#18 第八十四噺
当代きっての人気声優、小山内 囲炉理は、
四国山にある療養所型温泉施設『龍神の湯』の3号室に、一週間ほど前から滞在していた。
彼女は、まだメジャーデビューしたての頃、某アイドルアニメのセンターキャラに大抜擢され、そのまま一躍トップ声優の座に登りつめたという経歴を持つ、正真正銘の職業声優であった。
容姿と歌唱力と、ダンスのセンス。どれもがそこまで一流とは呼べない彼女ではあったが、
ほぼ天然でアニメキャラ声を発声する唯一無二のロリババア声帯は、
その後多くの作品でハマリ役を生み出すこととなった。
だが、何よりも小山内 囲炉理の名を有名にし、またその地位を不動のものとした一番の理由は、
彼女の声が、生成AIおちゃっぴーの中の人の音源に採用された、という事実一点のみであった。
これにより彼女の声は、ほとんど国民的ともいえる認知度を獲得し、
このまま歳を重ねれば国民栄誉賞にも手が届くかもしれない……。と言われるまでになっていた、そんなある日、
小山内 囲炉理(26)は、
あまりに有名な自分の地声のせいで、身バレしない為に、日常生活の全ての場面で『まともな常識人』の声を演じ続けなければならない疲労から、
突然声がいっさい出なくなってしまったのだった。
全ての仕事をシャットアウトし、引退することも考えた囲炉理だったが、
その代わりに彼女は、仕事中、常時携帯アプリをONにし、自分の代わりにおちゃっぴーに喋らせることを選んだ。
だが、その生活もひと月あまりで限界を迎え、
囲炉理は疲労困憊のなか、闇旅行代理店から紹介された、この秘湯温泉『龍神の湯』に長期滞在プランを申し込んだのだ。
……外界から隔絶されたこの環境で、いろりは、人と喋ることなく、1ヶ月あまりを無言で滞在する予定であった。
ただ最近の彼女は、自分の声の代わりにおちゃっぴーに喋らせ続けるあまり、
自身の思考までも生成AIに乗っ取られているような気がしており、
念のためにいろりは、頭にアルミホイルで作った帽子を被り、電波を遮断することにしていた。
**************
アルミホイル製の王冠を被った妙齢の女性が、
カウンターに肘をついて寄りかかり、帳簿に目を通していた木守龍治の正面に無言で立ちながら、目だけで何かを訴えてくる。
ゆで玉子のようにつるっとしたおでこと頬を持つ顔に配置された、小さな目鼻立ち。そこまで美人というわけではないが、きちんと化粧された顏には、プリンセス、とでも呼びたくなるような、常に人から見られる職業特有の自信や気品のようなものが現れていた。
「……なにか御用でしょうか?」
と龍治が顔を上げ、低いイケボで囁くように尋ねると、
すぐに彼女の自信に満ちた態度は崩れ、(はわわわわ……)と、顔の前で手をワタワタと振り、 口の形を雲にしながら、「………」と真っ赤になって俯いてしまった。
龍治は、チラッと帳面を確認し、「小山内さま、ですね?…こんにちは。チェックインから一週間が経ちましたね。当施設を快適にご利用いただけておりますか?何か不満はございませんでしたか?」と聞いた。
(ふえぇ……)と、いろりは無言で呟き、ササッとピンク色の革の手帳を手元で開くと、指をコックリさんのように素早く十字に動かして、
『快適だっぴ。』とおちゃっぴーが答えた。
合成音声が喋っていることに全く気付いた様子のない龍治は、「それは良かったです」と言い、「で、なにか御用でしょうか?困っていることがあれば、なんなりとお申し付けください。」と付け加えた。
いろりは、モゴモゴと口を動かし、何かを言いかけるように、眉を上げ、目を見開き、顎を下げるが、
……やはり口には出せず肩を落とし、再びピンクの手帳の表紙を裏返して、ササササ……と指をページに這わせた。
「小山内さまがお困りのことはなんでしょうか?」と龍治が質問をする。
すると、おちゃっぴーが『小山内いろりが困っていること…?…うん、彼女マジで1ヶ月近く声が出ないらしいよ、でもそれはお医者さんに相談すべきだよね。』と答えた。慌てて、いろりが質問に対する回答を打ち消そうとしている間に、おちゃっぴーが勝手にペラペラと喋り続ける。
『…詳しくはお医者さんか専門家に相談してほしいけど、肥えが出ない時は、浣腸をするといいんじゃないかな。』
いろりが(はあ??)といった顔をして、自分の合成音声に即座に地声で言い返そうとするが、……喉からかすれたような息だけが漏れるだけで、
無言でパクパクと口を動かすことしか出来なかった。
受付の龍治は難しい顔をして、
さっきから話が噛み合わないように見える、この若い宿泊客のことを黙って見つめていた。
やがて龍治は「なるほど。多分だいたいは理解出来ました。そんなに出ないのなら、当ホテルがお手伝いした方がいいかもしれませんね。」と言う。
(違うんです!!)と、いろりはブンブンと手を顔の前で振り、丁度カウンターにあったメモ帳とペンを掴むと、
丸文字で、『お部屋に運ばれてくるごハンにもソロソロ飽きたので、今日は食堂でラんちを食べにきましタ☆』と精一杯可愛く書き込んだ。
龍治は、(ああ、この方もそっち系か……)としたり顔で頷き、
……ラんちを食べるのか……なるほど。本当に世の中には色々な人がいるな…と、この女性を改めて見つめ、
「それには、まず出さないことには始まりませんね。」と言った。
「出すにはまず、イチジクを人肌に温めた方がいいです」と龍治が続けて言う。「次に体の左を下にして横向きに寝て、イチジクの先端にオリーブオイルを塗ると入れやすくなりますよ。で、10分くらい我慢して待てば、ラんちが出てきます。」
『だよね、判る判る。リラックスして息を吐きながら奥まで入れるといいっピ。』とおちゃっぴーが補足する。
「そうですね。」と龍治もいろりの声に同意した。
……イチジクにオリーブオイル……なんか美味しそう……。横になっている間にランチが出てくるとは、流石ホテル暮らしね。
『今日のラんちはナンですか?』と、いろりがメモ帳にサラサラ……と書き込む。
「ナン?ああ、カレーのことをおっしゃっているんですか?」と龍治が答える。
『うん、このホテルのカレーは有名だよね。知ってた?インド式だと素手で食べるんだよ。ただし左手は不浄なので使用しちゃだめ脱糞。』とおちゃっぴーが言った。
「ん?逆に左手を使うんじゃなかったかな?確か左手が拭く方の手ですよね。」と龍治が言う。
『おちゃっぴーは、よく嘘をつくので気にしないでください。ムリは言いません。ナンが無かったら、パンをつけてもらってもいいです。』と彼女は若干判読しづらい丸文字で、希望を書き込んだ。
筆談と口頭で、一人自問自答を繰り返すつくしを見つめ、龍治は読みにくい彼女のメモに対して目を細めると
「パン…ツのまま直接ですか?」
と言った。そして慣れた様子で帳面に何かを書き込み終わると、蒔絵が装飾された高価そうな万年筆をピタリと止めて
「オムツでなくて良いですか?」と改めて聞き直した。
『オムレツですか?』…あれ?カレーじゃなかったのかしら……?と、いろりが迷いながらメモ帳に質問を書き込んだ。
「はい。その方が良いかと。」と龍治が答える。
……カレーとかオムレツとか……『今日はお子様ラんちですか?』と、いろりは上目遣いで、このイケオジのスタッフにメモ用紙が見えるように差し出した。
「はい。当施設ではそういったプレイを望まれる方が多いですよ。小山内さまも童心に帰ってみてはいかがですか?」
と龍治が言った。「龍神の湯では、社長さんも政治家さんも、おねーさんも、人々に希望を与えるアイドルも……、大人のルールを一度忘れ、童心に帰ったり、モラルを無視することで、心も体もリフレッシュして、また社会に戻っていかれます。」
お子様ラんちか……懐かしいな。
と、いろりは遠い目をし、
上半分が平らになった陶器の白い新幹線に、こんもりと盛られた丸いお山と、そこに立てられた旗を思い出していた。
メラミン製の割れないコップに注がれた、黄色いオレンジジュース。
小さい頃母親から、ミートソースで汚れたお口を紙ナプキンで拭いてもらったりしたっけ……。『あんまり騒いじゃダメ!いろりちゃん、しーーー。だよ?出来るかな?』『し~~』『はい、上手に出来ましたあ。』
『お子様ラんちでもいいかな』と、厚紙にアルミホイルを巻いて作った冠を被るいろりは紙に書き入れた。「はい。小山内さま。どうぞ子供時代にお戻りになられてお楽しみください。でも無理に肥を出そうとしなくてもいいですよ。本当に少しずつでいいんです。力み過ぎると途中でポッキリ折れてしまいます。ゆっくりと……最終的に全部出しきりましょう。」『ありがとう』と、いろりは少し涙目になりながらメモを返した。
その時だった。
龍治の手元で5号室のランプが点滅し、同時にプププププ………と薄ベージュ色のプッシュホンから静かな音が鳴った。
「ちょっと失礼いたします。」と龍治は手を伸ばし、いろりに背を向けると、螺旋状のコードに繋がったレトロな受話器を耳にあてがう。
それを見た、いろりは王冠の傾きを少し直すと、背後にあるレストランの席へ歩いていく。後ろから小さな声が聞こえる。こちらに聞こえないようにボリュームを落としてはいたが、低くよく通るイケボはいろりの耳に届いていた。
「……他のお客様の世話をするなと?そうですね……はい。はい。…そうおっしゃるならやむを得ませんが。え?今すぐ来てほしい?はい、わかりました。少しお待ちください。」
龍治は5号室の宿泊客と一通り話しを終えると、受話器を置き、グレーのジャケットの肩の位置を合わせ直しながら、そのままスタスタとレストランの方へ向かっていった。
そしてうやうやしく一礼をすると、「小山内さま、すみません。他のお客様より呼び出しが入ったもので。これにて失礼させていただきます。……良かったら他のスタッフをお呼び致しましょうか?」と言った。
一人用の丸テーブルに着いたいろりは、ダンディーな係員を見上げ、首をふるふると横に振った。
立ち去ろうとする龍治の袖を、いろりが引っ張り、引き戻す。
『今度、ラんちをご一緒にいかがですか?』テーブルに置かれたナプキンに書かれた文字をそっと差し出す。
龍治はそれを一瞥した後『……申し訳ごさいません。私はお客様のラんちのお世話は出来ますが、ご一緒にすることは出来かねます。』と、礼儀として丁寧に横に書き込むと、「私の名前は木守といいます。その他のことでしたら、この宿泊中は何なりとお申し付け下さい。では……」と言って立ち去っていった。
残されたいろりは、そのナプキンを綺麗に折り畳み、上着のポケットにそっと差し込むと、喉の奥で声を出さずに『あ、り、が、と……』と呟こうとしていた。
**************
コンコン………
木守龍治は、ゴム手袋とマスクを装着すると、5号室の扉をノックした。
相変わらず返事がないので、龍治は「冴木さん、入りますよ?」と言ってドアを押す。
ぐるりと白い部屋を見渡すと、
部屋の中央に、ペタンとお尻をついた冴木みくるが、こちらを睨んでいた。
彼女の年相応に落ち着いた大人っぽい水色のスカートの前には、クレヨンが床一面に転がっていて、
それらは折られ、巻き紙がビリビリに破かれ、床と絨毯にぐちゃぐちゃに描かれた線が、混ざり合って茶色く濁っていた。
「冴木さん……どうされたんですか?」と、龍治が優しく声をかける。
みくるは、黙ったまま口の中で唾を溜めたような咀嚼音を立ててから「遅いんだよ……」と呟いた。「私が呼んだら早く来い。……他の宿泊客に対応してんじゃねーよ。」
「申し訳ございません。」と、慣れた様子で龍治が頭を下げる。
「…申し訳ございません、じゃねーんだよ。見ろ…お前が手伝ってくれなかったせいで、全部グチャグチャになっちゃったじゃないか。どうしてくれんだよ??」と吐き捨てるように言うと、
髪の長い、何処かのご令嬢のような佇まいをしたみくるは、床の上でスカートを開き、
お尻の下に隠れていた白い画用紙の中央に、擦りつけるように塗りたくられた黄土色と茶色と黒の柔らかい固まりを見せてきた。
「みくるはな!お前がすぐに来なかったせいで上手にお絵描き出来なかったんだからな!クソが!ほんっと、役立たずだな!?お前が全部悪い!!」
罵声を浴びながら龍治が改めて部屋の中を見渡すと、テーブルの下には水彩バケツがひっくり返っており、
タイル張りの床部分に、色のついた水が大きく拡がっているのが見えた。その水溜まりから彼女の小さな足跡がここまで続いており、
視線をみくるに戻すと、彼女の口元には掠れた茶色い色が残っており、どうやらクレヨンを少し噛ってしまっていたようだった。
龍治は「冴木さん。お絵描きはちゃんと紙の真ん中にしてくださいね」と言いながら床に膝をつき、濡らした布巾にアルコール水溶液を染み込ませると、汚れをごしごしと拭き始めた。
「おい!!床よりも先に国民的美少女を拭けよ!アホ!」と冴木みくるが怒鳴り、
脚をガバッとひろげる。
「かしこまりました。」
龍治が近付いてくると、みくるは顔を赤くして、「な、なんだその顔は?!わ、私みたいな大人の女性がクレヨンでお絵描きなんかして頭おかしいとか思ってんだろ?!」と早口で言い、
「そんなことありませんよ。」と静かに返事する男性に「バカ……思ってるくせに…」と寂しそうに囁き返すと…、徐々に体の力を抜いて、
クレヨンの汚れがついた洋服のボタンを一つずつ外してもらう度に、段々と表情が呆けていくのだった。
脱線したっピ。
カレイドスコープ先生のお話には八百万近いキャラクターが出てくるので、
みんなも顔と名前を覚えてあげてね!
次回は本編に戻ります。




