#13 第八十九噺
薄ピンク色の布を、木製の丸いピンチハンガーに掛けながら、
宮代蛍は、難しい顔をして正面をじっと見つめていた。
……やっぱり。淡い色の洗濯物だと、綺麗に汚れが取れないわね……。
て、言うか…ゴシゴシこすり過ぎて内側が若干毛羽立っちゃったわよ。可愛いのデザインなのに申し訳なかったわ……メイカに怒られるかしら、これ。
蛍はしばし迷ったような素振りを見せた後、
洗濯機の上に乗せていた鉄の御札を手に取り、
「…おちゃっぴー?黒っちの汚れを取るにはどうしたらいい?」とハンズフリーで尋ねた。
『その部分の汚れには色々な原因があると思うけど、キミの場合はどういう感じなのかな?教えてくれる?』
蛍は、これは友人の話であることを前置きした上で、「血はまだ出ていないのに、黄ばみ、黒ずみがなかなか取れないの」と説明をした。
『ふうん。多分キミのお友達は、思春期以降のホルモンの影響でアポクリン腺が活発になってるんじゃないかな。鉄分、タンパク質、脂質、アンモニアを含む汗が、菌によって分解されると、
通常の皮脂汚れよりも頑固になることがあるね。因みに臭いはある?』
「ええ、洗う前にはあったわ。酸っぱいスパイスの香りみたいなやつ。」
『うん。間違いないね。その臭いはね、原始人の時は異性を惹き付けるフェロモンの役割があったものだけど、現代人にとってはただの体臭だね。今だと異性は逆に逃げる場合が殆どだね(笑)。まあ例外はいるにはいるけど。ほら、そういうのが好きなのも一定数いるから。』
「それ、おちゃっぴーの友達の話?」
『そう脱皮。』
「因みに私自身はそんなに臭くないみたいだけど?」
蛍は半袖セーラーの脇の下をクンクンと嗅ぎながら言った。
『アジア人は遺伝的にアポクリン腺の数が少ないらしいからね。ひょっとしたらキミのお友達は外人さん?』
「まあ、そんな感じよ。それで、この汚れを取るには結局どうするのがベストなのよ?重曹の浸けおきは試したんだけど。」
『そうだね。じゃあアルカリ性洗剤を直接揉み込むといいよ。汚れは随分落ちやすくなるはずだよ。』
「アルカリ性か……重曹もアルカリ性でしょ?」
『そうだね(?)。じゃあ重曹でダメなら元を絶つしかないっぴ。』
「元を?」
『そう。元の体の方を、こまめに濡れタオル等で拭くといいんじゃないかな。あと、肉みたいに脂っぽい食事は避けるのがいいね。そうだ、特に乳製品は控えた方がいいかな。』
「あの子、それはもう試しているみたいよ。」
『後は、おちゃっぴーはお医者さんじゃないから、専門的なアドバイスや治療方は答えられないっぴ。でもおちゃっぴーが個人的に思うにはね…、女の子が生きて生命活動を続けている限り、下着が汚れないのは難しいんじゃないかな。。いっそ休眠、もしくは永眠させてみるのはどうかな?』
蛍は、はぁぁぁぁ……と大きく溜め息を吐き出し、「もういいわ。おちゃっぴー。所詮アナタはAI。人の心なんてないのよね。……人間の悩みを聞くんじゃなかったわ」と言ってアプリを閉じた。
……Wi-Fi使えないと、やっぱり回答の精度が悪いわね。
洗濯の為に早起きしていた宮代蛍は、同級生、愛衣花・エル・ターナーのパンツを見つめ、
『穢れの浄化』を生業とする宮代の跡継ぎとして、まだ何か出来ることがないか腕組みをして考え込んでいた。
江戸時代から続く、この『宮代の杜クリーニング店』に落とせない汚れはないはずよ……。
…………。
ま、でも、よく考えたらただでそこまでやってあげる義理はどこにもないわよね。
今回は友達だから特別やってあげただけ。
「無料の範囲はここまでよ。」
汚れの残った洗濯物をビシッと指差して、蛍はそう独りごとを言うと、この薄ピンク色の布を袱紗に包み、指先でピッピッ、と祓え詞を描いた。
さて。登校前に三神丘に寄って、蟲姫様におしめ縄を届けてあげないとね。
つーか虫がいっぱいで、ホント困るわ……。
蛍は洗面所の鏡に張り付いた、ハート型の羽虫を横目に、ボサボサの髪をブラッシングしていた。
……まったく……。こんなに朝早く起きたら、午前中の授業は寝て過ごすことになりそうよ……。そう考えながら蛍は髪にスプレーを撒き、そのままそれを鏡についた虫に吹き付けた。
プシューーー。
蛍は通学用鞄に、東の蔵から取ってきたドビー織りの綿布の束をぎゅうぎゅうに詰め込んで、その一つ一つに結ばれた小さなしめ縄が飛び出さないようにグイグイと押し、苦労しながら一気にチャックを締めた。
念のため護身用のメノコマキリを、桜の皮で縫い合わせた鞘に差し、楓製の硬い柄を少しはみ出させながら、いつでも抜刀出来るようにスナップボタンを外したままにしておく。
鞘に開いた水抜きの穴に指を入れ、刀身にたっぷり塗っておいた龍神の涎油を爪に少し移すと、
蛍はそれを改めて自分の髪の間に梳かし入れ、ごわついた毛髪を少しでも纏まるように後ろへ撫でつけた。
昔から三神丘では火薬を使ってはならないしきたりがあった為、前回のお祓いの時に使った2つの瓢箪に入れた硝酸カリウムと、砂糖と木炭の混合物は置いていくことにした。
と言うことは、万一、何らかの神と戦う時はこの鉈を使うしかない。
……まあ、蟲姫様にどんな力があるにせよ、ママが言ってた感じだと、彼女は宮代と敵対する存在ではないはずなんだけどね。
でも用心するに越したことはない。『おしめ縄が緩くなったりしてるとしたら、蟲姫様には変な神が憑いちゃっている可能性もあるから、一応注意しなさいよー。』とママは言っていた。
……なんと無責任な言いぐさ……。
こうなったのはいったい誰のせいだと思っているのよ……
蛍は学校指定のローファーを履くと、爪先をトントンと2回、石の上に叩き、誰もいない玄関に向かって「いってきま~す!」と怒鳴ると、足早に玉砂利の庭を横断していった。
**************
まだ薄暗い宮代の参道を、半袖セーラーの少女がずんずんと進んでいく。
湿り気を帯びた空気の中、蛍は腕で額の汗を拭き、リボンを提げた胸元にパタパタと空気を入れた。
それにしても蒸し暑いわねえ。
……これも地球温暖化の影響かしら。
蛍は一本鳥居の所まで来ると、一礼をした後、柱の周りを3回巡り、最後に折れた方の柱の根元を使って一度8の字に回り、
口の中で小さく「まことのむねひとすじに、みつかえもうすことのよしを、うけひきたまいて…」と呟くと、
……頭を下げて鳥居をくぐっていった。
狭い石段を登るごとに、玉のような汗が沸き上がり、こめかみから頬を伝って流れ落ちていく。
暑い……
一本鳥居から三神丘へと続く、ここ『交差の路』には、針葉樹の杉と檜が密集して育っていて、
特殊な家系の生まれである宮代の者以外がここを通り抜けようとすると、過度なアレルギー反応により呼吸困難に陥る危険性があった。その為、通常普通の人間がこの抜け路を利用することはなかったのだが、
それでも、三々賀村の長い歴史の中では、幾人かの村人が禁忌を破ってここを通り抜けようとし、
鼻水と咳に溺れたその者達の亡骸は、今も路の端に埋まっていると伝えられている。
宮代蛍は、ふうふうと呼吸を荒らげながら、肩に掛けた通学鞄を背負い直し、腰から提げた黄色い瓢箪を手に持ち直した。
キュッキュッと音を立てて、木で出来た栓を引き抜き、中に入れてきた湧き水で口を湿らせる。
その瞬間、顔の横をブワン!と振動する薄い羽が掠り、
蛍は、おおっと、と体勢を崩しながら片手をマキリの鞘に這わせると、
一気にUの字に残像を残して輝く刃を空へ切り上げた。
ドサッ
足元に落ちた物を見て、蛍はうわッと片足を上げて変な格好でお尻をこちらに向けながら固まる。
な、なによコレ……。
石段の上で体液を撒き散らしながら、まだのたうっているのは、身体が半分に切れた巨大なトンボだった。
羽の先から先まではゆうに80センチはあるだろうか。
切れ味が落ちないように、蛍はマキリを素早くスカートの裾で拭き取ると、
無表情で巨大トンボの屍体を下段に向かって蹴り飛ばした。
こ、昆虫が巨大化してるじゃない……。ここはジュラ紀ですか??それとも白亜紀??
地球史的に言うと、石炭紀かペルム紀だったが、今はそれを突っ込む友人もおらず、蛍は、どーなってんのよ……と首を振りながら再び階段を登り始めた。
……蟲姫様、ちょっとはっちゃけ過ぎじゃない?
やがて目の前に三神丘の裏手が見えてくると、宮代蛍は、鉄の御札を取り出し、アンテナが3本立っているのを確認する。
ふと気になってWi-Fiを見てみると、
『sanjin_hill_free-wi-fi』というものがあり、それには鍵がかかってた。
森の向こうに古い武家屋敷の裏手が見えてくる。
低い石垣は苔むしており、塀や瓦屋根は朽ちていて、生け垣は伸び放題で、枯れたクズの蔓があちこちを覆っていた。
……本当にこんな所に人が住んでいるのかしら。
だって100年以上打ち捨てられていたわけでしょ。
これじゃほぼレギュラーじゃない……それを言うなら廃屋でしょ……。誰か突っ込んで……(涙)
そもそも小さい頃から廃墟だった記憶しかないわ。
村の子供達はここで遊んじゃダメって言われていたけど、……確かこの家の外壁の下で蟻地獄が取れるからって20年くらい前に小学生男子達が来ていたって話があったわよね。
おバカよね……その子達の何人かは大人になることが出来なかった。
そう、ここに来てはならない一番の理由はこれ………。
蛍は、崩れかけたお屋敷の正面に回り込むと、
開け放しのまま傾いでいる長屋門から玄関に向かって、敷地内一面が真っ白なタンポポの綿毛で覆われているのを見渡していた。
この場所に群生しているのは、混じりっけ無しのニホンタンポポの花だけだった。三神丘には、繁殖力の強いはずの外来種セイヨウタンポポは一本も生えていない。
そしてここにあるタンポポ達はほぼ通年、こうして常に綿毛を咲かせているのだ……。
不用意に足を踏み入れた子供は、飛び散る綿毛が耳に入り、たちどころに聴力を失ってしまう。ましてや、それが鼻や口から入った場合は、肺にタンポポが咲き、呼吸困難のまま死に至ると伝えられていた。
また、現在では宮代の手により、村に三神丘のタンポポの種を持ち帰られることがないよう厳重に管理されているが、20年前の蟻地獄ブームをきっかけにしたパンデミックで村が汚染された時は、瀬戸際でママが村に入った三神丘タンポポを全て焼き払ったと伝え聞いていた。
その際、ここに来た村人の服は上から下までパンツに至るまで燃やされ、髪や眉毛、あらゆる体毛をつるっつるに剃られたとのことだ。そして大量の水を飲まされ、隔離された蔵の中で逆さまに吊るされ、体にある水分を全部出し切るまで一晩放置されたらしい。
1人は助からず、タンポポの花に覆われて苦しみながら亡くなった。あと数人も、結局親より長くは生きられなかったのだ。
……まあ、敷地内に入りさえしなければ、そういった危険性はないんだけどね。
特別な訓練を受けて育った宮代蛍は、
タンポポの間を歩きながらも、綿毛を一つも飛ばさず、静寂の中を滑るように水平移動をしていくことが出来た。
蛍は玄関に辿り着くと、止めていた息を吸い込み、ふう……と一息ついて瓢箪の水を飲む。
首を伸ばし、所々抜け落ちた式台から、奥の畳の間を覗き込むと、
腐ってぶよぶよになった畳から水草のようなものが生えているのが見えた。
板張りの廊下には水仙が咲いており、その毒性の強い緑の葉が根を張っている様子も確認出来た。
……ここ、靴を脱いで上がらないとダメかしら……。
足元を小さなヤスデがサワサワサワ……と複数の脚を奏でながら通り過ぎていき、石の上には沢山のダンゴムシが体を水平にして這っていた。
「……ど、どなたかおりませんかあ~~」
し~~ん………
「お届けにあがりましたよ~~」
「矢峰日向子さ~ん、宮代がまいりましたよ~」
………。
……。
…。
「遅い!」
トタトタトタ……と奥の座敷の方から足を擦るような軽やかな音が聞こえ、
「宮代!今までなにをしていたのじゃ!」と言いながら、
タンポポの綿毛のように、真っ白な長い髪を下ろしっぱなしにした少女が駆け寄ってくる。彼女の歩く場所だけが、真新しい畳に生まれ変わり、板張りの床もニスが塗られたばかりのように輝く。
少女は、卍崩れが可愛い、黄色の紗綾形の着物に、紫色の袴を合わせたハイカラな姿で、
長い白髪には矢絣の赤いリボンを留めていた。
「遅い!待ちくたびれたぞ宮代!妾のおむつはもうパンパンじゃ!早う、おしめ縄を出されよ!汚れ物も溜まりに溜まって、一週間前から蟲達が湧いておるわ!」
びっくりして固まるセーラー服の蛍の肩を掴んで、多分、蟲姫と思われるこの美少女は、「………おぬし、また体が縮んだか?」と怪訝な顔をして呟いた。
「宮代……定期的に齢が若返るのは何故じゃ?20年ごとくらいに中学生に戻るのは、どんな呪いなのじゃ?」
「え、」と蛍が口を開きかけると、
「まあ、よい。またこれで同級生になれたな!」と蟲姫は言って、
目を閉じるとチュ♡と蛍の唇に自分の唇を重ね合わせた。
さて。いよいよ蟲姫様登場です。
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