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『引っ越したら、人生が変わりました。』住んで初めてわかった、部屋と人生のリアル  作者: 虫松


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3/12

第3話 「おかえり」が聞こえる商店街

安い家賃と、少し広い部屋を求めて引っ越した。


そこで手に入れたのは、物件情報の条件欄には載っていない、人の温かさだった。


 


十数年前。


私は港区にあるワンルームマンションで、一人暮らしをしていた。


築年数は浅く、室内はきれいだった。


白い壁。


明るい色のフローリング。


小さいながらも使いやすいキッチン。


浴室には乾燥機があり、エントランスにはオートロックも付いていた。


最寄り駅までは歩いて五分。


コンビニはマンションのすぐ近くにあり、少し歩けば深夜まで営業しているスーパーもあった。


便利かと聞かれれば、間違いなく便利だった。


朝は目覚まし時計に起こされ、シャワーを浴び、駅まで足早に歩く。


満員電車に押し込まれ、会社へ向かう。


夜は残業を終え、コンビニで弁当とペットボトルのお茶を買い、部屋へ戻る。


電子レンジの音が、静かな室内に響く。


テレビをつけたまま一人で食事をし、風呂に入り、眠る。


そして翌朝、また同じ一日が始まる。


隣の部屋には誰かが住んでいた。


廊下で足音を聞くことはあった。


ドアが開閉する音もした。


だが、住人の顔を見た記憶はほとんどない。


エレベーターで一緒になっても、互いに軽く頭を下げるだけだった。


名前は知らない。


仕事も知らない。


どんな生活をしているのかも知らない。


おそらく、相手も私のことを何も知らなかった。


それで困ることはなかった。


都会とは、そういう場所なのだと思っていた。


誰にも干渉されない。


誰にも詮索されない。


それは自由で、気楽な暮らしのはずだった。


けれど、ときどき仕事から帰り、真っ暗な部屋の電気をつけた瞬間、胸の奥に小さな空洞ができることがあった。


誰も待っていない。


誰からも声をかけられない。


体調が悪くても、仕事で失敗しても、部屋へ戻れば一人だった。


私は便利な街に住んでいた。


けれど、その街に自分の居場所があるとは思えなかった。


駅と会社とマンションを往復しているだけで、街に暮らしているという感覚がなかった。


私はそこに住んでいたというより、ただ寝泊まりしていたのだと思う。


 


引っ越しを考え始めたのは、家賃の更新通知が届いたことがきっかけだった。


更新料。


火災保険料。


管理費。


封筒の中に並んだ数字を見て、私はため息をついた。


「この広さで、またこれだけ払うのか」


ワンルームの部屋は、以前より狭く感じるようになっていた。


仕事の資料や本が増え、収納はいっぱいだった。


窓際には段ボール箱が積み上がっている。


友人を呼んでも、座る場所さえ十分にない。


便利さには満足していたが、家賃の負担は軽くなかった。


もう少し広く、もう少し安い部屋はないだろうか。


そう思い、私は休日に不動産情報を調べ始めた。


都心から少し離れると、同じ家賃でも広い部屋が見つかった。


駅から遠い。


建物が古い。


オートロックがない。


条件を一つ妥協するたび、選択肢は増えていった。


その中で目に留まったのが、中目黒駅の商店街近くにある物件だった。


築年数は港区のマンションより古い。


外観も決して新しくはない。


だが、部屋は今より広かった。


小さなダイニングスペースがあり、寝る場所と食事をする場所を分けられる。


駅からも近い。


それでいて、家賃は現在の部屋より安かった。


「何か問題があるんじゃないか」


私は少し警戒した。


騒音。


日当たり。


建物の古さ。


安い理由があるのかもしれない。


それでも興味を持ち、内見を申し込んだ。


 


内見の日。


中目黒駅を出ると、港区とは違う空気を感じた。


駅前には多くの人がいたが、少し歩くと小さな商店が並ぶ通りへ入った。


八百屋の店先には、段ボール箱いっぱいの野菜が積まれていた。


「今日は大根が安いよ!」


威勢のよい声が響く。


魚屋では、銀色に光る魚が氷の上に並んでいた。


店主が客に向かって、煮付けにするならどれがよいか説明している。


肉屋の前からは、揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきた。


コロッケを買った子どもが、その場でかじりながら母親に怒られている。


和菓子屋のガラスケースには、色とりどりの菓子が並んでいた。


その隣には、小さなパン屋があった。


扉が開くたび、焼きたてのパンの甘い香りが通りへ流れてくる。


私は思わず足を止めた。


「ここ、いい匂いですね」


同行していた不動産会社の担当者が笑った。


「地元では有名なお店ですよ。朝は並ぶこともあります」


商店街を抜け、細い路地へ入ったところに物件はあった。


一階には小さな事務所があり、二階と三階が住居になっている建物だった。


部屋は予想していたより明るかった。


大きな窓があるわけではないが、白い壁のおかげで圧迫感は少ない。


港区の部屋より、明らかに広い。


小さなテーブルを置いても、まだ余裕がある。


収納も十分だった。


窓を開けると、商店街の音が聞こえた。


人の話し声。


自転車のベル。


店員の呼び込み。


遠くでトラックが止まる音。


静かな部屋とは言えなかった。


「朝は商品の搬入があります。お店の営業時間中は、人通りも多いですね」


担当者が説明した。


窓の外には、向かいの建物の壁が見えた。


日当たりも、すばらしいとは言えない。


それでも私は、不思議と嫌な感じがしなかった。


港区の部屋は静かだった。


だが、その静けさはときどき孤独を強くした。


この部屋には、窓の向こうに人の生活があった。


「少し考えます」


そう答えたものの、私の気持ちはほとんど決まっていた。


内見を終えたあと、私はもう一度商店街を歩いた。


例のパン屋へ入り、焼きたての塩パンを一つ買った。


紙袋を受け取ると、店の奥から女性が声をかけてきた。


「熱いから気をつけてくださいね」


「ありがとうございます」


たったそれだけの会話だった。


それなのに、なぜか心に残った。


私は駅へ向かいながらパンを一口かじった。


表面は香ばしく、中は柔らかかった。


「ここに住んでみようかな」


口に出すと、少しだけ新しい生活が見えた気がした。


 


引っ越し当日は、最初から予定どおりには進まなかった。


朝、引っ越し業者のトラックが商店街へ入ろうとすると、入口で止められた。


商店街では曜日や時間帯によって車両の進入に制限があり、大型車が荷下ろしをする場合には、事前の確認が必要だったのだ。


私はそんなことを知らなかった。


不動産会社からも、詳しい説明を受けた記憶がない。


業者の運転手から電話を受け、慌てて現場へ走った。


「ここに車を止められないと、荷物を運べないんですが」


運転手が困った顔をしていた。


商店街の入口では、近くの店主たちがこちらを見ている。


私は頭を下げながら事情を説明した。


「今日、あそこの建物へ引っ越す者です。事前に確認していなくて、申し訳ありません」


すると、八百屋の店主らしい男性が腕を組んだ。


「今日は昼から人が増えるから、長く止めるのは難しいよ」


「すぐに終わらせます」


「荷物、多いの?」


「それほどではありません」


少し考えたあと、男性は近くにいた別の店主へ声をかけた。


「裏の道から回せば、短時間ならいけるんじゃないか?」


肉屋の店主も外へ出てきた。


「うちの前を少し空けるよ。十時までに終わらせてくれれば大丈夫」


「ありがとうございます」


知らない人たちが、次々に相談し始めた。


車をどこへ止めるか。


荷物をどの道から運ぶか。


通行人の邪魔にならないよう、誰が誘導するか。


私の引っ越しなのに、商店街の人たちが段取りを考えてくれた。


「ほら、そこに立ってると邪魔になるよ。あんたは荷物の確認をしてな」


八百屋の店主に言われ、私は慌てて道を空けた。


港区のマンションへ引っ越したときは、管理会社と引っ越し業者だけで、すべてが静かに終わった。


誰とも話さなかった。


だが今回は、引っ越し初日から何人もの人に頭を下げ、助けてもらった。


予定外のことばかりで疲れた。


それでも荷物を運び終えたとき、私はすでに何人かの顔を覚えていた。


八百屋の主人。


肉屋の夫婦。


通りを掃除していた和菓子屋のおばあさん。


帰り際、八百屋の主人が私にミカンを二つ渡した。


「引っ越し祝い。傷があるから売り物にならないけど、味は同じだよ」


「そんな、悪いです」


「いいから。今度はちゃんと許可を確認しろよ」


男性は笑った。


私は何度も礼を言い、ミカンを受け取った。


新しい部屋で段ボール箱に囲まれながら、そのミカンを食べた。


少し酸っぱかった。


けれど、港区で一人きりで食べていた高級な果物より、ずっとおいしく感じた。


 


商店街近くの生活は、静かではなかった。


朝六時を過ぎると、搬入のトラックがやって来る。


荷台を開ける金属音。


商品を運ぶ台車の音。


店のシャッターが上がる音。


八百屋の主人の大きな声。


休日くらい遅くまで眠りたいと思っても、商店街の朝は早かった。


窓の向かいには建物があり、日差しは午前中の短い時間しか入らない。


湿気がこもりやすく、最初の梅雨にはクローゼットの奥へ除湿剤をいくつも置いた。


夕方になると、肉屋の揚げ物の匂いが部屋まで漂ってきた。


お腹が空いているときは魅力的だったが、体調が悪い日には重く感じることもあった。


人通りが多いため、窓を開けたまま着替えることはできない。


誰かと目が合うような距離ではないものの、外から見られているような気がした。


カーテンを閉める時間が増えた。


商店街に住むことには、確かに不便があった。


静けさ。


日当たり。


プライバシー。


以前の部屋にあったものを、私はいくつか失った。


それでも、暮らし始めてしばらくすると、代わりに得たものへ気づくようになった。


安い家賃と、少し広い部屋を求めて引っ越した。


そこで手に入れたのは、物件情報の条件欄には載っていない、人の温かさだった。


 


十数年前。


私は港区にあるワンルームマンションで、一人暮らしをしていた。


築年数は浅く、室内はきれいだった。


白い壁。


明るい色のフローリング。


小さいながらも使いやすいキッチン。


浴室には乾燥機があり、エントランスにはオートロックも付いていた。


最寄り駅までは歩いて五分。


コンビニはマンションのすぐ近くにあり、少し歩けば深夜まで営業しているスーパーもあった。


便利かと聞かれれば、間違いなく便利だった。


朝は目覚まし時計に起こされ、シャワーを浴び、駅まで足早に歩く。


満員電車に押し込まれ、会社へ向かう。


夜は残業を終え、コンビニで弁当とペットボトルのお茶を買い、部屋へ戻る。


電子レンジの音が、静かな室内に響く。


テレビをつけたまま一人で食事をし、風呂に入り、眠る。


そして翌朝、また同じ一日が始まる。


隣の部屋には誰かが住んでいた。


廊下で足音を聞くことはあった。


ドアが開閉する音もした。


だが、住人の顔を見た記憶はほとんどない。


エレベーターで一緒になっても、互いに軽く頭を下げるだけだった。


名前は知らない。


仕事も知らない。


どんな生活をしているのかも知らない。


おそらく、相手も私のことを何も知らなかった。


それで困ることはなかった。


都会とは、そういう場所なのだと思っていた。


誰にも干渉されない。


誰にも詮索されない。


それは自由で、気楽な暮らしのはずだった。


けれど、ときどき仕事から帰り、真っ暗な部屋の電気をつけた瞬間、胸の奥に小さな空洞ができることがあった。


誰も待っていない。


誰からも声をかけられない。


体調が悪くても、仕事で失敗しても、部屋へ戻れば一人だった。


私は便利な街に住んでいた。


けれど、その街に自分の居場所があるとは思えなかった。


駅と会社とマンションを往復しているだけで、街に暮らしているという感覚がなかった。


私はそこに住んでいたというより、ただ寝泊まりしていたのだと思う。


 


引っ越しを考え始めたのは、家賃の更新通知が届いたことがきっかけだった。


更新料。


火災保険料。


管理費。


封筒の中に並んだ数字を見て、私はため息をついた。


「この広さで、またこれだけ払うのか」


ワンルームの部屋は、以前より狭く感じるようになっていた。


仕事の資料や本が増え、収納はいっぱいだった。


窓際には段ボール箱が積み上がっている。


友人を呼んでも、座る場所さえ十分にない。


便利さには満足していたが、家賃の負担は軽くなかった。


もう少し広く、もう少し安い部屋はないだろうか。


そう思い、私は休日に不動産情報を調べ始めた。


都心から少し離れると、同じ家賃でも広い部屋が見つかった。


駅から遠い。


建物が古い。


オートロックがない。


条件を一つ妥協するたび、選択肢は増えていった。


その中で目に留まったのが、中目黒駅の商店街近くにある物件だった。


築年数は港区のマンションより古い。


外観も決して新しくはない。


だが、部屋は今より広かった。


小さなダイニングスペースがあり、寝る場所と食事をする場所を分けられる。


駅からも近い。


それでいて、家賃は現在の部屋より安かった。


「何か問題があるんじゃないか」


私は少し警戒した。


騒音。


日当たり。


建物の古さ。


安い理由があるのかもしれない。


それでも興味を持ち、内見を申し込んだ。


 


内見の日。


中目黒駅を出ると、港区とは違う空気を感じた。


駅前には多くの人がいたが、少し歩くと小さな商店が並ぶ通りへ入った。


八百屋の店先には、段ボール箱いっぱいの野菜が積まれていた。


「今日は大根が安いよ!」


威勢のよい声が響く。


魚屋では、銀色に光る魚が氷の上に並んでいた。


店主が客に向かって、煮付けにするならどれがよいか説明している。


肉屋の前からは、揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきた。


コロッケを買った子どもが、その場でかじりながら母親に怒られている。


和菓子屋のガラスケースには、色とりどりの菓子が並んでいた。


その隣には、小さなパン屋があった。


扉が開くたび、焼きたてのパンの甘い香りが通りへ流れてくる。


私は思わず足を止めた。


「ここ、いい匂いですね」


同行していた不動産会社の担当者が笑った。


「地元では有名なお店ですよ。朝は並ぶこともあります」


商店街を抜け、細い路地へ入ったところに物件はあった。


一階には小さな事務所があり、二階と三階が住居になっている建物だった。


部屋は予想していたより明るかった。


大きな窓があるわけではないが、白い壁のおかげで圧迫感は少ない。


港区の部屋より、明らかに広い。


小さなテーブルを置いても、まだ余裕がある。


収納も十分だった。


窓を開けると、商店街の音が聞こえた。


人の話し声。


自転車のベル。


店員の呼び込み。


遠くでトラックが止まる音。


静かな部屋とは言えなかった。


「朝は商品の搬入があります。お店の営業時間中は、人通りも多いですね」


担当者が説明した。


窓の外には、向かいの建物の壁が見えた。


日当たりも、すばらしいとは言えない。


それでも私は、不思議と嫌な感じがしなかった。


港区の部屋は静かだった。


だが、その静けさはときどき孤独を強くした。


この部屋には、窓の向こうに人の生活があった。


「少し考えます」


そう答えたものの、私の気持ちはほとんど決まっていた。


内見を終えたあと、私はもう一度商店街を歩いた。


例のパン屋へ入り、焼きたての塩パンを一つ買った。


紙袋を受け取ると、店の奥から女性が声をかけてきた。


「熱いから気をつけてくださいね」


「ありがとうございます」


たったそれだけの会話だった。


それなのに、なぜか心に残った。


私は駅へ向かいながらパンを一口かじった。


表面は香ばしく、中は柔らかかった。


「ここに住んでみようかな」


口に出すと、少しだけ新しい生活が見えた気がした。


 


引っ越し当日は、最初から予定どおりには進まなかった。


朝、引っ越し業者のトラックが商店街へ入ろうとすると、入口で止められた。


商店街では曜日や時間帯によって車両の進入に制限があり、大型車が荷下ろしをする場合には、事前の確認が必要だったのだ。


私はそんなことを知らなかった。


不動産会社からも、詳しい説明を受けた記憶がない。


業者の運転手から電話を受け、慌てて現場へ走った。


「ここに車を止められないと、荷物を運べないんですが」


運転手が困った顔をしていた。


商店街の入口では、近くの店主たちがこちらを見ている。


私は頭を下げながら事情を説明した。


「今日、あそこの建物へ引っ越す者です。事前に確認していなくて、申し訳ありません」


すると、八百屋の店主らしい男性が腕を組んだ。


「今日は昼から人が増えるから、長く止めるのは難しいよ」


「すぐに終わらせます」


「荷物、多いの?」


「それほどではありません」


少し考えたあと、男性は近くにいた別の店主へ声をかけた。


「裏の道から回せば、短時間ならいけるんじゃないか?」


肉屋の店主も外へ出てきた。


「うちの前を少し空けるよ。十時までに終わらせてくれれば大丈夫」


「ありがとうございます」


知らない人たちが、次々に相談し始めた。


車をどこへ止めるか。


荷物をどの道から運ぶか。


通行人の邪魔にならないよう、誰が誘導するか。


私の引っ越しなのに、商店街の人たちが段取りを考えてくれた。


「ほら、そこに立ってると邪魔になるよ。あんたは荷物の確認をしてな」


八百屋の店主に言われ、私は慌てて道を空けた。


港区のマンションへ引っ越したときは、管理会社と引っ越し業者だけで、すべてが静かに終わった。


誰とも話さなかった。


だが今回は、引っ越し初日から何人もの人に頭を下げ、助けてもらった。


予定外のことばかりで疲れた。


それでも荷物を運び終えたとき、私はすでに何人かの顔を覚えていた。


八百屋の主人。


肉屋の夫婦。


通りを掃除していた和菓子屋のおばあさん。


帰り際、八百屋の主人が私にミカンを二つ渡した。


「引っ越し祝い。傷があるから売り物にならないけど、味は同じだよ」


「そんな、悪いです」


「いいから。今度はちゃんと許可を確認しろよ」


男性は笑った。


私は何度も礼を言い、ミカンを受け取った。


新しい部屋で段ボール箱に囲まれながら、そのミカンを食べた。


少し酸っぱかった。


けれど、港区で一人きりで食べていた高級な果物より、ずっとおいしく感じた。


数日パン屋へ行かなければ、「最近来なかったけど、忙しかったの」と聞かれた。


風邪を引いてマスクをしていると、八百屋の主人が果物を持たせてくれた。


魚屋の店主は、「今日は料理しない方がいい」と、すぐに食べられる総菜を勧めてくれた。


和菓子屋のおばあさんには、「顔色が悪い」と叱られた。


ときには、少し面倒に感じることもあった。


急いでいるのに話が長い。


買う予定のなかった物まで勧められる。


昨日帰りが遅かったことを知られている。


誰と歩いていたのか聞かれる。


都会の距離感に慣れていた私には、近すぎると思う瞬間もあった。


それでも、その近さに救われることの方が多かった。


仕事で大きな失敗をした夜。


私は肩を落としながら商店街を歩いていた。


パン屋は閉店作業をしていたが、店主の妻が私に気づいた。


「どうしたんですか。元気がないですね」


「少し仕事で失敗して」


詳しいことを話すつもりはなかった。


だが、店主夫婦は店の前に椅子を出し、私へ温かいコーヒーを渡した。


「失敗しない人なんていませんよ」


「うちなんか、新作のパンを百個焼いて、一個も売れなかったことがあります」


「それは言わなくていいだろ」


夫婦のやり取りに、私は思わず笑った。


問題が解決したわけではない。


会社へ行けば、謝罪も対応も必要だった。


それでも、その夜は一人で抱え込まずに済んだ。


自分のことを気にかけてくれる人がいる。


ただそれだけで、失敗が人生の終わりではないと思えた。


 


商店街近くの生活は、静かではなかった。


朝六時を過ぎると、搬入のトラックがやって来る。


荷台を開ける金属音。


商品を運ぶ台車の音。


店のシャッターが上がる音。


八百屋の主人の大きな声。


休日くらい遅くまで眠りたいと思っても、商店街の朝は早かった。


窓の向かいには建物があり、日差しは午前中の短い時間しか入らない。


湿気がこもりやすく、最初の梅雨にはクローゼットの奥へ除湿剤をいくつも置いた。


夕方になると、肉屋の揚げ物の匂いが部屋まで漂ってきた。


お腹が空いているときは魅力的だったが、体調が悪い日には重く感じることもあった。


人通りが多いため、窓を開けたまま着替えることはできない。


誰かと目が合うような距離ではないものの、外から見られているような気がした。


カーテンを閉める時間が増えた。


商店街に住むことには、確かに不便があった。


静けさ。


日当たり。


プライバシー。


以前の部屋にあったものを、私はいくつか失った。


それでも、暮らし始めてしばらくすると、代わりに得たものへ気づくようになった。

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