#30 第七十二噺
増田莉冬という名の男が四国山療養所に入居してきたのは、半月ほど前のことであった。
彼は俗世では有名なマラソン選手らしく、国際大会でメダルを取ったこともある有名人らしかった。
最初は彼のことを木守龍治が担当する予定ではなかったのだが、…どうも他の係員では、この宿泊客を満足させることが出来ないようだ、という館長の判断により、
今日こうして部屋を訪問する運びとなっていた。
ガチャリ。
「入りますよ」
掛け声と同時に扉を開いた龍治が入ってくる。
「ちょ??!ノックとかないんですか?!」と増田莉冬がソファの上で毛布をかき集めて、自分の体に掛けながら叫んだ。
「……なにされてたんですか?」と龍治がテーブルの上に丸められた沢山のティッシュと、毛布に隠れた黒いリモコンを見つめながら言った。
「ふむ。……増田さん。いや、別に構いませんけどね。」と龍治が明らかに軽蔑したような目で、短髪の細い身体の男を見やると、増田莉冬はもぞもぞと毛布をよけながら体を起こした。
見ると彼はダボッとした大きめのジャージを着ていたが、それでもマラソン選手らしく小柄ながらも筋肉質そうな体型が見て取れ、胸筋は発達しており、太股もしっかりとしていた。
「…お恥ずかしいところを見られてしまいましたね。世間では私は気の強い人間だと思われていますが、……実は今、恋愛ドラマを見て泣きそうになっていたところなんです。」と莉冬は照れたように、白い鼻水で濡れたティッシュをゴミ箱に片付け始めた。
「……ああ、そうですか。」と龍治が冷めた声で返事をする。
「今日は新しい療法プログラムをご提案しにまいりました。」と龍治は事務的な口調で、手にしたノートに目線を落としながら言った。
「まずは上を脱いでください。」
「?」
龍治はノートから顔を上げず、何かを万年筆で書き込んでいたが、増田莉冬が動かないのを感じ、
「どうしたんですか?早く脱いでください」と言った。
「……いやいや、ちょっと待ってください。今、ここで、ですか??」
「はあ。そうですが、何か?」
「何故?」
「何故って……。肺や心臓の具合を確認しますので。」
「あ、はい。わ、分かりました……。ちょっとその前にお手洗いに行ってきますのでお待ちください。」と小柄なマラソン選手は言って歩き出す。
「ああそれなら増田さん?丁度いいのでこれを採ってきてください。」そう言って龍治は紙コップを差し出した。
「………。」
その紙コップには内側に目盛りが印刷されており、紐のように細い試験紙が差してある。
「わ、わかりました……」と莉冬が言った。
彼が備え付けのお手洗いの方に歩き出すと、後ろから龍治がピタリと寄り添うようについてくる。
「……な、何か……?」と莉冬が小さな声で聞いた。
龍治が「ああ、さきほどですね?アナタがティッシュに出されてからあまり時間が経っていないのだとしたら、それはよくありませんね。検査結果にタンパクが出てしまう。」と難しい顔をして言ってくる。
「……何のことをおっしゃっているんですか……?あれは……鼻水です……」
「ああ、本当にそうだったんですね。それはそれは失礼致しました。」と彼は大して悪く思っていない風に、素っ気なく答えた。
「あれ?」と急に彼は洗面所に入った瞬間に声を上げる。
莉冬もそちらを見ると、龍治が洋式トイレの布の便座カバーを確認しているところだった。「……こちらのカバー、まだ代えられていませんね……。朝の掃除スタッフは何をやっているんだ……。申し訳ございません。当ホテルがこのような初歩的な失礼を働くとは……本当に申し訳ございません。」
と、今度は本当に済まなそうに頭を下げた。
「あ、いえ、構いませんよ。元々私もガサツな性格ですしね……気になりませんから。はい。」と莉冬が気を遣ったような固い笑みを浮かべながら答えた。
「私自身小さい頃から男勝りな子供でしたからね……アハハ……」
「あ、はい?すみません。今、何かおっしゃいましたか?」と難しい顔をした龍治が、棚から出したゴム手袋をした手で、慎重に水色の布便座カバーを外しながら言った。
「あ、いえ……大した話ではないです…」と呟いた増田莉冬は、洗面台の鏡に映った自分の痩せた顔を改めて見つめていた。
……そう。私は、小さい頃から男の子には負けたくない、という一心で、男勝りでスポーツを頑張ってきたのだ。
……小学生の頃は、喧嘩だって男子に負けたことはなかった。女の子の遊びは一切やらず、スカートだって一度も履いたことはなかった。いつも近所の男の子達と日が暮れるまで遊び、山を駆け、傷だらけになって帰宅したのだ……。
莉冬は遠い目で、鏡の向こうにかつての痩せた腕白少女の姿を見つけ、暗い表情でその子の瞳を見つめ返した。
私の人生が狂い始めたのは中学からだった。
急激な身体の変化が始まり、戸惑いの中、試着室で制服のスカートを見せられて絶望した。
幸いジャージ登校が許される学校だった為、羞恥で不登校になることはなかったが、
私はより一層、部活に、スポーツに、打ち込むようになったのだ。
陸上は私の天職だった。
……私の背をどんどん追い抜いていく男子達を私は足で追いかけて、スピードで追い抜いていった。
……男子にだけは負けたくない。
……絶対に負けたくない。
……男子が出来ることは女子にだって出来るはず。それに疲労耐性と精神力の強さは、生物学上、女の方が優れている。瞬発力では男に負ける場合があっても、持久力でなら最終的に女が勝つのだ。長生きするのは女だ。遠泳だって、体脂肪の割合から女に軍配が上がることが多々あるのだ。
「………てください……」
「はい?」と莉冬は、考え事をして相手の言っていることが耳に入っていなかったことに気付き、「す、すみません。何とおっしゃいましたか?」と尋ねた。
「……ええ。ですから、私がこちらの便器を掃除させていただいている間に、……アナタはそこのShow用で採取しておいてください。と言いました。」
「………………………………はい??」
いつもは低い声色を心掛けている莉冬は、思わず裏声になって尋ね返していた。
「……ま、待ってください。何か勘違いされていません??私はおん………」そこまで言いかけて莉冬は、グッ……と最後の一言を呑み込んだ。
「どうかされましたか?」と龍治がブラシを持った手を止めて振り返る。
「…………わ、私にこれをやれと……?」「はい、何か問題でも?」
「あなたは…………私などは、どうせ座らないと出来ないだろうと馬鹿にしておいでですか?」
「……?脚をお怪我でもされているのですか?…確かマラソンの選手様だと伺いましたが…そういうことでしたら……」
「待ちなさい!今のは聞き捨てならない!私の脚も、膝も、腰も、まだまだ大丈夫だ!!週刊誌は私の選手生命がもう終わりのようなことを言っているが!……ここに来たのは次の大会に向けての休息の為だ!!私はまだやれる…!!男の世界記録にだってもうすぐ届く!!人は不可能と嘲笑うけど、私はやってみせる!見てろよ!私を舐めるな!」
「はあ……。まあ、それなら良いですが。コップに入れる量は少しだけで大丈夫です。その試験紙の先っぽが浸かるくらいで良いです。午後にも色々と検査の予定が詰まっていますから。急ぎでお願いいたします。」
増田莉冬は、龍治をギッと睨み、「………………で?…ここであなたが見ているのは何故ですか……」と言った。
「アナタもスポーツ選手ならお分かりでしょう。薬物反応を見る為に立ち会いは必要です。」
「いや、でも、アナタは男でしょ?!おかしくないか??」と莉冬が怒りの為か真っ赤な顔をして叫ぶ。
「……まさか女性スタッフをお望みですか………?やれやれ。男の宿泊客はこれだから困る……(小声)。ここを風属性の施設か何かと勘違いしている。……その認識でいるならば、それは間違いです。ここは健全な温泉療法施設ですからね。ここはアナタの考えているような場所ではありません!(キッパリ)…失礼を承知で言わせてもらいますがね……この現代社会には、あらゆる社会的圧力を受け、傷付いた女性が大勢いるのです。本来この施設はそういった方達の為の避難所でした。それが、諸事情によって未成年の男性も受け入れるようになり、今の運営方法に至るのですが……正直アナタのような人を受け入れるのは、私自身は反対でした!今のアナタの言動がその証拠です!」
「は??私のような人間が傷付いていないとでも??そりゃ、私は人に弱さを見せないように頑張ってきましたよ?」と、泣くのを我慢しながら莉冬が叫んだ。……泣くのは弱い女だ……泣くのは弱い女だ……。
「だからってそんな言い方酷くないですか?!」クソ!!これだから男ってやつは……!クソ!クソ!クソ!……私はこのまま…この男に言い返すことも出来ずに引き下がるのか?……負けを認めるのか??嫌だ!そんなのは嫌だ!私は男には負けない!絶対に!!
龍治の冷たい目線は、増田莉冬ジャージの股間に注がれている。
……あの布のよれた感じ……かなり小さそうだな……良く吠える男ほど、あそこは小さい…。この男、こんな粗末なものを女性スタッフに見せて、どうするつもりだったんだろう……と龍治は静かに考えていた。
しばしの沈黙の後、莉冬は、紙コップを握り潰さないように自制しながら「ああ!分かったよ!やればいいんだろ??それでお前は満足なんだろ!スポーツ選手の体幹を舐めるなよ?!」と怒鳴った。
「いいから早くしてください。」と腕組をした龍治が、見下すような目で、背の低いジャージ姿の男をじっと見つめた。
彼は短い髪を、後ろでツーブロックの刈り上げにしていて、その細いうなじは青々としていた。肩幅は狭いが、胸の筋肉は少し前方に出るくらいには鍛えられているように見える。体の他の部分の細さに比べて、運動選手らしく下半身はどっしりとしていて安定感があり、重心は低い。睫毛は長く、切れ長の目と細い鼻すじと、細い顎は、まるで精悍な印象の女性のようで、眉毛を太めに揃えることで、女々しく映るコンプレックスを隠しているようにも見えた。唇は薄く、髭もほとんど生えていないようだ。
「いいか!?するからな!?舐めるなよ??」
「……もうそういう前置きはいいですから……」と龍治は口の端をひきつらせて可笑しそうに笑い、わざとチノパンを履いた脚を開き気味にして立つと、ファスナーの辺りにある自然な状態での膨らみを強調して、そこに収まっている平均以上のものを目の前にいる男にも判らせるようにした。
……こういう男はプライドをへし折って大人しくさせるのが一番いい。それで、明日にでも出ていってもらおう……。
「いくぞ!やるからな!?私が逃げ出すとでも思ったか!!」
増田莉冬は、握った拳をブルブルと震わせると、
「クソが!!」と叫び、一気にジャージの下を足首のところまでずり下ろした。
「あ」と龍治が驚いたような声を上げる中、目の前にいる人物は、細い足首に絡まる縮れた布に向かって、ビシャビシャビシャ…と方向の定まらない水を注いでいた。
それらの飛沫は、手に持った紙コップには、全く受け止められず、震える手の甲に飛び散っていく。
「……増田……さん?あ、あなた……」
「そうだ!私は女だ!!悪いか!!男に生まれただけで、勝ったと思うなよ??!こんなこと、こんなこと……女にだって余裕で出来るんだからな!!」と莉冬は大声で怒鳴ると、ようやく僅かに受け止められたコップの中身を「これでどうだ!!」と龍治の目の前に突き出してみせた。
「申し訳ございませんでした……」と龍治が頭を下げる。
「は!!今さら謝っても遅いんだよ!!アハハ…逆にな??こ、こんな男にだって出来るような簡単なことはな?、子供にだって出来るということだ!!見てろよ?私がな……、今から男にだって出来ないことをやってみせてやる!!その近眼の目に焼き付けるといい!勝つのは私だ!!!」
目を血走らせた莉冬はそう叫ぶと龍治の方にお腹を向け、背中側でがっちりと白い冷たい陶器の縁を肘を使って挟み込むと、
「お前ら男共にな?これが出来るか?!」と叫び、んん……と唸りながら中腰になった足元に……男であろうと女であろうと、決して立ってしないものをボタボタと落とし始めた。
驚いた龍治は、「……さすがはスポーツ選手ですね……常人には出来ないことを、こうもいとも簡単にやってのけるとは……」と呟き、「……これで許していただけますか……」と洗面所の床に膝をつくと……床に頭をついて土下座をした。
「アッハッハッハ………おい、お前、不様だな??」と、女の本性を丸出しにしたまま次々に新しい物を床に生み落としていく増田莉冬が、顔全体を深紅に染めながら龍治の前に仁王立ちして高らかに笑った
「お前も男として情けなくないのか?」
………勝った。
と、莉冬は満足げに微笑み、「男だからって威張るなよ。」と続けた。
「……おい、顔を上げてよく見ろ。女にはな?男みたいに明らかなあの弱点も無いんだぞ?お前ら男には、蹴られたら一発で気絶する不様なものが2つぶら下がっているだろう?」
顔を上げた龍治は、彼女のいかにもスポーツ選手らしく逆三角形に整った身体の部分を見上げ、アスリートの血の滲むような剃り後に気付き、感心していた。
「……貴女が女性だとは思っていませんでした。しかし、増田さん。一応、私からも指摘させてください。貴女方女性だって体に2つの弱点をぶら下げていますよね?男も女も、その辺りは似たようなものでは?」
莉冬は一瞬、何を言われているのか理解していない様子だったが、「……ああ、なるほど……お前が言っているのはこれのことか?」と言って、更に不敵な笑みを浮かべた。
そして「甘いな。」と呟き、ジャージの上をグイっと巻き上げると、それを首から抜き取りポイ!と壁に向かって投げつけた。
「は??今お前は何と言った?よく見るがいい。これのどこがぶら下がっていると??」
莉冬は、龍治のことを馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、お碗の形をした上半身の硬い盛り上がりを見せつけてきた。
龍治は、彼女が小麦色に日焼けした手足に対して、身体全体にランニングシャツと短パンの跡がはっきりと刻印されていることに今さらながら気付き、意外に地肌は白いな…と考えていた。
増田莉冬は、丸く日焼けした首から覗いた胸の部分に、唯一金色の磁気ネックレスだけを身に付けており、骨盤から突き出した腰の骨の辺りに両手を添えると、胸を張って立ちハダカっていた。
龍治は、彼女の周囲に脱ぎ散らかされたジャージの上下と、その他肌着類、スポーツをした後の汗臭い水でべチャベチャになった床、そして足拭きマットにこびりついてしまった悪臭を放つ、しつこいアブら汚れ等を見渡し、
「…そのような格好をしていても、増田さんはちっとも女性に見えないんですね。」と彼女のことを褒めた。 「…しかし、増田さん。そのように世間に対して虚勢を張り続けるのはさぞ疲れることでしょう……。先ほど貴女が部屋で恋愛映画を見て、……私が想像するに、ひとりのおんなにー?、戻っていたように……貴女は自分の殻を破り、もっと小さな子供の頃みたいに…例えば……心から泣くことも必要なのではないかと思いました。」
「………。」
増田莉冬は、急に不安そうな、自信無さそうな、それでいて期待しているような、微妙な表情をして、龍治の言葉を黙って聞いていた。
「……貴女のような強い女性は、時には泣くことも必要です。」
「…………」
「泣きたいですか?」
「…………」
龍治はスクッとその場で立ち上がり、その高い身長差から、小柄な増田莉冬を見下ろした。
「……おい、まな板男女。」
「は、はあ??な、なにを……?!」「お前、偉そうな顔して、立ったままで€らしてんじゃねーよ。臭えんだよ。鼻が曲がる。あ~あ~あ~、しかも女の体の中で一番汚ねえところを丸出しにしやがって(笑)。お前、終わってるよな。……何だよその顔は?お?泣くのかあ?泣きますかあ?泣けよ、はい、女はす~ぐ泣く……。泣~け!泣~け!あ、あ、泣いた!泣いたぞ!泣、い~た!泣、い~た!」
と龍治は手をパンパン叩きながら彼女の周囲を回り始めた。
その瞬間、……うわああああん……と口を雲の形にフニャフニャにした増田莉冬は、「泣いてないもん!泣いてないもん!」と喚きながら手をブンブン振り回した。「泣いてないもん!これ違うもん!涙じゃないもんヒクッ…違うもん!」
龍治はわざと子供のような声色で「せんせ~い!増田さんが授業中に我慢出来ずに泣いちゃいました~!」と馬鹿にしたような口調で言い、鼻を摘まんで顔の前を手であおいでみせた。「増田さんが○年生にもなって、みんなの見ている前で泣いちゃってま~す(ぷーくすくす…)」
うわああああん……と莉冬は、手の甲を目に押し付けて、大きく開けた口の中に鼻水を垂らしながら泣いていた。
莉冬の胸の中に溜まっていた何か苦しいものが一気に堰を切って溢れ出し、涙と共に色々な想いが透明になっていく。
「それでいいんです。ここは貴女のように傷付いた人達が心を洗い流す場所。」
内股になって膝をガクガクと震わせる若い女性の頭を、よしよし……と龍治は撫でてやる。「いいんですよ。もっと泣きなさい。そうすれば明日の貴女は、もっともっと強くなれますよ。」と耳元でそっと優しく囁いたのだった。




