第4話 新築なのに、誰でも入れます。 きれいなマンションの夢を壊した、ずさんな管理
新築マンションへ引っ越せば、すべてが新しくなる。
部屋も、暮らしも、これからの人生も。
私は本気で、そう思っていた。
今年の春。
私は駅から徒歩五分の場所に建った、新築マンションへ引っ越した。
白いタイル張りの外壁。ガラス扉の明るいエントランス。宅配ボックスに防犯カメラ、オートロックまで備わっている。
室内も申し分なかった。
傷一つないフローリング。真新しいキッチン。浴室乾燥機。広い収納。窓を開ければ、春の風が新しいカーテンを揺らした。
段ボール箱を片づけながら、私は何度も部屋を見回した。
「ここなら、長く暮らせそうだ」
以前の部屋は駅から遠く、設備も古かった。
それに比べれば、今度のマンションは夢のようだった。
家賃は少し高い。
それでも、安全と快適さを買ったのだと思えば納得できた。
ところが、その期待は数日後から少しずつ崩れ始めた。
最初に異変を感じたのは、ゴミ出しの日だった。
出勤前、ゴミ袋を持って建物脇の集積所へ向かうと、扉の前に生ゴミや空き容器が散乱していた。
透明な袋は大きく裂かれ、中身が地面へ引きずり出されている。
倒れたゴミ箱の横には、汚れた紙皿や野菜くずが転がっていた。
「猫か、カラスかな……」
私は鼻を押さえながら、そう考えた。
しかし、よく見ると不自然だった。
ゴミ袋の結び目はほどかれていた。中に入っていた封筒や箱だけが、選ぶように抜き出されている。
動物が荒らしたというより、誰かが袋を開けて中身を調べたように見えた。
背中が冷たくなった。
ゴミには、住所や名前が分かる物を入れてしまうことがある。
生活用品を見れば、家族構成や暮らしぶりまで想像できるかもしれない。
私は慌てて自分の袋を確認し、個人情報の書かれた紙が入っていないことを確かめた。
集積所の扉には鍵が付いていた。
だが、鍵は使われていなかった。
扉は誰でも開けられる状態だった。
その日の昼休み、私は管理会社へ電話した。
「ゴミ置き場が荒らされています。鍵もかかっていません」
電話口の女性は、慣れた調子で答えた。
「申し訳ございません。確認いたします」
「何度か起きているんでしょうか」
「担当者へ伝えておきます」
それだけだった。
私は、すぐに対応してもらえると思っていた。
けれど翌週も、ゴミ置き場は同じように荒らされていた。
散らばったゴミを片づけていたのは、管理会社ではなく、一階に住む年配の女性だった。
「いつもこうなんですか」
私が尋ねると、女性は疲れた顔でため息をついた。
「前から何度も言っているの。でも、なかなか直してくれなくてね」
新築なのに、前から。
その言葉が妙に引っかかった。
建物は新しくても、管理まで新しく整っているとは限らないのだ。
次に気づいたのは、エントランスのオートロックだった。
ある夜、仕事から帰った私は、鍵を取り出す前に自動扉が開くのを見た。
誰かが中から出てきたのかと思った。
だが、周囲に人はいない。
操作盤を見ると、ロックが解除されたままになっていた。
試しに扉を閉めてから近づくと、鍵をかざしていないのに再び開いた。
住人でなくても入れてしまう。
私はエントランスの中で、しばらく立ち尽くした。
オートロックがあるから、この物件を選んだ。
夜遅く帰ってきても安心できると思った。
だが、扉が開けっ放しなら、立派な設備もただの飾りだ。
翌朝、エレベーターで一緒になった住人へ話すと、相手は困ったように笑った。
「それ、管理会社の人じゃないですか」
「管理会社?」
「点検とか清掃で入るときに解除して、そのまま戻し忘れることがあるみたいですよ」
「そんなことが何度も?」
「私は二回見ました」
悪意のある侵入者ではなかった。
だが、だから安心できるわけではない。
解除したまま忘れる人がいるということは、その時間、誰でも建物へ入れるということだ。
私は再び管理会社へ電話した。
「オートロックが解除されたままになっています。防犯上危険ではありませんか」
「申し訳ございません。今後注意いたします」
「ゴミ置き場の件も、まだ改善されていません」
「担当者へ申し伝えます」
「具体的に、いつ対応してもらえるんですか」
少し沈黙があった。
「確認後、必要に応じて対応いたします」
その答えを聞いた瞬間、私は悟った。
この人たちは、「すみません」と言えば苦情が終わると思っている。
謝罪はする。
だが、確認しない。
期限を決めない。
対策も示さない。
新築の床や壁はきれいだった。
しかし、建物を守る仕組みは驚くほど頼りなかった。
それから私は、帰宅するたびにエントランスの扉を確認するようになった。
ゴミを出すときは、名前や住所の書かれた紙を細かく破った。
夜、廊下で知らない人とすれ違うと、本当に住人なのかと疑った。
以前なら気にも留めなかった物音に、耳を澄ませるようになった。
安全を求めて選んだ新築マンションで、私は以前よりも警戒して暮らしていた。
ある夜、エントランスの掲示板を見ると、「不審者に注意」という紙が貼られていた。
だが、紙は端がめくれ、いつ貼られたものなのかも分からない。
管理会社の連絡先は小さく印刷されているだけだった。
注意してください。
戸締まりをしてください。
防犯意識を高めてください。
住人へ求める言葉ばかりが並んでいる。
「管理する側は、何をしてくれるんだ」
私は思わずつぶやいた。
家賃と一緒に管理費も払っている。
それは、廊下を掃除してもらうためだけの金ではないはずだ。
住人が安心して暮らせるよう、共用部分を維持し、問題が起これば対応してもらうための費用だと思っていた。
このまま苦情を言い続けても、また同じ返事が返ってくる。
そう考えた私は、契約書類を引っ張り出した。
所有者の欄に、マンションのオーナーの連絡先が記載されていた。
管理会社を飛び越えて連絡することには、少しためらいがあった。
大げさな住人だと思われるかもしれない。
面倒を起こす人間だと思われるかもしれない。
それでも、ゴミ置き場の写真と、オートロックが解除されていた日時を整理し、私は電話をかけた。
オーナーは、私の話を黙って聞いていた。
「ゴミ置き場に鍵がかかっていないんですか」
驚いた声だった。
「はい。何度も荒らされています」
「オートロックも解除されたまま?」
「少なくとも、私が確認しただけで二回あります。他の住人も見たそうです」
「管理会社には連絡しましたか」
「何度もしました。でも、謝るだけで改善されません」
電話の向こうで、深いため息が聞こえた。
「分かりました。こちらから厳しく注意します。状況も確認させます」
管理会社とは違い、オーナーは問題を一つずつ聞き返した。
いつ起きたのか。
写真はあるのか。
他の住人も困っているのか。
そのやり取りだけで、少し気持ちが軽くなった。
私は苦情を言いたかったのではない。
ただ、誰かに真剣に受け止めてほしかったのだ。
その数日後、ゴミ置き場の扉に新しい鍵が取り付けられた。
収集日以外は施錠され、住人だけが指定の方法で開けられるようになった。
エントランスには、管理作業後にオートロックを確認するよう、担当者向けの注意書きが貼られた。
管理会社からも連絡が来た。
「このたびは対応が遅れ、申し訳ございませんでした」
以前と同じ謝罪だった。
だが、今回はそのあとに、具体的な対応内容が続いた。
ゴミ置き場の巡回回数を増やすこと。
オートロックの復旧確認を作業記録へ残すこと。
問題が起きた場合は、担当者から住人へ報告すること。
ようやく、管理が始まったのだと思った。
私は、新築マンションなら安心だと思い込んでいた。
新しい建物。
最新の設備。
きれいな共用部分。
それらを見れば、管理もきちんとしているように感じてしまう。
だが、建物の新しさと、管理の丁寧さは別のものだった。
マンションを見るとき、部屋の中だけを確認してはいけない。
ゴミ置き場は清潔か。
廊下やエントランスは掃除されているか。
掲示板のお知らせは整理されているか。
管理人はいついるのか。
問題が起きたとき、誰がどのように対応するのか。
管理費が安いか高いかだけではなく、その金で何が行われているのか。
暮らし始めてから気づくことは多い。
けれど、内見のときに少し立ち止まり、共用部分を見れば分かることもある。
今では、ゴミ置き場が荒らされることはなくなった。
オートロックも正しく作動している。
夜、エントランスへ入るとき、私は鍵をかざす。
短い電子音が鳴り、扉が開く。
以前なら当たり前だと思っていた光景だ。
だが今は、その当たり前が、誰かの確認と管理によって守られていることを知っている。
住み心地を決めるのは、間取りや設備だけではない。
新築かどうかだけでもない。
見えないところで、建物をきちんと守る人がいるかどうか。
それもまた、部屋選びの大切な条件なのだ。
新しいマンションで始まった私の生活は、期待していたほど完璧ではなかった。
それでも、声を上げたことで少しずつ変わった。
きれいな建物が、本当に安心して暮らせる住まいになるためには、建物だけでなく、管理する人間も信頼できなければならない。
私はそのことを、散らばったゴミと、開け放たれた自動扉から学んだ。




