第7話 結婚して初めて知った、戸建て暮らしの光と影
結婚したら、少し広い家に住みたい。
いつか子どもが生まれても困らないように、部屋は二つ欲しい。できれば庭があって、猫も飼える家がいい。
私と夫は、付き合っていた頃から何度もそんな話をしていた。
夫とは大学時代からの付き合いだった。卒業後は偶然同じ会社へ入社し、忙しい社会人生活の合間を縫うように交際を続けてきた。
今年の春、私たちは結婚した。
感染症の流行が続いていたため、結婚式に招いたのは親族だけだった。友人を大勢呼ぶことも、盛大な披露宴を開くこともできなかった。
それでも、隣に夫がいるだけで十分だと思えた。
「これからは、毎日同じ家に帰るんだね」
式を終えた夜、私がそう言うと、夫は少し照れたように笑った。
「まずは、その家を決めないとな」
当時、私たちはそれぞれ小さな賃貸マンションで一人暮らしをしていた。
どちらかの部屋で暮らすことも考えたが、二人分の荷物を置けば、すぐに足の踏み場がなくなる。将来子どもができたときのことを考えると、もう少し広い住まいが必要だった。
私たちが選んだのは、夫の実家から少し離れた住宅地にある2LDKの戸建てだった。
築年数はそれほど新しくない。駅からも近くはない。
その代わり、同じ家賃帯のマンションより部屋が広く、小さな庭と駐車スペースが付いていた。
内見の日、玄関を開けた瞬間から、私は胸を躍らせていた。
一階にはリビングとダイニングキッチン。二階には二つの洋室がある。
マンションのように、部屋の中央を太い柱が邪魔することもない。家具を置いても、まだ余裕がありそうだった。
「こっちは寝室にして、もう一部屋は将来の子ども部屋かな」
私が言うと、夫は窓の外を指さした。
「庭もあるぞ。野菜とか育てられるんじゃない?」
「猫も飼えるかな」
「大家さんに確認しよう」
内見中から、私たちはまだ始まってもいない暮らしの話ばかりしていた。
家賃は、二人がそれぞれ払っていた金額を合わせれば無理のない範囲だった。
駅まで徒歩二十分という点は気になったが、車が一台あった。通勤にも買い物にも使える。多少遠くても何とかなると思った。
「ここにしようか」
夫の言葉に、私は迷わずうなずいた。
引っ越し当日。
二人分の段ボール箱がリビングを埋め尽くした。
同じ会社で働き、何年も付き合ってきた私たちだったが、生活を一つにまとめるのは初めてだった。
食器が二組。
炊飯器も二台。
似たような本棚と収納ケース。
同じ用途の物が次々に出てきた。
「これ、どっちを残す?」
「そっちの方が新しいから、私のは処分しようか」
そんな相談をしながら荷物を片づけていると、本当に夫婦になったのだという実感が湧いてきた。
新しい家で最初に迎えた朝。
目を覚ましても、上の階を歩く音は聞こえなかった。隣の部屋からテレビの音が漏れてくることもない。
夫が階段を下りる音と、庭から聞こえる鳥の声だけだった。
「静かだね」
「戸建てって、こんなに気楽なんだな」
以前は、夜遅くに洗濯機を使うときも、床へ物を落としたときも、近隣の住人を気にしていた。
この家では、深夜に大声を出さない限り、多少の生活音に神経をとがらせる必要はない。
自分たちのペースで暮らせる。
それだけで、家が以前よりもくつろげる場所になった。
何よりうれしかったのは、猫を迎えられたことだった。
保護猫の譲渡会で出会った二匹に、私たちはミーちゃんとチビちゃんと名付けた。
ミーちゃんは人懐っこく、私がソファへ座るとすぐ膝へ乗ってくる。
チビちゃんは臆病で、最初の数日は家具の陰から出てこなかった。それでも家に慣れると、階段を勢いよく駆け上がり、二階の窓から外を眺めるようになった。
二匹がリビングを走り回る姿を見ていると、この家を選んでよかったと心から思えた。
庭も、私たちの小さな楽しみになった。
春には花を植えた。
夫はホームセンターでプランターと土を買い、トマトやピーマンの苗を育て始めた。
休日には庭へ折り畳みテーブルを出し、二人で昼食を食べた。
友人を招いて小さなバーベキューをしたこともある。
煙や声が近所迷惑にならないよう気をつける必要はあったが、青空の下で食事をするだけで、旅行へ来たような気分になれた。
「やっぱり庭があるっていいな」
ハンモックに揺られながら、夫が満足そうに言った。
私もそう思っていた。
だが、戸建ての暮らしには、間取り図や内見だけでは分からない現実もあった。
最初に驚いたのは、光熱費だった。
以前のマンションより部屋が広く、窓も多い。夏は二階に熱がこもり、冬は一階の床から冷気が上がってくる。
エアコンを使う時間が増え、電気代は予想を超えた。
「これ、先月の倍近くない?」
請求書を見ながら、私は思わず声を上げた。
夫は少し気まずそうに笑った。
「二人になったし、部屋も広いからな」
水道代も増えた。
庭の水やり、猫の世話、以前より大きな浴槽。小さな積み重ねが、毎月の支出になった。
家賃だけを比較していた私たちは、広い家を維持する費用について十分に考えていなかった。
そして、戸建てには管理人がいない。
庭の雑草が伸びれば、自分たちで抜く。
落ち葉がたまれば掃除する。
雨どいが詰まっても、玄関灯が切れても、誰かが気づいて直してくれるわけではない。
ある雨の日、二階の窓枠から水がにじんでいることに気づいた。
「これ、雨漏りじゃない?」
私が慌てて夫を呼ぶと、夫は窓の周囲を確認しながら眉をひそめた。
「パッキンが劣化してるのかもしれない」
管理会社へ連絡すれば済む問題もあったが、簡単な清掃や消耗品の交換は自分たちで対応しなければならない。
戸建ては自由だ。
だが、その自由には、自分たちで家を守る責任が付いてくるのだと知った。
駅からの遠さも、次第に負担になった。
晴れた日に歩く二十分は、それほど苦にならない。
しかし、雨の日や真夏、荷物が多い日は違った。
バスは本数が少なく、一本逃すと長く待たなければならない。
車があるとはいえ、夫が使っている日は私が歩くことになる。
二人とも出勤時間が重なれば、どちらが車を使うかで揉めることもあった。
「今日は私、荷物が多いんだけど」
「こっちも外回りがあるんだよ」
朝の玄関で、そんな会話をしたことは一度や二度ではない。
渋滞に巻き込まれ、以前より早く家を出なければならなくなった。
スーパーは近所にあったが、品ぞろえのよい大型店へ行くには車が必要だった。
家の広さと引き換えに、私たちは移動時間を増やしていた。
もう一つ予想していなかったのは、孤立感だった。
戸建てなら隣人との距離を保てる。
最初は、それが大きな魅力に感じられた。
けれど、外出を控える日が続くと、誰とも会わないまま一日が終わることがあった。
マンションに住んでいた頃は、廊下やエントランスで自然に人とすれ違った。
駅前には店が多く、少し外へ出れば人の気配があった。
この家の周囲は静かだった。
静かすぎて、世界から取り残されたように感じる日もあった。
夫は同じ家にいる。
二匹の猫もいる。
それでも、仕事で落ち込んだ日や夫が残業で遅い夜には、広いリビングが急に空虚に見えた。
「戸建てなら寂しくならないと思ってたのにな」
私がそうこぼすと、夫は少し考えてから言った。
「家が広いだけじゃ、生活は楽しくならないってことかもな」
その言葉をきっかけに、私たちは暮らし方を見直した。
休日には近所を散歩し、顔を合わせた人には自分たちから挨拶をした。
地域の清掃活動にも参加した。
庭で育てたトマトを隣の家へ分けると、後日、手作りの漬物をもらった。
少しずつではあるが、地域とのつながりも生まれた。
光熱費を抑えるため、厚手のカーテンや断熱シートを使った。
車が一台で足りない日は、互いの予定を前の週に確認するようにした。
庭の手入れも、片方だけの仕事にしない。
家の修繕に備え、毎月一定額を積み立てる。
戸建てへ引っ越しただけで、理想の家庭が完成するわけではない。
住みながら不便を見つけ、二人で改善していく必要があった。
ある休日。
庭の椅子に座っていると、ミーちゃんとチビちゃんが窓際からこちらを見ていた。
夫は、育てたトマトを収穫しながら言った。
「最初に思ってたより、大変だったな」
「うん。お金も手間もかかるし、駅も遠い」
「じゃあ、引っ越したのは失敗だった?」
私は庭と家を見回した。
風に揺れる花。
窓辺の二匹の猫。
土の付いた手で笑う夫。
「失敗じゃないよ」
私は答えた。
「ただ、いいことだけじゃなかったって分かっただけ」
戸建てには、広さがある。
庭がある。
音を気にせず、自分たちらしく過ごせる。
その代わり、光熱費や修繕費がかかり、交通が不便なこともある。家を維持する手間も、周囲とのつながりをつくる努力も必要になる。
大切なのは、戸建てかマンションかという名前だけで選ばないことだ。
自分たちは、何に時間とお金を使いたいのか。
駅までの距離を受け入れられるのか。
掃除や修繕を続けられるのか。
静かな環境を、安心と感じるのか、孤独と感じるのか。
それを考えて初めて、自分たちに合う住まいが見えてくる。
私たちの2LDKは、夢の家ではなかった。
住めばすべてが幸せになる、魔法の箱でもなかった。
けれど、良いところも悪いところも含めて、二人で暮らしをつくっていける場所だった。
家の中から、猫たちが鳴く声がした。
「ごはんの時間じゃない?」
私が立ち上がると、夫も収穫したトマトを抱えて玄関へ向かった。
結婚して、戸建てへ引っ越した。
増えたのは、部屋の広さだけではない。
手間も、出費も、悩みも増えた。
けれど同時に、二人で話し合う時間と、守りたいものも増えた。
それが、今の私たちにとっての「家」なのだと思う。




