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『引っ越したら、人生が変わりました。』住んで初めてわかった、部屋と人生のリアル  作者: 虫松


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5/12

第5話 ふたりで借りた部屋を、ひとりで出た

恋人と一緒に暮らせば、毎日がデートの続きになる。


朝は同じ部屋で目を覚まし、夜は同じ食卓を囲む。つらいことがあっても、帰れば好きな人が待っている。


私は本気で、そんな生活を想像していた。


大学を卒業した春、私は三年間付き合っていた彼と同棲を始めた。


彼とは大学のサークルで知り合った。明るく、友人が多く、私が悩んでいるときには冗談を言って笑わせてくれる人だった。


卒業後、私たちは別々の会社へ就職した。


互いの部屋を行き来するより、一緒に住んだ方が家賃も生活費も節約できる。何より、もっと近くで彼と暮らしたかった。


「これからは、毎日会えるね」


内見を終えた帰り道、私は新しい部屋の間取り図を胸に抱えて笑った。


彼も笑っていた。


「家賃も半分になるし、いいことばっかりだな」


選んだのは、二人の職場の中間にある1LDKだった。


広い部屋ではない。それでも、小さなダイニングテーブルと二人掛けのソファを置けるだけの広さがあった。


引っ越しの日、私たちは段ボール箱に囲まれながら、床に座ってピザを食べた。


カーテンはまだ付いていない。食器も揃っていない。


それでも、新しい部屋は希望で満ちていた。


「洗濯は交代でやろう」


「料理は私が多めにやるから、片づけをお願いね」


「分かった」


私たちは笑いながら役割を決めた。


けれど、それは正式な約束というより、楽しい未来を想像するための会話にすぎなかった。


家事にどれだけ時間を使うのか。


生活費をどう分担するのか。


貯金はいくら必要なのか。


一人で過ごす時間を、どれほど大切にしたいのか。


結婚を考えているのか。


私たちは肝心なことを、何一つ深く話していなかった。


最初の一か月は楽しかった。


仕事から帰ると、同じ部屋に彼がいる。


一緒に夕食を食べ、テレビを見て、休日には近所を散歩した。


だが、仕事が忙しくなるにつれて、生活の違いが少しずつ現れ始めた。


彼は脱いだ服を床に置いた。


飲み終えた缶をテーブルへ残した。


使った食器は流し台へ運ぶだけで、洗わなかった。


「食器、洗っておいてくれる?」


私が頼むと、彼はスマートフォンを見たまま答えた。


「あとでやるよ」


その「あとで」は、いつまで待っても来なかった。


結局、翌朝の私が洗った。


私も仕事をしていた。


朝早く起き、通勤電車に揺られ、残業をして帰ってくる。


疲れているのは同じだった。


それでも、洗濯物がたまれば私が回し、床が汚れれば私が掃除した。


冷蔵庫が空になれば、帰りにスーパーへ寄った。


「私だって働いてるんだよ」


ある夜、私はついに言った。


彼は不満そうに眉を寄せた。


「俺だって忙しいんだよ」


「私も忙しい。それでも家事はしなきゃいけないでしょう」


「そんなに気になるなら、自分でやればいいじゃん」


その一言で、胸の奥に積もっていたものが崩れた。


私は彼の母親になるために、一緒に暮らし始めたのではない。


二人で生活をつくりたかったのだ。


けれど彼にとって家事は、気になる人がすればよいものだった。


私にとっては、そこで暮らす全員が分担するものだった。


違っていたのは、家事だけではなかった。


私は休日に二人で出かけることを楽しみにしていた。


だが彼は、疲れているから一人で過ごしたいと言うことが増えた。


「来週、近くの温泉に行かない?」


「その日は友達と約束してる」


「じゃあ、その次の週は?」


「家でゲームしたい」


彼は私を嫌いになったわけではないと言った。


ただ、自分の時間が必要なのだと説明した。


その考えが間違っているとは思わなかった。


けれど私は、一緒に暮らしているのに、以前よりも孤独を感じるようになっていた。


同じソファに座っていても、彼はイヤホンをしてゲームをしている。


話しかけても、「あとで」と言われる。


同じ部屋にいるのに、互いの生活は別々だった。


お金の使い方も違った。


私は毎月、給料の一部を貯金していた。


いつか結婚するかもしれない。病気や失業があるかもしれない。将来のために、少しずつ備えておきたかった。


彼は趣味の道具や友人との飲み会に、ほとんど迷わず金を使った。


「今月の生活費、まだ振り込まれてないけど」


「来月まとめて払うよ」


「でも、この間もそう言ったよね」


「細かいな。ちゃんと払うって」


彼にとって、お金は今を楽しむためのものだった。


私にとっては、将来の安心をつくるためのものだった。


どちらかが完全に正しいわけではない。


だが、二人で暮らすなら、どこかで折り合いをつける必要があった。


私たちは、その話し合いができなかった。


私が家事や貯金の話を持ち出すと、彼は責められていると感じた。


彼が一人の時間を求めると、私は拒絶されたように感じた。


「もう少し、二人のことを考えてよ」


「いつも俺ばかり悪いみたいに言うなよ」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「知らないよ。疲れてるんだ」


声が大きくなり、どちらかが部屋を出る。


翌朝になれば、何事もなかったように仕事へ行く。


仲直りではない。


問題を見ないふりをしているだけだった。


いつしか私たちは、恋人というより、同じ部屋を使う他人のようになった。


冷蔵庫の中の食材には、それぞれの名前が付いた。


洗濯物も別々にした。


帰宅時間を知らせることもなくなった。


二人で選んだダイニングテーブルで、一人ずつ食事をした。


幸せになるために借りた部屋が、少しずつ息苦しい場所へ変わっていった。


そんなある日、彼が海外赴任を命じられた。


期間は数年になるという。


その話を聞いたとき、寂しさより先に、これで何かが終わるのだと思った。


出発の二週間前、彼は私をダイニングテーブルへ呼んだ。


部屋の中には、彼の荷造り用の段ボール箱が並んでいた。


「話がある」


彼は私の目を見なかった。


何を言われるのか、分かっていた。


「同棲してみて分かったけど、俺たちは合わないんだと思う」


以前なら、泣いて引き止めていたかもしれない。


三年も付き合った。


一緒に暮らせば、いずれ結婚するのだと思っていた。


けれど、そのときの私は不思議なほど静かだった。


「そうだね」


口から出たのは、それだけだった。


彼も泣かなかった。


私も泣かなかった。


すでに長い時間をかけて、少しずつ別れていたのだと思う。


彼が海外へ出発したあと、部屋には私一人が残った。


洗面所には、彼の使いかけの歯磨き粉があった。


冷蔵庫には、彼が買った缶ビールが一本残っていた。


二人掛けのソファは、急に広く見えた。


私は賃貸契約書を開いた。


契約期間はまだ残っていた。


一人で住み続けるには家賃が高すぎる。解約を申し出ると、短期解約の違約金が必要だと言われた。


敷金から差し引かれる原状回復費用。


引っ越し業者代。


不要になった家具の処分費。


同棲を始めるとき、私たちは家賃が半分になることばかり考えていた。


別れるときに、どれほど金がかかるのかは考えていなかった。


私は違約金を払い、部屋を解約した。


二人で買った家具を、一つずつ分けた。


彼の荷物はすでにない。


私の荷物だけが段ボール箱へ収まっていく。


最後に残ったのは、二人で選んだダイニングテーブルだった。


運び出されたあとの床には、四本の脚が付けた薄い跡が残っていた。


私は何もなくなった部屋の中央に立った。


引っ越してきた日、二人でピザを食べた場所だった。


あのときは、この部屋から新しい人生が始まると思っていた。


けれど今は、ここから一人でやり直そうと思った。


友人の家に一部の荷物を預け、私は実家へ戻った。


玄関を開けると、母が出てきた。


「おかえり」


事情を詳しく聞くより先に、私の荷物を持ってくれた。


父は何も言わずに、車から段ボール箱を運んだ。


妹は私の部屋を片づけて待っていてくれた。


その日の夕食は、私の好きな料理だった。


「無理に元気にならなくていいからね」


母の言葉を聞いた瞬間、別れた日にも出なかった涙があふれた。


悲しかったのは、彼を失ったことだけではない。


二人で思い描いていた未来がなくなったこと。


自分の選択が間違っていたように感じたこと。


同棲さえすれば、自然に幸せになれると思い込んでいたこと。


家族の前で泣きながら、私はようやく、それらを認めることができた。


同棲を解消して分かった。


好きという気持ちだけでは、生活は続かない。


家事をどう分担するか。


生活費をどう払うか。


貯金をどう考えるか。


一人で過ごす時間と、二人で過ごす時間をどうつくるか。


結婚や仕事を、将来どう考えているのか。


一緒に住む前に話し合うべきことは、たくさんあった。


価値観が完全に同じである必要はない。


違いがあっても、互いの考えを聞き、譲れる部分と譲れない部分を確かめられれば、乗り越えられることもある。


私たちに足りなかったのは、相性だけではなかった。


違いを言葉にし、理解しようとする覚悟だった。


あの部屋を出たことは、失敗だったのかもしれない。


違約金も払った。


家具も手放した。


三年間の恋も終わった。


それでも、私は以前より、自分がどんな生活を望んでいるのか分かるようになった。


私は、家事もお金も将来も、一緒に考えられる相手と暮らしたい。


寂しさを埋めるためではなく、互いの人生を尊重するために、誰かと暮らしたい。


何もなくなった部屋の鍵を返した日。


私は一度だけ振り返った。


そこにあったのは、終わった恋の部屋ではなかった。


自分の幸せを、他人任せにしないと決めた場所だった。


私は前を向き、歩き出した。


次に誰かと同じ部屋で暮らすときは、鍵を受け取る前に、未来の話をしよう。


家賃や間取りだけではなく。


二人が、どんな人生を暮らしたいのかを。

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