答えた。
龍治は改めて目の前に座る少女(?)の姿を眺め、よく分からない…とでも言うように軽く首を振る。
龍治の正面に座るその女性は、全身が着ぐるみスーツ姿で、髪は人工丸出しの緑色、ヘルメットのようなフルフェイスの少女の仮面を被っていて、腕と足は肌色のタイツに更に白タイツ、指先までのアームカバーを付け、その上にまた更にチアリーダーと鼓笛隊を足して二で割ったような衣装を着ていた。
少女のお面の瞳は、顔の中で大きな面積を占め、それに反して鼻と口は見えないくらいに小さい。
「……つまりアニメ少女の皮を被って活動する生身の女性のことをVチューバーと呼ぶんですね?」と龍治は言った。
「これは皮ではないですが、アニメ少女がリアルタイムに存在するというのが、Vチューバーのコンセプトで間違いはありません。それで配信等をしています。」と彼女は言った。
「…配信?……とは何のことでしょうか?……まあ、やめましょう。俗世でのことを伺うのはこれくらいに致しましょうか。それで、貴女は………何か困ったことがおありなのでしょうか?何でもおっしゃってください。当施設にお泊まりいただいたからには全力で貴女様をサポートさせていただきます。」と龍治は言うと、ずれたマスクを鼻の上に持ち上げた。
鼻の高い龍治は、マスクと肌の間に隙間が出来やすく、油断すると眼鏡が曇ってしまう。
マスクの上部に入ったバンド部分を顔の凹凸に沿わせ、ハンカチでレンズを拭くと、
彼は手元の名簿に書かれていた名前を読んだ。
「…清廉 星葉さん……と読むのでいいんですよね?」
「はい。ホシハと呼んでください。」緑髪の立体アニメ少女は、正座していた足を座り直しながら言った。
彼女が脚を組み換えた拍子に、むわぁぁぁん……と淀んだ空気がこちらに漂ってくる。
……それにしても凄い臭いだな……。
龍治は、目に沁みる臭気に瞼をパチパチさせて、レンズを拭いたハンカチで涙袋を押さえた。
「…… 星葉さん。失礼ですが、貴女はいつからそのお洋服を着替えていらっしゃらないんですか?」と彼は質問する。
「……いつからとは…どういうことでしょう?今朝私は着替えましたが。」と言って、 星葉はレースの付いた衣装の肩を少し引っ張った。
「……いえ、その服の方ではなく、本体の方です……」
「本体?」と首を傾げる少女のミニスカートと白タイツの間に覗いた肌色のタイツには、所々縦方向に茶色い汚れがすじになって付着しており、さらに緑色の黴が斑点となって至るところに繁殖しているのが見えた。
「つかぬことを伺いますが……お風呂には入られているのでしょうか?」と龍治はマスクの上から鼻を押さえながら言う。
星葉が少し警戒したような声で答えた。
「木守さん?とおっしゃいましたっけ?……その質問はこの面談に必要な情報なのですか?」彼女は固そうな人工素材の緑の髪にくるくると指を通しながら答える。
「答えるのがお嫌でしたら結構です……ちなみに、これは単純に個人的な興味としてだけですが…ご飯はどこから食べているんでしょうか……」と龍治は言いながら、彼女の顎と首の付け根に隙間が開いているのを見つけて「……いえ、なんでもないです……」と俯いた。
「…………。」「…………。」
「あ、ちょっと失礼して宜しいですか?」と、 星葉が沈黙を破ると、「……すぐ戻りますね」と幼く媚びたような言い方をして立ち上がり、部屋の奥の扉の方へ向かっていく。
…………。
………。
……。
はあはあはあ……。
止めていた呼吸を再開し、龍治は、……この臭いは……動物園か何かか?と考えていた。
……何故彼女は着ぐるみを着たまま生活しているのか。何かのコンプレックスだろうか……。自分の容姿によほど自信がないとか……??
あの様子では彼女はまともな社会生活を送れていないと考えて間違いないだろう……。それにしてもこの子は自分自身の臭いには気付かないのだろうか……。
「お待たせ致しました。」
白いアームカバーを外して戻ってきたアニメ美少女の肌色の手袋は、乾燥したままで、彼女が洗面所できちんと手を洗ってきたかどうかに疑問が残った。
だが、それよりも……、清廉 星葉のミニスカートから覗いた肌色のタイツ部分には、新しい汚れが飛び散っていて、さっきまでは無かったはずの濃い色の沁みを作っているのが確認出来た。
……そのことに、この子が気付いている様子がないのは、ひょっとしたら彼女の視野が狭いせいなのか……??
龍治はアニメ少女の顔に描かれた大きな瞳を見つめ、……この巨大な目は実際、どのくらい正面が見えているのだろう……と考えていた。
強烈な悪臭に対して、最初、龍治は口から息をして、何とか鼻を使わないようにしていたが、
やがてベテランの療法士である彼は、この酸っぱい臭いにも徐々に慣れてきて、より彼女の近くに座ることが出来るようになっていた。
……まあ、うん。このくらいの臭いなら何とかなるかな。正直今までで一番臭いの凄い子だったが、もう大丈夫だろう……。体調によっては冴木さんの方が凄い時もあるし……。
「…… 星葉さん。」「はい。」「うちは予約会員制の温泉施設です。」「はい。存じ上げております」
「では……率直に申し上げますと………、他の宿泊客より苦情が入っているのです。」「……苦情」と 星葉は大きなヘルメットのような首をガクリ…と傾けて悲しそうに呟いた。
「はい。申し訳ありませんが、施設側としてもこれ以上は看過できませんでしたので、私が調査に派遣されました。」
「………。」「………。」
再び沈黙が訪れ、清廉 星葉は、もじもじと体を動かすと、「…あなたも…私に……お風呂に入れと言うんでしょう…」と小さな声で言った。
「……結局この療養所の職員の方々も他の人達と同じなんですね……」
「……と言いますと?」と龍治が聞き返す。
「私のことを臭いと言いたいんですよね?みんなそう。…お前は髪が臭い。口が臭い。ワキガが臭い。足が臭い。おならが臭い……。みんなが私を責める。」
「お風呂に入って歯を磨くだけでも随分違うのでは?」と龍治が言う。
星葉は、その言葉には返事せず「だから私はVチューバーという道を選んだんです。」と言った。「アニメキャラになれば、他人には臭いが分からなくなるから。」
龍治は改めて、異臭を放つ美少女の着ぐるみを眺め、………なるほど。と手元のメモ帳に何かを書き込み始めた。
「……そうでしたか。そういうことなら私は平気ですよ。」と龍治は呟くと、「では」と短く言って、おもむろにマスクを外し、 星葉の仮面を真っ直ぐに見据えた。
「キャ???!」と彼女は、鋭く叫んで太い着ぐるみの指で、その大きな瞳を隠した。
「………ん?もしかしたら貴女、男性がマスクを外した顔を初めて見たのですか?」と端正な顔をしたイケオジの療法士が静かに言う。「そうか。この臭いなら無理もないか。今までの人生で、貴女の前に来た男性は全員がマスクを付けていたのでしょう……でも私は違いますよ。」
龍治の男性らしい、骨ばったところのある彫刻のように整った鼻が、 星葉の眼前に迫ってくる。
「し、しまってください!!見えてます!その……し、下のほうも……?!」 星葉はそう叫ぶと足を崩して後退りを始めた。
龍治は鼻の下にある、炎症を起こしたように膨らんだピンクの皮膚を微かに濡らしながら、
その僅かな裂け目から、柔らかく湿った筋肉の一部を光らせ、「怖がらなくてもいいですよ。私はこういうのに耐性があるから。」と囁いた。
そして、少し上を向くと、鼻腔の奥に僅かに確認出来る硬い毛の先端を見せながら、くんくんと大袈裟に、 星葉の周辺の空気を鼻から吸い込んできた。
激しく臭いを吸われている音を聞いた 星葉は、とうとう我慢出来ず、誘惑に負けてその男性の顔を直視してしまった。
「私は平気だから……」と、もう一度龍治が優しげな声で言い、彼女の首の辺りから発せられるゲロのような臭いを胸一杯に吸い込む。
自分の体臭を吸い込まれた 星葉は、「ああ……」と情けない声を出し、膝から崩れるようにして、ぬいぐるみだらけの壁に倒れた。
「………そんな……嘘です……男性が……私の臭いを、こんな近くで…嗅げるはずがない……だって、だって……みんなは私のことを…駅の公衆トイレより臭いって………」
アニメ少女は表情を変えず、ずっと微笑んだままだったが、その声は陶然とし、とうとう床に倒れてしまった。
仰向けになった星葉は、手足をピクピクと痙攣させ始める。
龍治は、そんな彼女に覆い被さり「大丈夫ですか?」と囁きながら、
着ぐるみ少女の首元から脇の下、次におへそ、最後に最も臭気の強い、腰から足の付け根辺りの空気を吸い込み、最後に足裏の臭いも確認した。
「これは……そう。生きている人間のにおいです。臭くなんかない。死んだ人間の腐った臭いとは違う。命のにおいです。…貴女のことを悪く言う世間なんて無視すればいい。そう……ここは確かに温泉施設ですよ?多分貴女がここに来たのは自分を変えようと思ったからなのでしょう………。でも無理しなくていい。温泉に来たからと言って貴女が絶対にお風呂に入らなくてはいけないというわけではない。そうですね……心の狭い連中の苦情など、無視することにしましょう。余計なことを言ってすみませんでした。
今までの貴女は迫害を受け続ける人生だったのでしょう。……でもここに来たからにはもう大丈夫。宿泊し続ける限り、私が貴女を守ります。心配しないで。……貴女はとても美しい。」
龍治はそう言うと、アニメ少女の額の上の空間にチュッと軽くキスをする真似をした。
ビク!と、 星葉の身体がエビのように仰け反り、その後ヒクヒクと小刻みに揺れながら、だらしなく床に足を開いて震え続けた。
龍治が、そんな彼女を助け起こそうとすると、着ぐるみ少女の身体が再びもぞもぞと動き出し、首が変な風に曲がり、次に腕の中が動きながら萎んでいき、肩の辺りがへこむと、
胸から下の皮膚が蠢いて、太ももが潰れていくと同時にお腹がパンパンに膨らんでいった。
「ど、どうかされましたか?」と龍治が言うと、
お腹の中から「……しました。」とくぐもった声が聞こえてきた。
「はい?」
「んしん、しました……」
「へんしん?」
「……妊娠しました。」
「はい?」
アニメ着ぐるみ少女のお腹の中で、膝を抱えて丸まった人間が「生まれます………」と呟くのが聞こえた。
その刹那、
彼女はスカートの下から破水し、ビリビリビリ……と糸の切れる音と共に、股の下から逆子の足が突き出してくるのが見えた。
驚いた龍治が、急いでそのヌルヌルした足首を引っ張ると、
着ぐるみ少女の下半身を引き裂いて、自分の老廃物まみれになった裸の女性が、スカートの中からブチョッ…という破裂音と共に出てきた。
女性はあばらが浮き出すほど痩せていて、身体中に悪臭を放つドロドロの液体を纏い、
……部屋が一気に肥溜めの臭いに汚染される。
龍治は慌てて近くにあったタオルケットをひっ掴み、彼女の身体を包んでやった。
彼は着ぐるみの姿を返り見、腰から半分が裂けているのを確認すると、………母親の方はもうダメだな……と頭を振った。
捩れた中綿が、へその緒のように、生まれた子の足首に絡まっている。龍治はそれを引きちぎった。
それをきっかけに、タオルケットにくるまれた女性は「うわぁぁぁん、うわぁぁぁん……」と大声で泣き出し、
彼はそのまま大きな赤ん坊を抱きかかえると、足で扉を蹴り開け、小走りで廊下を駆け抜けていった。
そのまま彼は『癒しの湯』と書かれた暖簾をくぐると、脱衣場を無視して一直線に浴場へ走っていく。
そして、湯が入れ替えられたばかりの湯船の前に立つと、ろくに汚れも落とさずに、タオルケットに包んだままの女性を、浅い湯の中にそっと浸してやった。
泣き声がピタリとやむ。
龍治はゆっくりとタオルを外して、……ちゃぷちゃぷと念入りに彼女の身体を洗い流してやった。
「これは産湯です。」と龍治が優しい声で言う。長い黒髪が湯の中でワカメのように漂う。
彼は、清廉 星葉から生まれた赤ちゃんの身体の中で、最も汚れがこびりついた部分を、湯で柔らかくしながら丁寧に指でこそぎ落とした後、
「……君の名前は何にしようかね……」と冗談めかして言った。
お湯に浮かべられた痩せた赤ちゃんが「………パパ……」と夢見るような声で言う。
「きょうからわたしね………清廉 星葉のひとりむすめ……セイレン 星葉になります。……いいかな?」
固まっていた固形物を出口から取り除いてもらった赤ちゃんは、声から予想していたよりも、ずっと大人びた顔をしていて、
……まるでデパートの受付嬢のように、控え目ながら何処か華のある雰囲気を持っていた。
「すたばちゃんか……。いい名前だね。」
龍治がそう言うと、この美人さんな25歳くらいの新生児は、嬉しそうに頬を赤くして微笑み、蓋の取れた穴から力を抜くと、周囲の温かいお湯の上に柚子ではないものをプカプカと浮かべた。
そして再び「……パパ」と、龍治の顔の前で幸せそうに囁いた。
う………。確かにキツい口臭だ。
……それはともかくとして…こうやって赤ちゃんを取り上げたのは初めてだな。
龍治は、三々賀村にいる自分の本当の娘のことを思い出し、同時に、村を出ていったもう一人の娘についても考えていた。
仰向けに浮かぶ赤ん坊を見ながら、彼はすたばの山なりの胸の上に折り畳んだ手拭いを乗せて安心させてやり、漂ってきた柚子でないものを手の甲で向こうへ押し返した。
さあ、エクソダスの五人の花嫁候補が出揃いましたね。
人気投票により誰のルートにするか決めますので、宜しくお願い致します!




