#14 第八十八噺
「ちょ、ちょっと?!姫様??なんでキスすんのよ??」
蛍は、蟲姫の手を振りほどいて一歩後ろに飛び退いた。
「え~~?久々だし少しぐらい良いであろう?ここ数年で気付いたらおぬしが、また勝手に大人になってしもうておったから…、しばらく妾は我慢していたのだぞ?それに今朝はまだ歯を磨いておらぬから、ベロまでは入れぬようにしてやったではないか?!」
「はあ??ベ、ベロって……!!て言うか、歯磨いてなかったの、アナタ??」
蛍はそう叫ぶと、改めてこのタンポポ御殿、……通称、三神丘のゴミ屋敷を見渡した。
よくよく目を凝らすと、座敷の方にはパンパンに膨らんだ半透明ビニール袋がぎゅう詰めに押し込まれているのが見え、至るところにお惣菜やカップラーメンの容器が転がっているのが目に入る。
いつ脱いだか分からない着物や洋服が、草の生えた畳に散乱しており、
「さあ、さあ、そんな所に突っ立っておらんで、入れ入れ…」と腕を引っ張られて靴のまま上がった八畳の和室には、泥沼のように溶けた畳の中央に白い布団が敷かれていて、
その周囲を色々な種類のきのこが囲っていた。
蛍は、あちらこちらに脱ぎ散らかされた、黄ばんだ足袋から目を逸らしながら、
辺り一面から漂ってくる生ゴミの臭いに唖然としていた。
足元には、DMのハガキや、まだ開けられていない銀行や各種機関からの封筒が山積みになっていて、一部破かれたと思われる請求書類も、ろくに開かれないままいちいち輪ゴムで纏められて放置してあった。
「ピザのチラシとか捨てなさいよ……」
蛍は部屋を見回し、……やがて怖いもの見たさで一番近くにあった押し入れを開けてみた。
ん……。内側から何かが引っ掛かって開け辛くなっていたが、えい!と無理矢理に横に引き抜くと、
……中には未開封の電化製品の箱が山のように突っ込まれていた。
「……ミキサーが3台もあるわよ……」
「ん?なんだ宮代、欲しかったら持って帰ってもよいぞ。」
「いやいや、いらないから。」
「そうか?ならば早くおしめ縄を出してたもれ。」そう言うと、蟲姫は腐った布団の上にペタンと腰を下ろし、その不思議な力でお尻の下のシーツを洗ったばかりのお日様の匂いに変化させながらニッコリと微笑んだ。
そうか……
……きっと蟲姫様は、その類いまれなる浄化能力により、近くにあるものを再生することが出来る。だから掃除やお片付けをする必要がないのね……。
でも、多分その力が及ぶ範囲は自分の体の外側だけ……。そして、自分自身と自分が一度身に付けたものは、自動的に浄化することは出来ないというわけか。
蛍は、蟲姫の透き通るような白い髪の間に、
ポワン・ド・ガーズのレースに似たふけの塊が織り込まれているのを見つけて、
「姫様……いつから髪を洗ってないの?」と聞いた。
蟲姫は、ん?と顔を上げ「うふふ、『姫様』だなんて呼び方はやめるのじゃ。くすぐったい。いつものようにヒナコと呼べ」と答えるとポリポリと首の辺りを掻いた。
ピョン!と3匹くらい蚤が飛び、同じくらいの脚力で蛍も後ろに飛び退いた。
「なんじゃ、そのリアクションは?……そうか、そなたの訪問介護は考えたら1ヶ月ぶりくらいじゃったな。先にお風呂にするか?それとも朝飯にするか?それとも、ワ、ラ、ワ?」と言って紫の袴の裾を、スッと持ち上げる。
見た目はうら若き超絶美少女である蟲姫のか細い脛は、…全く無駄毛の処理がされていなかった。
「ちょっと待ってよ!!そもそも宮代家はアナタのお世話をどこまで請け負ってんのよ??!」と叫び、蛍は腰に帯刀したメノコマキリに手をかけ、姿勢を低くして構えた。
「宮代、今日はそれで妾の産毛を剃るのか?なんだかスリリングじゃな……ワクワクするぞ。」
「待ちなさい!!そこまでやるとは聞いてないわ!!今日持ってきたのは、おしめ縄と、溜まった学校のプリントと、1ヶ月分の宿題だけよ!!あと、一応給食の集金!アナタは食べてないでしょうけど払うことになってるって聞いてるわよ!」
「なにをそんなにプンプン怒っておるのじゃ?どちらかと言うと怒るのは1ヶ月近く待たされた妾の方じゃぞ?……判った判った。お風呂はもうよいから、先におしめ縄だけでも変えてもらえんかの。さすがに限界まで吸い込み過ぎて重くて敵わん。」そう言うと蟲姫は布団の上で脚を開いて寝転がった。
「……じ、自分で代えなさいよ!?」と、蛍は真っ赤な顔をして、肩に提げていた通学鞄を苦労しながら開けると、
固いチャックを何度か引っ掛けてトビー織りの白い綿布を引っ張り出す。
「新しいおむつカバーもあるわよ!ほら!後は自分でやんなさい!古い洗濯物はどこよ!?それだけは持ち帰ってあげるから!!」
蟲姫は口を尖らせて、むくりと起き上がり、パステルイエローのおむつカバーを受け取りながら「汚れたものはそっちの襖の向こうにあるぞよ」と言って奥を指差した。
この八畳の寝室は、同じ大きさの部屋を真ん中で襖を使って区切っているようで、ぶち抜けば十六畳の大広間になる構造らしかった。
蛍はプンスカと肩をいからせながらドスドスと畳を土足で歩いていき、
松が描かれた穴だらけの襖をバン!と開け放った。
「…う……」
もう片方の座敷には、
脱いでそのままにした汚れものが、途中まで畳み掛けた状態で床中に散らかされていた。
恐る恐る、その一枚を指で摘まみ上げると、
びっしり黴の生えた白い布の下から、大きなヤマトゴキブリがカサカサカサ……と這い出してきて、「キャ!!」と蛍は慌てて手を放した。
「か、厠はどこ……吐きそう……」
蛍がそう言うと、後ろから蟲姫が滑るように歩いてきて、「大丈夫か?」と心配そうに背中を摩ってくる。
床に落ちたおしめ縄は全部切れており、内側に縫い込まれた御札は、汚れで文字が見えなくなっている。
それに混じって、丸められた使用済紙おむつのロールが至るところに散乱しており、使いかけのパッケージが口を開いたまま、横倒しになっているのに気付いた。
「……待って姫様?アナタ紙おむつも使ってるの?」
「ああ、それのことか。」と蟲姫は優しく蛍の背を摩り続けながら、時折ブラの後ろ紐辺りをじれったそうに指で触りつつ言った。
「最近、おちゃっぴーに相談して、ネット通販で取り寄せてみたのじゃ。おぬしがあまりにもうちへ来ないからな。宮代のおしめ縄が全部無くなる前にこれで代替えに出来るかどうか、数日試してみたのじゃが……」
蛍は青い顔をしながら冷や汗をかき、
背を丸めて蟲姫様を振り返った。「で?」
「ああ、それでな……これはおぬしの所の布に比べると、何だかガサガサして、やはり余り使い心地がよくないのだ。安い海外のサイトから取り寄せたものは駄目じゃの。御札もすぐに使い物にならなくなってしもうたわ。」
「なにそれ…ちょっと見せてもらっていい?」
蟲姫は「いいぞよ」と言って、床にある汚れものに手を突っ込み、触覚を振るゴキブリを優しくはね除けながら、細いしめ縄と、文字が印刷された薄そうな紙の御札を抜き出してきた。
しめ縄はいかにもすぐ切れそうな安っぽいゴムのような素材で出来ていて、御札は印刷がずれているばかりでなく、漢字が間違っていて、字体も日本ではあまり見かけないものだった。
「て、言うか、この図案、よく見たら龍じゃなくて蛇よ……どっちも細長いからって適当過ぎない?粗悪品よ、これ。こんなの使っちゃ駄目でしょ。」
「怒るでない宮代、妾がネットに浮気をしたことは謝る。二度とせんと誓うから……なあ、お願いじゃから、そろそろおしめ縄を代えてはくれぬか?……そろそろ限界じゃ……」
視線を落とした蟲姫の見ている先を目で追うと、紫色の袴から覗くくるぶしに向かって、白い蛆虫がポロポロと5、 6匹落ちてくるのが見えた。
「うぷ。」と蛍は白目を剥いて口を押さえ、「そんなに限界まで我慢しないで、自分で履き代えなさいよ…」と呟いた。
ぞわぞわぞわ……
板天井を複数の脚を持つ生き物が這い回り、ポトポトと何匹かが床に落ちてくる。頭にかかったものを蛍は慌てて、パッパッと払い除けると、沖縄にしかいないようなワラジ大の羽無しゴキブリ達が、白い布の下から湧き出してきて、
狭い範囲で体をぶつけ合うと、共喰いを始めた。
蛍はマキリを抜き、目の前に落ちてきた親指くらいのハサミ虫を一刀両断し、
いつの間にか白目側に黒目を侵食させて立っている蟲姫の手を引いた。
「もう!姫様!お風呂はどっちよ?」
白髪の姫は答えず、唇の端から蛙の卵に似た泡を垂らしながら、痙攣する腕で辛うじて廊下の先を指差した。
廊下に生える草を掻き分けながら、蛍は蟲姫の腕を引っ張り、頭を仰け反らせ揺れながらついてくる少女と共に台所へ入っていく。
流しには洗っていない皿や、食べかけの惣菜に黴が生えたものなどが溢れていて、今ではあまり見かけなくなった大きな金蝿がぶんぶんと飛び回っていた。
蛍は鼻を摘まんで、その先にある湯殿に入っていった。
浴室は、壁も床も天井も、ぬるぬるとしたもので覆われていて、
湯船には大きな垢やマリ藻のようなものがプカプカと浮いている。
「綺麗な水はないの……?」
蛍はそう独り言を言い、片手に抱えたおしめ縄を一度台の上に置くと「姫様、ちょっとここで待ってて」と言った。
……もうイヤ……と、蛍は涙目になりながら勝手口を出て、すぐ外に見つけた井戸の方へ向かっていった。
……紬……たしゅけて……ホタルはお世話されるのは大好きだけど、お世話するのは大嫌いなのよ……。お掃除はするけど、どう考えても介護は責任範囲外よ……蟲姫様なんてキライ………。
タンポポ屋敷の裏庭には不法投棄されたソファや冷蔵庫が倒れていて、蛍は目当ての井戸を見つけると、急ぎ足でそちらへ歩き出していた。
石垣で出来た井戸には朽ちかけた屋根がついていて、そこには螺旋状に捻れた瓦のような見た目の簾が被せてある。
………何かしら。
微妙な違和感を感じて蛍は、少し腰を落としながら、井戸の中心から視線を外さず、この瓦の周囲を回り始めた。
……違和感というか、何というか………これ、生き物?…て言うかムカデ?それともヤスデ……?
蛍は躊躇せずメノコマキリを抜くと、素早く顔の前にかざした手の甲に、冷たい刃の裏をあてがって、刃紋の向こうから鋭い眼光を覗かせた。
目の前にいるのは、ゆうに2メートルを超える巨大な節足動物、古代のヤスデ、アースロプレウラであった。
…小さい虫はキモいけど、大きいのなら……殆ど魔物と同じだから怖くないわ。
……毒とかあるのかしら……にしても、あの外骨格は硬そうよね……
ひいふうみい………32節……目らしいものはここからだと見えない……ん?あれが触覚かしら……。
そしてこの腐ったような臭い……肉食である可能性を否定できないわね………先手必勝……
シュパッ!と靴の裏に衝撃波を発生させて、
蛍はほとんど回転しながら、瞬時にヤスデの捻れた体の内側へ切り込み、
肩を使って虫の脚と脚の付け根を押し上げると、
一気にマキリの先端を腹の装甲の中心に刺し、そこから頭部に向かって真っ二つに切り裂いた。
ブシャアアアアアア………!!
粘り気の少ない体液が霧状に吹き上がり、蛍は足を垂直に蹴り上げて、分断した虫の体を蹴り飛ばした。
ふう。
………。
くっさ……。
蛍は鉈の汚れをセーラー服のリボンで拭き取ると、鉄の蓋と漬物石で封印された井戸に向かい、ヨッコイショ…とそれを開けて、暗い水の底を覗き込んでみた。
………。
………。
……駄目だ……これ水銀とかで汚染されてるでしょ、多分……。
奥の方に見える水面に、魚が腹を浮かせて死んでいるのが見える。…ネズミの屍体も見えるわ。
……かくなるうえは……。
蛍は井戸の滑車から垂れた縄に掴まり、足を高く上げて井戸の淵に登った。
……これは浄化が必要よね。やれやれ。
宮代の巫女は、穴に落ちないようにバランスを取りながら衣服をずらし、井戸水に向かって御神水を注ぎ入れようと準備を始めた。
『駄目じゃ!!宮代!!』
悲鳴に似た叫び声が上がり、
蛍は背中から体を鷲掴みされ、危うくそのまま井戸に転落しかけた。
「な、な、なによ??!危ないじゃない?!」ドシャーン!!
蟋蟀のように思い切り脚を突っ張った蛍は、井戸とは反対側へ、襲いかかってきた蟲姫を体ごと背中から地面に叩きつけた。
肩甲骨辺りを強く打った蟲姫が、ゴホゴホ…と咳込む。
「駄目じゃ……ゴホッ宮代……井戸は駄目じゃ……おぬし、50年前に一度ここに落ちて死んでおるじゃろ…。あの時、妾は心が潰れるかと思ったぞ……。宮代……行くな………もう二度と妾を置いていくな……判っておるじゃろ?もう蟲姫には誰もいない。母上も父上も弟も……とうの昔に死んでしもうた。妾には…おぬししかおらぬのじゃ………」
蛍の下敷きになる蟲姫は、ポロポロと涙をこぼし始め、首を曲げて顔を近付けると、涙と共に彼女の濁った黒目が白く洗い流されていくのが見えた。
「判った、判ったわよ……泣かないで。判ったからもう放しなさい…… 」
蛍はそう言うと立ち上がり、セーラー服の埃をはたきながら、まだ地面に仰向けになったまま泣きじゃくる姫のことを見下ろしていた。
やがて肩で大きく溜め息をついた蛍は、左手をキツネの形に、右手を転法片輪印の形にすると、
「一切衆生の罪穢れの衣を脱ぎ去らしめ給え」と唱えながら、ピッピッ…と蟲姫の額の前で指を振った。
「おしめ縄を代えてあげるから、そう騒がないでよ……。ほら、綺麗にしてあげるから、代わりにアナタ、村で大暴れしている虫達を少しは抑えなさいよね……」
そう言うと蛍は、諦めたような表情で、姫の袴の紐をほどき始め、同時に彼女の上に股がって宮代の御神水を直接かけてやる準備を始めるのだった。
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