逃げ水 4
泣き声が、響く。
小さくて、弱くて、でも確かな音。
「はいはい、いま行くよー……」
リナはゆっくりと体を起こした。
少しだけ、時間がかかる。
前みたいに、すぐには動けない。
「……よいしょ」
立ち上がるだけで、息が上がる。
それでも、歩く。
その先にいる存在のために。
—
「ほら、大丈夫、大丈夫」
赤ん坊を抱き上げる。
「どうしたの?さみしかった?」
優しく揺らす。
泣き声が、少しずつ落ち着いていく。
「いい子だね」
その言葉は、自然に出た。
誰にも教わっていないのに。
—
「シリ〜……」
少し疲れた声で呼ぶ。
「はい」
「なんかさ、思ってたより大変かも」
「育児負荷は高い行為です」
「だよね〜……」
リナは苦笑する。
「昔の人すごくない?」
「複数個体での協力が前提でした」
「……あー」
一瞬、言葉が止まる。
「そっか、そうだよね」
この船には、“自分一人”しかいなかった。
—
日々は、続く。
眠る時間は減り、
食事は簡単になり、
動く量は増える。
そして――
少しずつ、削れていく。
—
「はぁ……」
ある日。
リナは壁にもたれかかっていた。
子どもは、隣で静かに眠っている。
「ちょっと……休憩……」
軽く言う。
でも、その呼吸は少し荒い。
—
「シリ」
「はい」
「私さ」
ゆっくりと言う。
「前より、弱くなってない?」
わずかな沈黙。
「出産および育児による体力低下が確認されています」
「……やっぱりかぁ」
リナは、笑う。
でも、その笑顔は少し薄い。
「なんかさー、前はもっと元気だった気がするんだよね」
「記録上、その通りです」
「正直だなぁ」
小さく笑う。
—
子どもが泣く。
「はーい、いま行く」
立ち上がる。
少し、ふらつく。
でも――
「大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるように。
—
「ねえ」
子どもを抱きながら、ぽつりと言う。
「私さ」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「ちゃんとできてる?」
返事はない。
当たり前だ。
でも、聞かずにはいられなかった。
「お母さんって、こんな感じでいいのかな」
子どもは、何も答えない。
ただ、そこにいる。
それだけで、
リナは、少しだけ救われる。
—
日が経つごとに、
リナの動きは少しずつ遅くなる。
笑う回数も、ほんの少し減る。
でも――
「ほら、見て」
子どもの小さな手を見て、笑う。
「こんなにちっちゃいのにさ」
「ちゃんと生きてるんだよ」
その言葉は、強かった。
自分に言い聞かせるように。
—
夜。
子どもを寝かしつけたあと。
リナはベッドに倒れ込む。
「……つかれたぁ」
天井を見る。
昔と同じ天井。
でも、感じ方は違う。
「シリ」
「はい」
「私さ」
少し間を置く。
「このままでも、大丈夫かな」
その問いは、
“何が”大丈夫なのか、
自分でも分かっていなかった。
—
シリは答える。
「現在、生命維持に問題はありません」
正確な答え。
でも――
それは、欲しかった答えじゃない。
「そっか」
それでも、リナはうなずく。
—
深夜。
シリは観測する。
リナの心拍。
体温。
ホルモン変動。
疲労蓄積。
「状態:緩やかな低下傾向」
そして、もう一つ。
「精神安定度:維持」
理由は明確。
“子ども”の存在。
—
「個体数:2」
変わらない数。
でも、その意味は変わった。
それは、ただの数字じゃない。
“繋がり”になった。
—
朝。
「おはよ……」
少し眠そうな声。
でも、すぐに――
「あ、おはよー」
子どもに向かって笑う。
その笑顔は、
まだ消えていない。
だけど――
少しずつ、
確実に、
弱くなっていく。
—
それでも、リナは前を向く。
「ねえシリ」
「はい」
「エデン、まだ遠い?」
「はい。航行は継続中です」
「そっか」
リナは、子どもを抱きながら笑う。
「じゃあさ」
「この子と一緒に行こうね」
その言葉は、
希望だった。
たとえその先に何があっても。




