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『引っ越したら、人生が変わりました。』住んで初めてわかった、部屋と人生のリアル  作者: 虫松


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8/12

第8話 憧れのデザイナーズマンションで始めた、自分らしい暮らし

ずっと、雑誌に出てくるような部屋で暮らしてみたかった。


高い天井。


大きな窓。


無機質なコンクリートの壁。


そこへ木製の家具と観葉植物を置き、夜には間接照明だけを灯す。


そんな部屋でコーヒーを飲み、本を読む自分を何度も想像した。


けれど、デザイナーズマンションは、私には手の届かない住まいだと思っていた。


不動産情報サイトで見かけるたびに、家賃を確認して画面を閉じる。


「やっぱり高いな」


おしゃれな部屋に住みたい。


しかし、家賃のために食費や貯金を削る生活はしたくない。


私は築年数が浅く、駅から近く、収納が多いという現実的な条件で部屋を探し続けていた。


当時住んでいたのは、ごく普通のワンルームマンションだった。


白い壁に茶色い床。


四角い六畳の部屋に、ベッドと机と棚を置けば、ほとんど余白は残らない。


不満があるわけではなかった。


駅にも近く、買い物にも困らない。


それでも仕事から帰るたび、自分の部屋なのに、どこか借り物の空間にいるような気がしていた。


家具を変えても、カーテンを替えても、部屋の印象は大きく変わらない。


「もっと、自分が好きだと思える場所で暮らしたい」


そう考えるようになったのは、在宅勤務が増え、部屋で過ごす時間が長くなった頃だった。


仕事をする。


食事をする。


眠る。


休日も同じ部屋にいる。


住まいは、ただ帰って眠る場所ではなくなっていた。


そんなある夜、何となく不動産情報サイトを眺めていると、一枚の写真に目が留まった。


外観は、築年数の経った普通のマンションだった。


灰色の壁。


細長い共用廊下。


特別おしゃれには見えない。


ところが、室内写真を開いた瞬間、私は画面へ顔を近づけた。


天井が高い。


大きな窓から光が差し込み、室内の奥まで明るく照らしている。


古い間取りの壁を取り払い、広いワンルームへ改装した部屋だった。


天井には配管が見えていた。


壁の一部はコンクリートのまま残されている。


キッチンには幅の広い作業台があり、黒い照明器具が天井から下がっていた。


「ここに住みたい」


家賃を見る前に、そう思った。


恐る恐る詳細を確認すると、家賃は予算の上限に近かったものの、手の届かない金額ではなかった。


中古マンションをリノベーションした物件だったため、新築のデザイナーズマンションより抑えられていたのだ。


駅からも近い。


職場への通勤時間も短くなる。


私は翌朝、不動産会社へ電話した。


「掲載されている部屋を、まだ内見できますか」


担当者は少し驚いたように答えた。


「お問い合わせが多いので、早めの方がいいと思います」


その言葉に焦り、私は最短の日程で内見を申し込んだ。


部屋を訪れた日は、よく晴れていた。


マンションの外観を見たときは、写真と同じく普通だと思った。


エントランスも新しくはない。


エレベーターには、長く使われてきた細かな傷が残っていた。


「建物自体は古いんですね」


私が尋ねると、担当者はうなずいた。


「築年数は経っていますが、室内は配管なども含めて改修されています」


玄関の扉が開いた。


その瞬間、私は言葉を失った。


写真で見るより、ずっと広い。


大きな窓から差し込んだ光が、コンクリートの壁へ柔らかな影を落としている。


天井が高いため、実際の床面積以上に開放感があった。


黒いフレームのガラス扉。


ステンレスのキッチン。


壁に沿って伸びる造作棚。


一つ一つが、無造作に置かれているようで、全体としてまとまっていた。


「すごい……」


私は思わず声を漏らした。


担当者が笑った。


「リノベーションを手がけた建築家が、光の入り方まで計算したそうです」


私は部屋の中を何度も歩いた。


キッチンから窓際まで。


洗面所から収納まで。


自分が朝起きてから出かけるまでの動きを想像した。


キッチンは広く、料理がしやすそうだった。


窓際には仕事用の机を置ける。


収納は多くなかったが、持ち物を整理すれば何とかなりそうだった。


ただ、気になる部分もあった。


部屋と寝室の間に、完全な壁がない。


洗面所の扉は半透明のガラスだった。


コンクリートの壁には、棚を自由に取り付けられない。


担当者は正直に説明した。


「デザイン性を重視しているので、一般的な間取りより家具の置き方は難しいかもしれません」


私は窓辺に立ち、もう一度室内を見回した。


住みやすさだけを考えれば、ほかにも選択肢はある。


収納が多く、部屋がきちんと分かれた物件も見つかるだろう。


それでも、この部屋を出たあと、別の部屋で暮らす自分を想像できなかった。


「ここに決めます」


担当者は目を丸くした。


「もう少し考えなくても大丈夫ですか」


「考えたら、誰かに先を越されそうなので」


勢いで決めたように見えたかもしれない。


だが、私にとっては長い間、心の中で探していた部屋だった。


引っ越し当日、家具の少ない室内へ段ボール箱が運び込まれた。


以前の部屋で使っていた背の高い棚は、この空間には合わない気がして処分した。


代わりに、低い木製の棚を購入した。


窓際には小さな机。


コンクリートの壁の前には、深い緑色のソファ。


キッチンの近くには丸いダイニングテーブルを置いた。


最後に、大きな観葉植物を窓辺へ運んだ。


部屋が少しずつ、自分の空間へ変わっていく。


夕方になり、天井の照明を消して、間接照明だけをつけた。


柔らかな光が壁へ広がった。


私は床へ座り、しばらく何もせずに眺めていた。


「本当に、ここに住むんだ」


夢だった部屋が、自分の生活の場所になった。


友人へ写真を送ると、すぐに返事が届いた。


『何これ、雑誌みたい!』


『今度絶対に遊びに行く!』


家族を招いたとき、母は玄関へ入るなり天井を見上げた。


「ずいぶん変わった部屋ね」


最初は戸惑っていたものの、窓辺へ座ると、「明るくて気持ちがいい」と笑った。


友人たちを招いて食事をした夜には、広いキッチンが役に立った。


一人が料理をし、別の人が皿を並べても窮屈にならない。


「家にいるだけで特別な感じがするね」


そう言われるたび、私は誇らしい気持ちになった。


暮らし始めてから、私自身の生活も変わった。


以前は料理を面倒に感じ、総菜や外食で済ませることが多かった。


しかし、使いやすいキッチンに立つと、何かを作りたくなった。


休日にはパンを焼き、友人に教わった料理へ挑戦した。


本を読む時間も増えた。


夜、照明を落としてソファへ座ると、外へ出かけなくても満たされた気持ちになった。


在宅勤務の日も、窓辺の机へ座るだけで気持ちを切り替えられた。


自分が心地よいと思える場所にいることは、想像以上に心へ影響するのだと知った。


もちろん、住んで初めて気づく不便もあった。


コンクリートの壁は冬になると冷たく、部屋が暖まるまで時間がかかった。


大きな窓は気持ちがよい反面、夏の日差しも強かった。


カーテンを選ぶだけでも、既製品ではサイズが合わず、想定以上の費用がかかった。


収納が少ないため、買った物を適当に置くことはできない。


少し散らかるだけで、せっかくの空間が台無しになる。


特徴的な間取りのため、家具も好きな場所へ置けるわけではなかった。


「おしゃれな部屋って、維持するのも大変なんだな」


私は、床へ散らばった荷物を片づけながら苦笑した。


デザインがよいことと、何もしなくても快適に暮らせることは同じではない。


私は断熱性の高いカーテンを取り付け、冬にはラグを敷いた。


収納家具を増やすのではなく、持ち物を減らした。


家賃や光熱費が予算を圧迫しないよう、毎月の支出も見直した。


部屋に生活を合わせるだけでは疲れてしまう。


かといって、生活感をすべて隠す必要もない。


自分が無理なく暮らせるように、少しずつ部屋を変えていった。


そうするうちに、この部屋は雑誌の中の完成された空間ではなくなった。


机には仕事の資料が置かれる。


キッチンには使い込んだ調理器具が並ぶ。


ソファには読みかけの本と毛布が残る。


けれど、それでよかった。


きれいに見せるための部屋ではない。


私が生活するための部屋なのだ。


デザイナーズマンションに住む夢はかなった。


けれど、本当にうれしかったのは、おしゃれな部屋を人に自慢できたことだけではない。


自分が何を心地よいと感じ、どんな時間を大切にしたいのかを知ることができた。


広いキッチンで料理をすること。


窓辺で仕事をすること。


夜、好きな照明の下で本を読むこと。


住まいを選ぶことは、自分の暮らし方を選ぶことだった。


今でも帰宅して扉を開けるたび、少しだけうれしくなる。


コンクリートの壁も、大きな窓も、黒い照明も、初めて見た日と同じ場所にある。


けれど、その中で営まれる暮らしは、私と一緒に変わり続けている。


憧れの部屋へ引っ越したことで、人生が突然華やかになったわけではない。


ただ、家へ帰ることが楽しみになった。


自分の時間を、以前より丁寧に過ごせるようになった。


それだけで、私の日々は確かに変わった。


この部屋は、眺めるための作品ではない。


私が自分らしく暮らすために選び、これからも育てていく場所なのだ。

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