第六話 七瀬怪異譚 短編集「海の怪」
一
一学期最後の期末テスト。
チャイムが鳴った瞬間、教室の静寂が終わる。
「終わった」
「あの問題わかった?」
「最後まで出来なかったよ」
みんなが一斉に息を吐き、口々に色々なことを話す。今日が最終日だった。
七月の真っ青な空には雲一つない快晴だ。
「みなみ。明日の準備してある?」
美咲が駆け寄ってきて言った。
「うん。もう準備してあるよ」
期末テストが終わったら、テスト休みを利用してみんなで行こうとテスト前から決まっていた。
みなみと美咲。それから今日子。仁と明、そして充が加わった六人で行く。
幽世の世界を知ってから色々な出来事があった。
少し前に起きた、ぬりかべが塞いだ道の先の出来事。
犬神の出産。妖が出産するときは、境界が乱れる。本来なら妖が産まれる土地神の守護する地で行われるはずの出産が別の場所で行われることになってしまった。
ぬりかべ、猫又。犬神の出産に気付いた妖が何とかしようといていたがダメだった。
たまたま道が封じられてることを知ったみなみが、事情を知って奔放した。
あの時みなみは、ただ犬神の出産を助けたい。その気持ちだけだった。
無事に出産が終わって家に帰った後。お風呂に入っていて思い出したら震えが止まらなかった。
ぬりかべが封印してる中に一人で入った。
あの時もし……。
中にいる猫又に会えなかければ……。
七瀬が来てくれなければ……。
今こうしてお風呂に入っていなかったかもしれない。
恐怖で震えが止まらなかった。
少し幽世の世界と離れたくなった。
しばらくの間、ハザマ洋品店のバイトを休ませて貰うことにした。気持ちの整理が必要だったからだ。
店主は快く了承してくれた。
「大変だったものね。しばらくゆっくりするといいわ」
「それが良い、無理に幽世の世界と関わることはない」
みなみが以外だったのは、その後、七瀬が言ったことだった。
「また、いつでも来たら良い」
そう言った七瀬の顔は優しかった。
学校でも沈んでいたみなみの様子に、美咲が心配して気分転換に海に行こうと誘った。
最初は二人で行こうと計画していたが、話を聞いた今日子が私も行きたいと参加する事になり一気に話が進んだ。
「私の親戚が民宿を経営してるの」
今日子の親戚が、海の近くで民宿を経営していると言うことで泊まりになった。
「海行くの?僕達も言ってもいい?」
「テスト休みに行こうよ。先の楽しみがあればテストも頑張れそうな気がする」
その話を聞きつけた、仁や明、充が加わり六人になった。
期末テスト後の休みを利用して行くことになった。
「海かぁ、新しい水着欲しいな」
「私も、一緒に見に行こう」
沈んでいた気持ちも、海に行く準備の楽しさに紛らされていった。
二
期末テストが終わった後、みなみは久しぶりにハザマ洋品店にやってきた。
「おかえり、みなみちゃん。テスト終わった?」
「終わりました。明日から海に行ってきます」
「あら、いいわねえ。どこ行くの?」
「今日子ちゃんの親戚がやってる民宿です。二泊してきます」
「思い切り楽しんで来なさい」
「はい」
店主はにこにこしていた。
みなみは奥を覗き込んで言った。
「七瀬さんは奥ですか?」
「今いないのよ」
「配達ですか?」
店主は少し考えてから言った。
「あの子、何か気になることがあるらしいの。今はそれを探りに行っているのよ」
「気になること?」
「そう。幽世の狭間に何か起きてるんじゃないかって」
みなみには寝耳に水だった。そんなことが起きているとは思いもしなかった。
「え!どういうことなんですか?」
「あなたは気にしなくて良いのよ。海で楽しんでらっしゃい」
店主はいつもの笑顔になって。それ以上はこの事は話さなかった。
「幽世の問題ってなんだろ」
みなみも気になったが、明日からの海の準備に追われて頭の片隅に追いやられてしまった。
今日子の親戚がやっている民宿は、みなみ達が住んでいる町から電車で五駅、それからバスに乗って1時間半の距離にある。
駅の前で皆んなと待ち合わせだった。みなみが到着した時にはまだ誰も来ていなかった。
一人待っているみなみの目に変な物が見えた。
「何だろ、あれ」
みなみに見えたのは、骸骨の羽を持つ鳥のような妖だった。
「鳥?」
幽世の世界を見えるようになって三ヶ月が経っている。みなみにとって見慣れた光景だったが、何かが気になった。
「あれどこかで見たような」
「みなみちゃんどうしたの?」
振り返ると仁が来ていた。
「あっ、仁くん。鳥かなって思ったら見間違いだったみたい」
「みなみちゃんが一番のりだね。他のみんなはまだ来てないんだ」
「うん。もう待ちきれなくて、早く来ちゃった。仁くんも早いね」
「だよね僕も。一番かなって思ってたけど、みなみちゃんには負けちゃった」
「まだ30分前だからね。早く来すぎたかなって思ってたけど、仁くん来てくれてよかった」
その後、みんなも次々とやってきた。皆待ちきれない気持ちは一緒だった。
電車に乗った次はバスだ。バスに乗るのは何年ぶりだろう。みなみは友達と一緒に行く道中が楽しくて仕方かった。
バスに乗ってしばらく走ると海が見えた。
「あっ、海」
「泳ぐぞー」
「到着したら直ぐに海行こう」
海を見て気持ちが流行る男子達。みなみもその気持ちは理解できた。
「宿に荷物置いてからにしようよ。水着に着替えたいし」
今日子がいきなり海で泳ぐのに待ったをかけた。
「実はもう水着着て来てるんだ」
「僕も」
「え〜。そうなの」
男子達は水着を着て着ていた。みなみにはその発想は無かった。
結果、男子達は海に直行、女子達は民宿によって挨拶して着替えてから合流という事になった。
バスを降りた停留所は、海水浴場のすぐ側だった
平日なのに人は多い、土日になればもっと増えるだろう。
みなみはすぐにでも海に行きたい欲求を抑えて、美咲や今日子と一緒に民宿に向かった。海水浴場からは歩いて数分のところにあるらしい。
着いた先は食堂だった。来る途中に今日子に聞いた話によると、普段は食堂を経営していてシーズンに入ると民宿を始めるという事だった。
出迎えてくれたのは、どことなく今日子に似てる女性。歳は四〇くらいだろうか。とても優しい笑顔で麦茶を入れてくれた。
みなみ達は麦茶を飲みながら少し話した後、水着に着替えて海水浴場に向かった。
七月の日差しが、まだ昼前ながら容赦なく砂浜を温めている。サンダル越しにも容赦なく熱が伝わってくる。
本格的な熱気のなか、潮風に混じって聞こえてくる笑い声、じりじりと肌を焦がす日差しが、夏の海を物語っていた。
「海だ」
「海だね」
「海に来たね」
「仁くんたちはどこにいるんだろう」
「私、スマホ民宿に置いてきちゃった」
「私も」
砂浜に点在するパラソル。見渡す限り人がいる。この中から特定の人物を探し出すのは一苦労だ。
「私、旅館に戻ってスマホ持ってくる」
どこか遠くからみなみを呼ぶ声が微かに聞こえたような気がした。
「ちょっと待って」
「あれ」
美咲が声のする方を指差した。水着の少年がこちらに向かって手を振っていた。
「みなみちゃ〜ん」
「仁くんだ」
仁が手を振っていた。明と充の姿は見えなかった。
「良かった見つかって。スマホに返信なかったから、荷物番しながら入り口を見てたんだ」
「仁くんだけ?」
「うん。代わりで番しようってまずは僕が担当」仁は海の方向を指差し「あの辺り、あっいた。僕が荷物見てるから三人とも用意できたら泳いできなよ」
仁が指差した場所に明と充が泳いでいた。みなみ達も仁の元に荷物を預け海に向に行った。
「わー!」
今日子が走り出した。波打ち際まで一直線に向かって、水しぶきを上げて叫んだ。みなみも走った。
「冷たい」
降り注ぐ太陽の熱気で温められた砂浜と違い、海の水は冷たかった。
「ホントだ。冷たくて気持ちいい」
「おーい」
みなみ達が来た事に気付いた充が声をかけてきた。
昼過ぎに民宿で昼ごはんを食べに戻って、またすぐに海に戻った。みんなでビーチボールで遊んで、誰かが転んで笑って、また遊んだ。日が傾いてきた頃、仁と明はもう砂浜で横になっていた。みなみは砂浜に座って、海を見ていた。
「そろそろ夕飯の時間じゃない」
「まだ少しあるよ。でも、そろそろ戻った方がいいかも」
「もうひと泳ぎしてくる」
明が立ち上がって言った。
「え、今から?」
「すぐ戻るよ」
「じゃあ僕も」
明と一緒に仁と充も海に向かった。
「私も」
みなみも立ち上がった。
「私はもう終わりにする」
隣にいた美咲は座ったままで言った。
「うん、ちょっと泳いでくるね」
みなみは男子達を追って海に向かった。夕日が海面にかかりオレンジ色に染まっていた。
三
みなみは海に入った。
最後に少し深いところまで行こう。
仁達が泳いでいる場所より遠くに向かった。
みなみは水の中に潜った。
水の中は静かだった。波の音が遠くなって、自分の呼吸の音だけが聞こえた。水中から見上げた水面は、海の青と夕日のオレンジ色が複雑に混ざったグラデーションが広がっていた。ステンドグラスのようになって頭上でゆらめいている。
きれい。
みなみは幻想的な風景をいつまでも見ていたかったが、息は続かなかった。
水面に慌てて向かった。
「……ぷふぁ、っ」
息を整えようとしたその時、声が聞こえた。
みなみが潜った辺りには誰もいなかったはずだ。
「誰?」
……助けて。
「何?どうしたの」
その瞬間だった。
ゾクっと、体の芯を悪寒が走った。
何者かが右足を掴んだ。
「……」
引っ張られた。下へ。
みなみはあっという間に水中に引き込まれた。
浮かび上がろうと必死になって抵抗したが、水中に引っ張り返された。
水中に沈んだみなみは、目を開けた。海の中は薄暗かった。何も見えない。でも確かに掴まれていた。皮膚じゃなくて、もっと奥の部分を。
もう息が続かない。
みなみは限界に達していた。
右足だけを掴んでいたいものが、徐々に増えていた。一人じゃなく複数人で掴まれているみたいだった。
掴んでくる手から、なんとも言えない感情が伝わってきた。
冷たい……。暗い……。苦しい……。助けて……。
みなみのものじゃない様々な気持ちが、みなみの胸に入り込んできた。
みなみは自然と涙が出てきていた。自分の感情ではない何かの感情に支配されていた。
苦しかった。泣きたかった。でも何のために泣いているのかわからなかった。
薄れゆく意識の中で水面を見上げた。
夕日が、上から差し込んでいた。オレンジ色の光が、水の中に揺れていた。
——た——けて。
どんどん遠くなっていった。
誰かの声が聞こえる気がしたが、意識が無くなっていっていく。
——誰だろう。
四
目が覚めたみなみに見えたのは、見知らぬ天井だった。木の梁が見えた。波の音が聞こえた。
目を開けたまま、しばらく動かなかった。頬が濡れていた。手で触れると、涙だった。
「大丈夫?」
すぐ側に美咲と今日子がいた。
「みなみちゃん目が覚めたよ」
今日子が部屋の外に向かって言った。
すぐに部屋の扉が開き仁達がやってきた。
美咲はみなみの顔を見て、ほっとした顔になって、すぐに泣きそうな顔になった。
「よかった」
「私、どうして」
「溺れたの」美咲が言った。声が少し震えていた。「みなみ、海に潜ったまま上がってこなくて。気づいた時にはもう水の中で」
仁が続けた。
「ライフセーバーの人がすぐに気付いて、引き上げてくれたんだ。意識はあったんだけど、民宿に着いてから」
「倒れたの」
美咲が心配そうに言った。今にも泣き出しそうな顔をしている。
みなみは思い出していた。海の中で意識を失いそうな時に、誰かの声を聞いた気がした。誰かが自分を抱えてくれていた。その後、砂の感触があった。それからわからなくなった。
「ライフセーバー」
「うん。ライフセーバーの人」
海から引き上げてくれた感触は覚えているが、どんな人かは思い出せなかった。
「私、顔見てない。どんな人だったの?お礼したい」
「それがね。誰も顔見てないんだ」
「みなみを旅館に運んでくれたらいなくなっちゃって。今、旅館の人が探してくれてるの」
みなみは、自分を助けてくれた人が、どんな人か思い出そうとした。
「青いキャップと青い水着を着てた様な気がする」
どうしても顔は思い出すことはでかなかったが、着ていた水着や雰囲気は、なんとなくだが思い出せた。
「うんうん、青いキャップ被ってた」
仁もみなみの言葉に頷いた。
みなみは天井を見た。
ライフセーバー。
海に引きずり込まれた時、正直、もうダメだと思った。
自分ではどうにもならなかった。
誰かが手を掴んでくれた時は嬉したかった。体の中に入ってきていた色んな負の感情が消えていった。
お礼がしたいとみなみは心から思った。
夜、みなみは民宿の縁側に座って海を眺めていた。
月明かりに照らされた海面がキラキラ光っていた。
夜の海はなんてもの悲しいんだろう。海を眺めてて切ない気持ちになるのは、夕方のことだけが理由ではないはずだ。
波の音が続いていた。
起きてから、あまり考えないようにしていたが、夜空に響く波の音が夕方のことを思い出させていた。
波の音の中に声が混じって聞こえるような気がする。
海の中で聞いた、あの悲しみに満ちた声が。
幽世の存在、怪異を忘れたくて海に来たのに……。
それなのにまた出会ってしまった。
みなみを海に引きずり込んだ存在。
とても冷たくて、暗くて、悲しみに満ちた存在だった。
みなみを襲おうとしたんじゃない。みなみに助けを求めていた。
帰れなくなった者たちの感情が、妖になってあの海の底にいた。
何もできなかった。
ただただ、悲しい感情に支配されているだけだった。
七瀬もいなければ、ミワもいない。
みなみは自分だけでは何もできない現実に打ちひしがれていた。
みなみの頬に涙が伝った。
五
朝、民宿の中が騒がしかった。
みなみ達が泊まっている部屋の外から話し声が聞こえてきた。
「誰も知らないってどういうこと」
今日子の声が聞こえた。
みなみは美咲と一緒に今日子達のいる食堂に行った。
「誰も知らないって?」
「あっ。みなみちゃん」
今日子が部屋から出てきたみなみに気付いた。その場所には今日子の他にも、民宿を経営している家族、そして仁達もいた。
皆、一度はみなみを見てほっとした顔をしたが、すぐに困った顔になった。
「あのライフセーバーの人は、青いキャップと青い水着だったよね?」
「うん……。確かそうだった」
「この浜のライフセーバーは赤いキャップに赤い水着なんだ」
そう言ったのは、今日子の従兄弟でこの旅館の息子の琢磨。大学生で休みの日はライフセーバーをやっているらしい。昨日は出てはいなかったが、みなみを助けた人物には心当たりはないらしく、そもそも着ていた水着やキャップの色が違うと言うのだ。
「え?」
「見間違いじゃないよね?」
仁が自信なさそうに言った。
「僕は覚えてなくて」
「僕も」
明と充は申し訳なさそうに言った。
「私もみなみちゃんを助けてくれたのは、地元のライフセーバーの人だとばかり思ってた」
話を聞いていた旅館の店主が声をかけてきた。
「皆さんが見た特徴を聞かせてもらいまして、思い出した事があるんです」
そう言って店主は一枚の写真を見せてきた。
「昔、この浜で監視員をしていた青年がいたんです。もう何年も前のことなんですが。子供が沖に流されて、助けに行って、そのまま帰ってこなかった」
食堂が静かになった。
主人が持ってきた古い写真を、みなみは見た。
色褪せた集合写真だった。浜を背に、何人かが並んでいる。その端に一人だけ、こちらに背を向けて立っている人物がいた。青いキャップをかぶって青いウェットスーツを着ていた。顔はわからなかった。
「この写真では、はっきりとはわからないのですが……」
店主は写真を見たまま言った。
「多分、この人ではないでしょうか」
みなみは写真を見たまま動けなかった。
断言はできなかった。顔も見ていない。
でも、多分、この人だ。そうみなみの直感が告げていた。
その日、みなみは海に泳ぎに行くのをやめ、美咲と今日子が付き合うことになった。
仁達男性陣もみなみに気を遣ったのかその日は泳ぎには行かず、民宿で借りた釣竿で釣りをしに行った。
みなみ達は旅館の近くを散歩することにした。
散歩の途中、今日子は出会う地元の人にみなみを助けてくれたライフセーバーのことを聞いて回った。
誰もが知らないと答える中、地元の老人が言った言葉がみなみに重くのしかかった。
「あの浜では、連れて行かれる人もいる。でも時には帰される人もいるんじゃ」
それだけだった。老人はそれ以上は何も言わず歩いていった。
今日子と美咲は顔を合わせて不思議そうな顔をしていた。
みなみは海を見た。
昨日、足首を掴まれあ。そして引っ張られた。海の底へ。
でも、その後でみなみを掴んで水面に引き上げてくれた存在も、あの海の中にいた。
連れて行く側と、帰す側。その二つが海の中で同時に存在していたんだ。
その後の一日を、みなみはどう過ごしたかわからない。
気が付いたら夜を迎えていた。
眠れなかった。
寝ようと目を閉じると、海の中で聞こえた声が蘇ってくる。
助けを求めて海の中で彷徨っていた。
みなみは助けてくれたライフセーバーのことを考えた。
あの人も海で命を落としたのだろうか。それなのに助けを求めるのではなく、みなみを助けてくれた。
涙が頬を伝っていった。
六
翌朝、皆が起きる前にみなみは一人で散歩に行った。
ふらふらと歩いていたみなみは、何故か溺れた海水浴場に来ていた。
昼間は賑わっていた海水浴場も今は人は誰もいない。みなみは溺れた場所に向かった。
そこに一人の人影が見えた。
——あれは助けてくれた人?
みなみは人影の元に走った。あの人は助けてくれた人なのだろうか。
近づいて見えてきた人影は、青いキャップと水着のライフセーバーではなかった。黒い髪と黒い服を着た人物だった。
あの人は知っている人。
「七瀬さん」
海を見ていた七瀬が振り向いた。
「七瀬さん。どうしてここに?」
「この場所で幽世の扉が開いた形跡がある」
七瀬の言葉にみなみはなんとも言えない表情をした。
みなみはここで起こった出来事を話した。
無表情で聞いていた七瀬は、海の方を振り返った。
しばらく波打ち際に押し寄せる波を見たあと振り向いた。
七瀬の顔はなんとも言えないような苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「無事に助かって良かった」
「うん。でも助けてくれた人がわからないの。私たち以外は見て無いし、誰も知らないって。そうしたら民宿の店主が写真を見せてくれたの。何年も前に海で子供を助けたけど、帰って来なかった人だって。私……この人だって」
七瀬は少し考えてから言った。
「幽世の存在は、全てが悪意を持つわけじゃない。中には助けてくれる存在もいる」
「私を海に引きずり込んだモノたちも悪意があったわけじゃ無かったです。私に救いを求めてきてました」
「そうか」
「でも、何もできなかった」
みなみは言いながらくちびるを噛んだ。どうしようもないやり切れない気持ちでいっぱいだった。
七瀬は何が言いたそうな顔をしていたのだが、何も言わなかった。
七瀬はしばらく無言だった。口を開いた言葉はみなみにとって意外な内容だった。
「ここ最近、この周辺で幽世の隙間の発生が多発している。今の世の中、幽世の狭間が開くこと稀だ」
「??」
「同じ地域でこれほど連発して起こっていることはまず無い」
みなみは黙って聞いていた。七瀬が何が言いたいのか理解できなかった。
「何か理由があるのか調べていた」七瀬はみなみをジッと見つめて言った。「原因はみなみ。君だ」
「え?」
みなみにとって予想外のことを言われた。そんなことを考えたことも無かった。
——自分が原因。
「最初は、幽世の存在を認識できるようになったからかと思っていた。見えてしまうから気付いたんだろうと。だが余りにも多すぎる。他に幽世に狭間ができる原因があるのでは無いかと思って調べていたが無かった」
みなみは、七瀬の言っていることを他人事のように聞いていた。まるで理解できなかった。
「そもそも、どうして私は見えるようになったんですか?」
「それは別におかしい事じゃない。元々人間が持っていた力だ。時代の流れと共に失われた力の一つ。俺たち術師の家系が維持してるだけに過ぎない。他にも力に目覚める者もいる」
七瀬は淡々と話している。やはりみなみには他人事にしか思えなかった。
「——私はどうすれば」
絞り出すようにみなみは答えた。
「力を封印する」
七瀬は無表情で言った。
「封印したらどうなるんですか?」
「普通の日常に戻る。もう幽世の存在を見ることもない」
「……」
七瀬の胸にある勾玉が光り出した。
勾玉はみるみる白い蛇に変化していった。
「ミワちゃん」
白蛇のミワが悲痛な声で言った。
「それじゃあ、みなみちゃんともう喋れなくなる?」
「ミワちゃんと喋れなくなるの?」
「力を封印したら、妖は見れなくなる。声も聞こえなくなる」
「そんな、主さまどうにかならないの?」
「このままにしておくと危険だ。今回だってたまたま助かっただけだ。命の危険があるよりはいい」
「そうだけど、せっかく仲良くなれたのに」
みなみには、七瀬とミワの会話もどこか他人事のように感じていた。
七瀬はみなみの返事を聞かずに準備しておくと言って去っていった。
ミワが名残惜しそうにみなみを見つめていたが、七瀬を追って飛んでいった。
みなみは、ぼんやり七瀬とミワが去っていった方向を眺めていた。
「みなみちゃ〜ん」
遠くから仁が走ってきた。
「あっ。いた。お〜い。みなみちゃんいたよ」
みなみの元に来た仁は息が切れていた。
「大丈夫?びっくりしたよ。朝起きたらみなみちゃんがいないって大騒ぎで、今みんな総出で探してたんだよ」
「ごめんね。朝早く起きすぎちゃって散歩してたの」
「そうなの?スマホ持って行かなかったでしょ。もう美咲ちゃん、連絡つかないって心配しちゃって」
「そんな。仁くんスマホ持ってる?美咲に連絡して貰える」
「うん」
そう言って仁はスマホを取り出し打ち込んでいる。
「ねえ、仁くんは幽霊や妖って、もしいるなら見てみたい?」
「幽霊?妖?」
仁はみなみが何を言いたいのか最初わからなかったみたいだが、みなみの顔を見て笑顔で答えた。
「そうだな、本当にいるなら見たい。その方が面白いじゃない」
「うん。見えたら面白いよね」
「それに、みなみちゃんを助けてくれたお礼したいしね」
仁はにこにこしてる。
旅館に戻っても誰も怒ることはなかったが、みなみは皆に謝った。旅館の人にも謝った。
朝食を食べてから帰路に着いた。
七
帰りの電車の中でみなみは考えていた。幽世の存在が見れなくなった世界を。
きっかけは美咲のおまじないからだった。
最初はただ、必死で美咲を助けたかっただけ。でもその後、幽世の存在が見えるようになって、ワクワクした。いつもドキドキしてた。
不思議な妖たち。不思議な出来事。確かに危険なこともあったけど楽しかった。
この数ヶ月の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。
「もういいよね」
「何か言った?」
みなみのつぶやきに美咲が反応した。
「ううん。なんでもない」
楽しかった。もう満足だよね。そうやってみなみは自分に言い聞かせていた。
ふと電車の窓の外に目をやる。流れるように過ぎゆく景色の中で、みなみは変わった鳥を見たような気がした。前もどこかで……そう思った時、自分の内側から声が聞こえたような気がした。
〝本当にそれで良いのか〟
それはみなみの本音だった。
必死に自分の気持ちを誤魔化そうとしていたが、堰を切ったようにあふれてきていた。
『せっかく仲良くなれたのに』そう言ってくれたミワの声が思い出される。
みなみは泣いていた。
「みなみちゃんどうしたの?」
美咲が涙に気付いて慌てたが、みなみは涙が止まらなかった。




