590、元貴族の女性
香木を焚いた良い香りが流れて、ここが神殿だという事に気がつく。
静かで、窓から鳥の声がさえずり、目を開けると白い漆喰を塗った壁が目にまぶしい。
出入り口のカーテンの向こうに朝日が差して、ひどく明るい。
眩しさに目を細めて日が当たる廊下を見ると、うっすらと透けて、忙しそうに行き来する神殿で働く人たちの姿が見える。
柔らかで上質な寝具は、自分が良い待遇の部屋にいるのだと教えてくれる。
ライアはベッドから起き上がると、少しめまいを覚えて頭を押さえた。
駄目だな、寝てばかりいると、体力が落ちるだけだ。
コンコン
ノックが鳴って、返事を待たずにカーテンが開く。
綿のドレスにエプロンをした女性が、座っているライアに気がつくと、まあと声を上げて片足を引き、腰を下げて貴族のように挨拶をした。
「失礼しました、起きていらっしゃったのですわね。
お加減はいかが? 朝食を持って参りますわ。
歩けるのでしたら、外で顔を洗っていただいていいかしら?」
「え? ああ、そうか、わかった。」
ベッドから下りようとして、ライアが切られたはずの傷跡に手をやる。
そこには一筋線が残っているだけで、つい先日瀕死の傷を負ったことがウソのようだ。
ただ、出血多量は身体にもダメージが重く、翌日気がついた時に、今から帰るというレスラカーンの供が出来なかった。
翌々日には風呂も入れたが、どうにも身体が重い。
剣の素振りの代わりに廊下にあった棒など振ってみたが、今ひとつ傷跡がつったようにピリピリして、気味が悪い。
小さくため息を付いて立ち上がろうとすると、彼女が首を振った。
「ダメですわ。
そんな気のない立ち上がり方をしたら、倒れてしまいますわ。
今ここには私しかいませんのよ?
私1人では、殿方を支えきれませんわ。
もっと! 気合いを! お腹の底にためて!
そんな事では帰れません事よ! 」
「なるほど。」
気を入れて、下腹に力を入れて膝に手をつき、ゆっくり立ち上がる。
なるほどめまいがしない。
「さあ、行ってらっしゃい。ベッドは直しておきますわ。」
そう言って、ライアが外の湧水の洗い場に行くのを見届けると、手際よく乱れたシーツを直し始める。
外に出てわき水で顔を洗っていると、サッと部屋を出て食事を取りに行く姿が見えた。
不思議な女性で、まるで所作は貴族の子女だ。
だが、こんな所に。まして粗末な綿のドレス着て働いているなどあり得ない。
部屋に戻ると、彼女がワゴンに食事のトレイと水差しを乗せてやって来て、サイドテーブルに食事の準備を始めた。
「他にもお世話になる方がいらっしゃるので? 」
「ええ、この辺は重い症状の方ですわ。
だいたい部屋は埋まっておりますのよ。
皆さん、ここを頼って国のあちらこちらからお出でになるそうですわ。」
「あなたは? 失礼ながら、貴族のようだが? 」
早速食事に感謝してスープを一口飲み、パンをちぎって食べながら聞くと、まあ!と派手に驚いて手を合わせた。
「すごいわ! どうしておわかりになるのかしら?!
でも、結婚前に駆け落ちして、相手の家を出てきてしまいましたの。
きっと相手の方に、ここにいるのがわかったら殺されてしまいますわ。
だから私のこと、黙っていらしてね? 」
おっとり微笑む様子は、確かに高貴な方だ。
承知したと、うなずいて食事を続けた。
「お相手の方は? 」
「重いケガをして、こちらでお世話になっていますの。」
「なるほど。」
食事を続けていると、そうっと聞いて来た。
「あなたは、王家にお仕えになっているとお聞きしましたの。
お城はどんなご様子なのかしら? 」
「今は、落ち着いているとお聞きしましたが、私も現状が良くわからないのです。
一週間ほどこちらでお世話になって、万全で帰るようにと言われたのでそのつもりでおります。」
彼女は横で、自分の黙々食べる姿をじっと見て、ウフフと可愛らしく笑う。
どうしたものかと思いつつ、首を傾げた。
「なにか? 」
「きっとね、きっと、 秘密なのですわ。」
「なにがですか? 」
「あなた様の御主君、心配してずっと泣いていらしたから。」
「えっ? そんな事…… 」
あるはずも無い。
気がついた時も、良かったと静かに一言と、他の者に代わりを頼むから、休んで帰るようにと。
先に帰ると素っ気ない物で、大人になられたのだなあと、少し寂しくもあったのだが。
「私のせいだと、それは随分嘆いて後悔されてましたわ。」
ゴクンと、息を呑んだ。
そんな、こと。 仰って いただなんて……
うれしさに、胸が震えた。
ここに来たことも、何も覚えていないけれども、相当ご心配をおかけしたのかと、申し訳ないような気持ちになる。
いや、そうか。
こんな気持ちにならないように、レスラカーン様は気づかってくださったのだ。
「本当に、こちらの方々にはお世話になり…… 」
「いいえ、巫子様方ですわ。」
「え? 」
「黙っててねって言われたのですけども、私は、恩ある方を存じ上げない方が、不幸だと思うのです。
ちゃんとお礼を述べて、何かしらお返ししたいと思うのが、人間の筋道ですもの。
秘密はほどほどにした方が、きっと人の付き合いは上手く回るのですわ。
だからね、私はこちらで独り言を申し上げます。よろしくて? 」
「ええ、 ええ、もちろんです。」
彼女はにっこり、ライアに背を向けると、壁に向けてひっそりと独り言を言い始めた。
「本当に、こちらの方の運が良いこと。
ちょうど、水の巫子様と、赤い髪の火の巫子様がいらしたのですもの。
あのお二人がいなければ、あの血の海ですわ。
今ごろ黄泉に旅立っていらしたんだわ。
本当に、巫子様お二人がいてくださって良かった。」
言い終わると、クルリと振り向いて、何ごともなくニッコリ微笑む。
「水の…… イルファ様が…… リリス様も…… 」
「まあ! 聞こえてしまいまして? 知らない振りをして下さいませね。」
「はい。」
なんて可愛らしくて、聡明な方だろう。
苦笑して食事を済ませると、トレイを彼女が持って部屋を出ようとする。
ふと、足を止めて振り返り戻ってきた。
「あの…… 実は私、お願いが…… あるのですけれども。」
「はい、私で出来ますことならば。
独り言のお返しに。」
ニッコリ微笑み、トレイを横の棚に置いて引き返してきた。
「手紙を、届けていただきたいのです。」
「ええ、そのくらいなら私にも出来ましょう。どちらに? 」
よほど覚悟が必要なのか、一息置いて顔を上げた。
「オブライエン公爵家の当主へ。お爺様にお渡し願いたいのです。」
オブライエン……
それを聞いて、この女性が何者かを知り、ライアはハッとした。
「あなたは…… 」
シイッと、桜色の唇に指を立てる。
そうか、彼女は以前、王子の元側近の許嫁だったと聞いたが。
いっしょにいるのだな?
そうか。
「もちろん、もちろんですとも。お任せ下さい。」
元貴族の少女は、その身分を捨てて、粗末な服を着て暗い顔など微塵も見せず、愛する人と生きることを決めたのだ。
なんて強い方だろうと、ライアは胸が熱くなった。




