#29 第七十三噺
その日木守龍治は、現在施設に宿泊している、とある女性アイドルからの依頼を受けて、
療養所の外で、彼女から預かった飼い犬の散歩をすることになっていた。
話を聞くと彼女は、日々のアイドル業の忙しさで愛犬の世話が出来ず、その子をマンションの中で飼い続けていたとのこと。…多分ストレスで、この子は病気になってしまったのです。と普段着を着たノーメイクの売れっ子アイドルは言った。
犬種はミディアムプードル。チョコレート色に近いブラウン寄りの毛質で、女の子のようにツインテールにしたふわふわの両耳が可愛らしくセットされている。そして毛足の長い頭に比べると腰から下の方は、地肌が見えるほど綺麗に刈り揃えられていて、臆病な性格なのか、彼女はずっと小刻みに震えていた。
最初のうちは龍治に対して人見知りをしていたこの子も、ここ何日かのお世話を通して、信頼してリードを任せてくれるようになってきていた。
20代前半で、すでにベテランと呼ばれるような新陳代謝の高い芸能界で、いまだ人気を保ち続けるのはさぞ大変なことなのだろう。
最初に療養所にやってきた日、23にしてデビュー10周年を迎えたアイドル、雨之内みぞれは、疲れたような表情で、
「この子をお願い致します」とだけ言った。
龍治は、この中型犬が、ろくに散歩にも連れていってもらえず、いくら広いとはいえ、都心のマンションの一室で飼われていたことを思うと、
『この子は虐待されていた』、と断定されても仕方がような気もしたが、忙しい芸能人にしてみれば、これでも精一杯愛情を注いでいたということも痛いほど理解出来たので、何も言わなかった。
部屋の中では、トイレの場所は決められていたとのことだが、躾はうまくいかず、基本犬用オムツを付けていたらしい。
彼女から、室内犬として飼われていたこの中型犬の生活の様子を一通り聞いた龍治は、「え?それでは、この子はお部屋の中でも服を着ていたんですか?」と言った。
「……はい」と、みぞれはくぐもった声で返事をすると、その小さい顔の中では嫌でも目立つ、くりくりとした大きな丸い瞳を伏せた。
プードルもツインテールを心無しかションボリとして顔の前に垂らしている。
「それは感心しませんね。」と龍治は言った。「本来、犬は自然のままの姿でいるべきです。……そういったこともストレスの原因になっていたのでは?正直、紙オムツもよくない。外しましょう。」
「……で、でも、……この子、片足上げて……マーキングするんですよ……女の子なのに……」そう言うと、みぞれは耳まで真っ赤になって、伏せた顔を更に横に逸らした。
「元気があっていいじゃありませんか……ここにいる間でしたら、私ならきちんとお世話して差し上げることが出来ると思いますよ。」
柔らかく髪をセットし、銀縁眼鏡を掛け、成熟した大人の風貌をした男性が、優しい声で言う。
「……あ、あの、では木守様は、犬のお世話には慣れていらっしゃるのですか……」と、みぞれが小さな声で自信なさげに尋ねる。龍治の耳には、それが微かに震えているように聞こえた。
「……安心してください。最近は忙しくてうちの犬には構ってやれていませんが、…こう見えて犬の散歩に関してはベテランなんですよ。……それこそ近頃はうちの犬とあまり遊んでやれていない分、是非貴女のワンちゃんのお世話をさせていただきたいくらいです。……私ならきっと満足させてあげられますよ……」
「…………」「心配しないで。私に任せてくれれば大丈夫です。」
「………は、はい…………。そ、それでは宜しくお願い致します……お、お洋服は着せないとのことでしたが……この子は女の子です……せ、せめて髪に可愛いリボンを付けてあげてください……。あ、あとは自然なままで構いません………」
龍治は思わず微笑みながら「久々のお外の散歩になるんですよね。……ここなら人目も気にせず走り回れますよ?」と言った。
「……いえ……でもこの子は臆病なものですから……首輪の紐はしっかりと握ってあげておいてください……あと、……人がいなくても…あまり見通しが良すぎるのは…怖いと思うので……最初は夜だけにしていただけると……助かります……」と、みぞれは言った。
見るとプードルは怯えて、体がいっそう小刻みに震えているようだった。
「わかりました。では少しこの子を私のやり方に慣らしてから。3日後の夜にお散歩させましょう。」と龍治は言い、雨之内みぞれは「はい。わかりました……」と殆ど涙が溢れそうな瞳をこちらに向けて答えた。
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「ほら、行くよ。」
そう言うと木守龍治は、片手でソフト帽の上を押さえながら、
もう片方の手で、クイッと細い革紐で出来たリードを引いた。
脚の長いプードルは、膝をカクカクと痙攣させて、はあはあ……と息を荒くしながら、若干反対方向に抵抗しようとする。
「こら。こっちだよ。こっちに来るんだ。」と静かに龍治は言うと、さっきより強めにリードを引っ張った。
カールした長めのツインテールに黄色いリボンをつけてもらった犬は、砂利道に前脚を付き、垂らした舌から涎を滴らせている。
龍治は、自分の腰に付けた携帯ランタンの角度を真っ直ぐに直すと、
それを使って前方の夜道を照らし、20メートルほど先に見える街灯に向かって歩き出した。
慌てたようにプードルも脚をもたつかせながらついてくる。
……長いこと室内犬として飼育されてきたせいだろうか、この子は上手に四つ足で歩くこともままならないのか……。
「ほら、まっすぐ歩きなさい。」と言って龍治は犬の首を、僅かに乱暴に引っ張る。
頭のツインテールを揺らすプードルは、途中から抵抗するのをやめ体を引かれるに任せると、「ハッ…ハッ…」と舌を垂らして興奮したように、その場で回るようにしながらついてきた。
やがて街灯が近付いてくると、プードルは、太い木の柱の根元の臭いを嗅ぎ、お尻をこちらに向けたまま、首だけでこちらを振り返り、何かを訴えるような目をしながら腰を振った。
龍治はやれやれ……と優しく笑いながらリードを弛め、
「ほら、みぞれ、我慢しなくていいぞ。」と、
……飼い主と同じ名前のメスのプードルに許可を与えた。
みぞれと呼ばれたプードルは、不恰好に街灯の柱に向かって片足を上げ、
筋肉のない太ももを、情けなくプルプルと震わせながら、ジョロロロロロ………と大きな音を立てて放物線を描くマーキングを始める。
見上げるとスポットライトのように照らされた明かりの下で、湯気が上空に立ち昇っていくのがわかった。
龍治はしばらく胸の前で組んだ腕に、リード紐を巻き込みながら、じっとマーキングの様子を見つめ、
終わり間際になると、地面に付いた方の足に残りの雫がつーっと伝っていくのを確認した。
はあはあ……どこか苦しそうに呼吸するツインテールのプードルの首輪を龍治は容赦なく引っ張り、付き出したお尻を無表情で見下ろす。
そして持ってきていた紙袋から水筒を取り出すと、
手際良く中に入っていた水を使って、汚れた木の柱を洗い流した。
その水溜まりを舐めようと、鼻先を地面に刷り寄せていくみぞれの飼い犬を、「コラ!」と引き剥がし、彼は軽く手の甲で彼女のお尻を叩いた。
「汚ないからやめなさい……。よし。いい子だ。……暗いね。長いこと室内にいた君には日光が必要だ。次は昼間、明るい時に散歩しようね」と龍治が、叱った後は優しく犬に話しかける。
ツインテールのプードルの動きがピタリと止まり、道の途中で怖がるように蹲った。
「どうしたの?怖い?昼ならこの先の村境で、丁度道路工事をしている作業員が大勢いるからね。……それなら向かいの遊歩道を散歩するのはどうかな?離れたところから君のその可愛らしい姿を見てもらうといい。皆、君のように可愛い犬を見たら癒されるんじゃないかな……まあ、でも今はまだ自由に遊んでいていいけど、折角みんなに見てもらうなら、芸を少し覚えてみるのはどうかな?」
そう言うと龍治は、「試してみようか?」と悪戯そうに微笑みながら言った。
ふわふわのツインテールに小さなリボンを結んでいるだけで、後はドッグウェアを着ていない、このプードルの頭をよしよし…と撫でてやると、彼女は嬉しそうにベロを出して、激しく呼気を連続させる。
すると大人の落ち着きを備えた木守龍治は、
厳格な態度で「お手。」と呟いた。
差し出された男性の手をプードルはペロペロと舐める。
「……駄目か…」と龍治は可笑しそうに笑い、次に「お座り」と言った。「お座り!」「お座り!」「お手!」と何度か彼女の目を見つめながら言い続け、
最後に彼は「……しょうがないなあ……」と溜め息をつくと、
「じゃあ……鎮鎮。」と強い口調で言った。
長い毛を2つ結びにした品のよいお顔のプードルが……ビクッとして体の動きを止める。
「ん?ひょっとして、これなら分かるのかい?鎮鎮。ほら、鎮鎮だ。鎮鎮だよ。ほら、見てごらん。鎮鎮。こうだ。ほら、これが鎮鎮だよ。分かるかな?ほら、こうやって立つんだ。こっちにお腹を向けて。体を起こして。そうだ!上手だぞ!!ち、ん、ち、ん。いいぞ!!……もっと反らせて!私の鎮鎮をよく見なさい。そうすればもっとしっかり立てるから!ほら、もう少し近くで見なさい。」
「……名前を呼んでほしいのかい?みぞれ!ほら、これが鎮鎮だ!初めて見たかい?鎮鎮!みぞれ!……いいよ…!ああ……凄く鎮鎮をするのが上手だね…。みぞれちゃん……、君がこんなに鎮鎮が上手だなんて……」
龍治はそう言い終わると、可愛らしいプードル犬の後頭部を抱き締め、胸に引き寄せてやった。
飼い主と同じ名前の中型犬みぞれは、その拍子に嬉しさのあまり、お世話をしてくれている男性のお膝に、じゅぅぅぅぅぅぅぅぅ………と温かいものを放出し始める。
そして「…おい、おい、まだ残っていたのか……」と呆れたように言う優しい主の声を聞いていた。
「……参ったな……」と龍治は笑いながら立ち上がり、「ほら、まだ終わっていないなら全部出し切りなさい。」と自分の膝を水筒の水で洗い流しながら言った。
その言葉を理解したのか、しなかったのか、愛らしい見た目をしたツインテールのプードルは、急に真面目な顔をしてその場に座り込むと、
踵を立てた姿勢で……こちらを見ながら、脚と脚の間に柔らかいものを、むにむにむに……と、次々に落とし始めた。
「おおっと……」と言って龍治は、紙袋の中から白いゴミ袋を取り出すと、
みるみるうちに地面に横倒しになっていく、まだ温かいそれらを、手に巻いたビニール袋で拾い、裏返して優しく包み込んだ。
全てを終え、キョトンとした様子で首を傾げる2つ結びのプードルは、足の裏で砂を蹴り、すでに取り除かれたものを隠そうと穴を掘り始める。
龍治はリードをクイッと引っ張り、「やめなさい。さあ、行こうか」と言った。
彼はポケットからティッシュを出し、彼女のお尻のまわりの毛にこびり付いたものを綺麗に拭いてやった。
この子の尻尾は、昔の悪い習慣そのままに根元から切り取られてしまっている……。
その痛々しい姿を龍治は見つめると、
………可哀想に。雨之内さんも酷いことをするな。飼い犬は尻尾を切ると病気になりづらいという迷信を信じたがゆえの手術だったのだろうが、だからと言って、こんな無知ゆえの愚行が許されるという訳ではない。だが彼女の態度を見る限り、この子に対する愛情は疑いようがない。もしかしたら、トイプードルと思って育てた子が実はミディアムプードルだったがゆえに、手に余って飼育を放棄してしまったのかも知れない……。と考えていた。
「ただいま戻りました。」
犬を連れた龍治が、雨之内みぞれの泊まる部屋の扉をくぐると、
すぐに、アイドル歌手であるみぞれが、立ち上がって彼を出迎え、部屋着のローブを羽織った姿で、「……ありがとうございました。」と赤い顔をして頭を下げた。
「元気に走り回っていましたよ。……少し汚れてしまったようですが、よかったらお風呂に入れて差し上げましょうか?」と療養所のスタッフの顔に戻った木守龍治が事務的な声色で言った。
髪を2つに結んで肩に垂らしたみぞれは、一瞬パアッと嬉しそうな表情をしたが、
……すぐに真顔になり、「いえ、そこまで甘えるわけにはいきません。この子のお世話をしなければならないのは、本来私なのですから……」と言った。「この子……すっかり木守様に懐いてしまって……心を許しているのが手に取るように分かります。……女の子だから、男の飼い主が好きなんですかね……なんだか恥ずかしい……」
「そんなこと言うものではないですよ。犬という存在は、大人になってもまだ子供のように純粋なのです。……甘えさせておやりなさい。」
「……この子…体だけ大きくなって……正直、気味が悪いと感じる時があるんです……全然可愛くないっ……て思う時があって……実は私、この子をぶってしまったこともありました。……これは躾なんだって自分に言い聞かせて……」
黙って聞いていた龍治は、今日何度目かの溜め息を、少しオーバー目に吐いて、
「……最低限、トイレの躾はしないといけません。貴女は間違っていませんよ。」と言った。
飼い犬とお揃いの黄色いリボンを結んだツインテールのアイドルは、唇を咬み、ふるふると震わせて「……あ、ありがとうございます。そう言っていただけると……救われます」と言うと涙を溜めた大きな瞳を伏せた。
足に擦り寄ってきた大きなプードル犬が、自分が原因で汚してしまったズボンの膝に、
押し付けた腰を必死に振っているのに気付き、龍治は「メッ!」と鋭く言って犬のお尻を叩いた。それでも腰を振るのをやめないメス犬を見て、
彼女の首輪から赤いリードを外すと、彼はそれを何往復かして折り畳み、手を振り上げてピシリッと強めにお尻に打ちつけた。
「……ごめんなさい……この子、本当にいやらしい……。女って嫌ですね……」と、みぞれが頬を赤らめながら言い、
「木守さん、お膝のところ、そんなに汚れてしまって……や、やはり……よろしければ、この子を洗ってくださるついでに、ご自身もお体を洗われていかれたらいかがですか……」と言いにくそうに、つっかえながら呟いた。
龍治の腰で、ポケットベルが鳴る。
「……おや……。私もそうしたいのはやまやまですが……。呼び出されたようです。また、明日、天気が良ければその子をお散歩に連れていって差し上げますよ。今度は日が高いうちにしましょう。まだ人目が気になるなら早朝に致しましょうか?……その方が、その子も喜ぶのではないかと思いますよ。」
「……はい。」と、ツインテールの雨之内みぞれが小さな声で答えると、龍治は、床で四つん這いになるプードルの頭をくしゃくしゃ!と乱してやり、「また明日ね」と言って、
縋り付く犬を振りほどき、足早に部屋を出ていった。




