25 アリサと母
セドリックは馬車を手配して、アリサをキャンベル男爵家の屋敷まで送ってくれた。
キャンベル男爵は以前、宮廷伯という身分であった。
これは領地を持たない伯爵位で、王宮内で重要な役職を得た貴族に与えられるものだ。
しかしある失敗により彼は爵位を落とされ、いまでは男爵になったのだが、宮廷伯の頃に手に入れた王都の屋敷にまだ住んでいた。
キャンベル男爵が没落せずに貴族のままでいられたのは、アリサが聖女として働いた報酬のお陰だった。
「ただいま戻りました」
男爵に会いたくないアリサは小声で帰宅を告げ、そのまま逃げるように小さな離れへと移動した。
離れは平屋になっており、ダイニングキッチンと浴室、そして狭い部屋が二つあるのみだ。
その部屋の一つにノックをして入ると、母ローラは車椅子に座って編み物をしているところだった。
「ただいま、お母さん」
「おかえり、アリサ。今日は遅かったのね」
「うん。でも殿下が送ってくださったから、何も危険なことはなかったわ」
アリサは自室で学生服を脱ぎ、いつもの簡素なワンピースに着替えた。
セドリックに会う時にはいつもつけている花の形の髪飾りを取り、引き出しにしまう。
そして台所へ行き、食材を切り始めた。
夕食の支度をしていると、ローラが車椅子を動かしながらダイニングキッチンに入って来た。
「パンは焼いておいたから、野菜のスープをお願いね。ベーコンはまだあった?」
「大丈夫、まだあるわ。スープに使うね」
出来上がったスープを器に盛りつけながら、アリサは母の膝をちらりと見た。
「お母さん、まだ膝が痛いんでしょう? 私が魔法で……」
近寄って膝に手をかざそうとすると、ローラは「いいのよ」と優しくアリサを止めた。
「あなたの魔法は陛下のために使わないと。私の膝はきっと治らないわ……。アリサが何度も魔法を掛けてくれたのに、やっぱり痛みが出るんだもの。駄目ね、私の体は」
「お母さん……」
アリサが悲し気に呟いた時、本邸に繋がる廊下からどかどかと騒がしい足音がして、いきなり乱暴にドアが開いた。
「なぜ戻って来た、アリサ。お前には常にセドリック殿下の傍にいろと言ってあっただろうが!」
大きく張り出した腹を揺らしながら、キャンベル男爵がずかずかとこちらへ近寄ってくる。
アリサは母を守るように前に出た。
「そんなに大きな声を出さなくても、ちゃんと聞こえています。陛下は回復されたから、もう私の魔法は必要なくなったんです」
半分は本当で、もう半分は嘘だった。
確かに国王フィリップはアリサの回復魔法によって意識を取り戻したが、依然、彼の体は病に侵されている。
しかし今日の様子だと、国王はもうアリサから治療を受ける気はないのだろう。
キャンベル男爵とアリサの企みは暴かれつつあり、アリサはそれを自覚していた。
(全部バレるのは時間の問題だわ。でも今日のことを話したら、この男はお母さんを追い出すだろうし……)
ローラは国王と同じ病を患っており、彼女の場合は脚に病変が現れた。
最初は動いた時に少し膝が痛む程度だったが、今では常にジンジンと疼くように痛むらしい。
それでローラは働けなくなり、アリサと一緒にこの屋敷に引き取られたのだった。
「本当だろうな?」
キャンベル男爵は右手にやや厚みのある手帳を持ち、じりじりとアリサに近づいてくる。
彼はどこに行くにもその手帳を大事そうに抱えて、片時も離そうとしない。
「本当です。……お母さん、先に食べていて」
アリサは不安げな顔をするローラを残して部屋を出た。
これ以上の会話は母に聞かせたくなかった。
キャンベル男爵は廊下を塞ぐように立ち、アリサを不審げな目で見ている。
「お前、なぜコンテルノ公爵家の娘を娼館送りにした? お前が殿下に提言したそうじゃないか」
アリサはぎくりとして、反射的にスカートをぎゅっと握った。
あらかじめ考えてあった言い訳を、焦りながら口にする。
「セドリック殿下からは婚約破棄されて、公爵令嬢ではなくなったと聞きました。これ以上の罰は必要ないでしょう」
「お前は何にも分かっちゃいないな。罪の重さがどうこうではなくて、わしの言う通りにするのが重要なんだ! このままお前が好き勝手に動くつもりなら、わしはローラをどうするか分からんぞ? それでもいいのか?」
ニタニタと下卑た笑いを浮かべる男を、殴ってやりたい衝動に駆られる。
アリサはぐっと唇を噛みながら男爵を睨み付けた。
「……あなたの言う通りにします。だからお母さんをここに置いてください」
「分かったならいいんだ。アリサよ、お前は金を産む鶏だ。今後もセドリック殿下をしっかりと籠絡して、王太子妃まで上り詰めろ。そうしたらもっとローラが住みやすい家に改築してやるぞ」
男爵が偉そうに言い放った時、廊下の向こうから彼によく似た青年が歩いてきた。
男爵の息子のランドールだ。
彼はアリサにとっては義理の兄だが、この兄も男爵もアリサのことを金儲けの道具としか思っていなかった。
義兄は父親から手帳を受け取るとぱらぱらとページをめくった。
「ここまでは大体うまく行ったね」
「アリサが要らんことをしたせいで、少しばかり計画が狂ってしまった。コンテルノの若造も、アリサの騎士になっているはずだったんだが」
「もう充分だよ、このままならアリサは王太子妃になるさ。あはは、笑いが止まらないね……! こんなにうまく行くなんて! この手帳は神様からのプレゼントだ」
ランドールは愛し気に手帳にキスをしている。
アリサは去っていく二人の背中をずっと睨んでいた。
(あの手帳のせいで、私とお母さんの人生は狂ったんだ。あれを何とかしない限り、私たちは自由になれない)
ローラは娼館『ヴィアラッティア』で働いていた娼婦で、アリサは彼女の娘として生まれた。
アリサには生まれつき不思議な力があり、小さな怪我なら手をかざしただけで治ってしまった。
その噂を聞きつけたキャンベル男爵がローラとアリサを引き取ってくれて、当時はとても感謝していたのだが、男爵の狙いに気づいてからはなんて馬鹿だったのだろうかと自分を恨んだ。
(私たちを迎えに来たのも、あの手帳に書いてあったからなんだわ。いい人だと思っていたのに、すっかり騙された。あの髪飾りだって……)
アリサが王立学園に編入することが決まると、男爵は花の形の髪飾りをアリサに手渡して言った。
『王立学園にはセドリック殿下がいらっしゃる。殿下に会う日は、必ずこの髪飾りをつけて行け』
それは不思議な輝きを放つ髪飾りだった。
土台には鉄でも鋼でもない奇妙な素材が使われており、嵌め込まれた宝石は虹のようにキラキラと色を変えた。
アリサは喜んでそれを髪につけていったのだが、今では軽い気持ちで受け取ったことを後悔している。
(あの髪飾りは、セドリック殿下の前でだけ不思議な香りを放つ……。きっと魔道具か何かなんだわ)
自分の考えはきっと当たっているだろうと思うものの、髪飾りを捨てたりはできなかった。
キャンベル男爵は常にアリサを見張っていて、少しでも彼の言う通りにしないと脅してくるからだ。
「あの手帳と髪飾りのことを、誰かに相談できたらいいのに……」
アリサは小声で呟いてから、母が待つダイニングへと戻った。
ローラは食事に手もつけず不安そうな顔で待っていた。
「アリサ……、何かひどいことを言われた?」
「大丈夫、ちょっと話をしただけ。冷めないうちに食べよう」
アリサは笑顔を取り繕って、ローラの向かい側に座った。
そして気になっていたことを訊いてみた。
「ねぇお母さん。ヴィアラッティアって、そんなにひどい場所じゃなかったよね?」
問いかけられたローラはしばし遠い目をしてから、深く頷いた。
「ええ、少なくとも私にとっては悪くない職場だったわ。しっかりお金は稼げるし、マダムは話の分かる方だったわよ」
「そうだよね……」
「どうしたの? あそこに用でもあった?」
「ううん、何も」
アリサはパンをちぎって口に運びながら、娼館へ送られたリアーナのことを考えた。
(聖女として貰う報酬を貯めて、リアーナ様を迎えにいこう。それが私にできる、せめてもの贖罪だから……)
娼婦の身請けには莫大な金がかかるらしい。
セドリックは身請けを妨害するためにリアーナを掃除婦にしたのだから、通常の身請けよりも相当高い金額が必要になるだろう。
マダムを即座に納得させるだけのお金が必要だ。
(リアーナ様の人生を歪めたんだから、その責任を取らないとね……)
スープは温かかったが、アリサはほとんど味を感じなかった。




