第5話 ふたりで借りた部屋を、ひとりで出た
恋人と一緒に暮らせば、毎日がデートの続きになる。
朝は同じ部屋で目を覚まし、夜は同じ食卓を囲む。つらいことがあっても、帰れば好きな人が待っている。
私は本気で、そんな生活を想像していた。
大学を卒業した春、私は三年間付き合っていた彼と同棲を始めた。
彼とは大学のサークルで知り合った。明るく、友人が多く、私が悩んでいるときには冗談を言って笑わせてくれる人だった。
卒業後、私たちは別々の会社へ就職した。
互いの部屋を行き来するより、一緒に住んだ方が家賃も生活費も節約できる。何より、もっと近くで彼と暮らしたかった。
「これからは、毎日会えるね」
内見を終えた帰り道、私は新しい部屋の間取り図を胸に抱えて笑った。
彼も笑っていた。
「家賃も半分になるし、いいことばっかりだな」
選んだのは、二人の職場の中間にある1LDKだった。
広い部屋ではない。それでも、小さなダイニングテーブルと二人掛けのソファを置けるだけの広さがあった。
引っ越しの日、私たちは段ボール箱に囲まれながら、床に座ってピザを食べた。
カーテンはまだ付いていない。食器も揃っていない。
それでも、新しい部屋は希望で満ちていた。
「洗濯は交代でやろう」
「料理は私が多めにやるから、片づけをお願いね」
「分かった」
私たちは笑いながら役割を決めた。
けれど、それは正式な約束というより、楽しい未来を想像するための会話にすぎなかった。
家事にどれだけ時間を使うのか。
生活費をどう分担するのか。
貯金はいくら必要なのか。
一人で過ごす時間を、どれほど大切にしたいのか。
結婚を考えているのか。
私たちは肝心なことを、何一つ深く話していなかった。
最初の一か月は楽しかった。
仕事から帰ると、同じ部屋に彼がいる。
一緒に夕食を食べ、テレビを見て、休日には近所を散歩した。
だが、仕事が忙しくなるにつれて、生活の違いが少しずつ現れ始めた。
彼は脱いだ服を床に置いた。
飲み終えた缶をテーブルへ残した。
使った食器は流し台へ運ぶだけで、洗わなかった。
「食器、洗っておいてくれる?」
私が頼むと、彼はスマートフォンを見たまま答えた。
「あとでやるよ」
その「あとで」は、いつまで待っても来なかった。
結局、翌朝の私が洗った。
私も仕事をしていた。
朝早く起き、通勤電車に揺られ、残業をして帰ってくる。
疲れているのは同じだった。
それでも、洗濯物がたまれば私が回し、床が汚れれば私が掃除した。
冷蔵庫が空になれば、帰りにスーパーへ寄った。
「私だって働いてるんだよ」
ある夜、私はついに言った。
彼は不満そうに眉を寄せた。
「俺だって忙しいんだよ」
「私も忙しい。それでも家事はしなきゃいけないでしょう」
「そんなに気になるなら、自分でやればいいじゃん」
その一言で、胸の奥に積もっていたものが崩れた。
私は彼の母親になるために、一緒に暮らし始めたのではない。
二人で生活をつくりたかったのだ。
けれど彼にとって家事は、気になる人がすればよいものだった。
私にとっては、そこで暮らす全員が分担するものだった。
違っていたのは、家事だけではなかった。
私は休日に二人で出かけることを楽しみにしていた。
だが彼は、疲れているから一人で過ごしたいと言うことが増えた。
「来週、近くの温泉に行かない?」
「その日は友達と約束してる」
「じゃあ、その次の週は?」
「家でゲームしたい」
彼は私を嫌いになったわけではないと言った。
ただ、自分の時間が必要なのだと説明した。
その考えが間違っているとは思わなかった。
けれど私は、一緒に暮らしているのに、以前よりも孤独を感じるようになっていた。
同じソファに座っていても、彼はイヤホンをしてゲームをしている。
話しかけても、「あとで」と言われる。
同じ部屋にいるのに、互いの生活は別々だった。
お金の使い方も違った。
私は毎月、給料の一部を貯金していた。
いつか結婚するかもしれない。病気や失業があるかもしれない。将来のために、少しずつ備えておきたかった。
彼は趣味の道具や友人との飲み会に、ほとんど迷わず金を使った。
「今月の生活費、まだ振り込まれてないけど」
「来月まとめて払うよ」
「でも、この間もそう言ったよね」
「細かいな。ちゃんと払うって」
彼にとって、お金は今を楽しむためのものだった。
私にとっては、将来の安心をつくるためのものだった。
どちらかが完全に正しいわけではない。
だが、二人で暮らすなら、どこかで折り合いをつける必要があった。
私たちは、その話し合いができなかった。
私が家事や貯金の話を持ち出すと、彼は責められていると感じた。
彼が一人の時間を求めると、私は拒絶されたように感じた。
「もう少し、二人のことを考えてよ」
「いつも俺ばかり悪いみたいに言うなよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「知らないよ。疲れてるんだ」
声が大きくなり、どちらかが部屋を出る。
翌朝になれば、何事もなかったように仕事へ行く。
仲直りではない。
問題を見ないふりをしているだけだった。
いつしか私たちは、恋人というより、同じ部屋を使う他人のようになった。
冷蔵庫の中の食材には、それぞれの名前が付いた。
洗濯物も別々にした。
帰宅時間を知らせることもなくなった。
二人で選んだダイニングテーブルで、一人ずつ食事をした。
幸せになるために借りた部屋が、少しずつ息苦しい場所へ変わっていった。
そんなある日、彼が海外赴任を命じられた。
期間は数年になるという。
その話を聞いたとき、寂しさより先に、これで何かが終わるのだと思った。
出発の二週間前、彼は私をダイニングテーブルへ呼んだ。
部屋の中には、彼の荷造り用の段ボール箱が並んでいた。
「話がある」
彼は私の目を見なかった。
何を言われるのか、分かっていた。
「同棲してみて分かったけど、俺たちは合わないんだと思う」
以前なら、泣いて引き止めていたかもしれない。
三年も付き合った。
一緒に暮らせば、いずれ結婚するのだと思っていた。
けれど、そのときの私は不思議なほど静かだった。
「そうだね」
口から出たのは、それだけだった。
彼も泣かなかった。
私も泣かなかった。
すでに長い時間をかけて、少しずつ別れていたのだと思う。
彼が海外へ出発したあと、部屋には私一人が残った。
洗面所には、彼の使いかけの歯磨き粉があった。
冷蔵庫には、彼が買った缶ビールが一本残っていた。
二人掛けのソファは、急に広く見えた。
私は賃貸契約書を開いた。
契約期間はまだ残っていた。
一人で住み続けるには家賃が高すぎる。解約を申し出ると、短期解約の違約金が必要だと言われた。
敷金から差し引かれる原状回復費用。
引っ越し業者代。
不要になった家具の処分費。
同棲を始めるとき、私たちは家賃が半分になることばかり考えていた。
別れるときに、どれほど金がかかるのかは考えていなかった。
私は違約金を払い、部屋を解約した。
二人で買った家具を、一つずつ分けた。
彼の荷物はすでにない。
私の荷物だけが段ボール箱へ収まっていく。
最後に残ったのは、二人で選んだダイニングテーブルだった。
運び出されたあとの床には、四本の脚が付けた薄い跡が残っていた。
私は何もなくなった部屋の中央に立った。
引っ越してきた日、二人でピザを食べた場所だった。
あのときは、この部屋から新しい人生が始まると思っていた。
けれど今は、ここから一人でやり直そうと思った。
友人の家に一部の荷物を預け、私は実家へ戻った。
玄関を開けると、母が出てきた。
「おかえり」
事情を詳しく聞くより先に、私の荷物を持ってくれた。
父は何も言わずに、車から段ボール箱を運んだ。
妹は私の部屋を片づけて待っていてくれた。
その日の夕食は、私の好きな料理だった。
「無理に元気にならなくていいからね」
母の言葉を聞いた瞬間、別れた日にも出なかった涙があふれた。
悲しかったのは、彼を失ったことだけではない。
二人で思い描いていた未来がなくなったこと。
自分の選択が間違っていたように感じたこと。
同棲さえすれば、自然に幸せになれると思い込んでいたこと。
家族の前で泣きながら、私はようやく、それらを認めることができた。
同棲を解消して分かった。
好きという気持ちだけでは、生活は続かない。
家事をどう分担するか。
生活費をどう払うか。
貯金をどう考えるか。
一人で過ごす時間と、二人で過ごす時間をどうつくるか。
結婚や仕事を、将来どう考えているのか。
一緒に住む前に話し合うべきことは、たくさんあった。
価値観が完全に同じである必要はない。
違いがあっても、互いの考えを聞き、譲れる部分と譲れない部分を確かめられれば、乗り越えられることもある。
私たちに足りなかったのは、相性だけではなかった。
違いを言葉にし、理解しようとする覚悟だった。
あの部屋を出たことは、失敗だったのかもしれない。
違約金も払った。
家具も手放した。
三年間の恋も終わった。
それでも、私は以前より、自分がどんな生活を望んでいるのか分かるようになった。
私は、家事もお金も将来も、一緒に考えられる相手と暮らしたい。
寂しさを埋めるためではなく、互いの人生を尊重するために、誰かと暮らしたい。
何もなくなった部屋の鍵を返した日。
私は一度だけ振り返った。
そこにあったのは、終わった恋の部屋ではなかった。
自分の幸せを、他人任せにしないと決めた場所だった。
私は前を向き、歩き出した。
次に誰かと同じ部屋で暮らすときは、鍵を受け取る前に、未来の話をしよう。
家賃や間取りだけではなく。
二人が、どんな人生を暮らしたいのかを。




