第2話 このエアコン設備じゃありません。
眠れない夜が続くうちに、仕事も、人間関係も、新しい生活への希望も、少しずつ冷え切っていった。
東京への転勤を命じられたのは、十二月の初めだった。
「来月から東京支社へ行ってもらう」
福岡の事務所で上司からそう告げられたとき、私は驚きながらも、心のどこかで期待していた。
東京。
人も仕事も、あらゆるものが集まる街。
地方の支社で働いていた私にとって、本社に近い東京支社への転勤は、出世につながる大きな機会に思えた。
「分かりました。頑張ります」
私は迷わず答えた。
だが、問題は住まいだった。
転勤まで、ひと月もない。
福岡で暮らしていたのは、築十年ほどの1LDKマンションだった。
リビングには大きな窓があり、昼間は照明をつけなくても十分明るい。
キッチンと寝室も分かれていて、風呂には追い焚き機能まで付いていた。
駅から少し離れていたが、東京の基準で考えれば驚くほど家賃は安かった。
私は同じような条件の部屋を東京でも探そうとした。
だが、不動産情報サイトを開いた瞬間、その考えが甘かったことを思い知らされた。
福岡で払っていた家賃では、都心へ通いやすい場所の1LDKなど到底借りられない。
画面に表示されるのは、築三十年、築四十年のワンルームばかりだった。
駅から近ければ狭い。
広ければ遠い。
新しければ、家賃が跳ね上がる。
「東京って、こんなに高いのか……」
何度検索条件を変えても、理想に近い部屋は見つからなかった。
会社からは、早く住所を決めるよう催促されていた。
引っ越し業者の手配もある。
役所や郵便局の手続きも必要だ。
焦るほど、冷静に考えられなくなっていった。
そんなとき、築四十年のワンルームアパートが目に留まった。
駅から徒歩八分。
会社までは乗り換え一回。
六畳ほどの洋室に、小さなキッチンとユニットバス。
福岡の部屋と比べれば、半分以下の広さだった。
それでも家賃は、以前より高かった。
掲載された写真を見ると、壁紙は新しく張り替えられていた。
床も明るい色のフローリングだった。
そして、窓の上にはエアコンが付いていた。
「古いけど、まあ、住めなくはないか」
時間がなかった。
私は内見を申し込んだ。
東京へ日帰りで内見に行った日は、灰色の雲が空を覆っていた。
駅から商店街を抜け、細い路地へ入った先に、そのアパートはあった。
木造二階建て。
外壁の一部は色あせ、金属製の階段には赤い錆が浮いていた。
案内してくれた不動産会社の担当者は、少し申し訳なさそうに笑った。
「築年数は経っていますが、室内はきれいにしてあります」
二階の角部屋だった。
扉を開けると、冷たい空気が流れ出してきた。
部屋は写真で見たよりも暗かった。
窓の正面には隣の建物があり、昼間なのに日差しがほとんど入らない。
キッチンは狭く、電気コンロが一口。
浴槽は、膝を曲げなければ入れないほど小さい。
それでも、部屋の壁紙と床は新しく見えた。
収納も一応ある。
私は窓の上のエアコンを見た。
古い型だった。
本体の色は、白というより少し黄色がかっていた。
「エアコンも付いているんですよね」
私が尋ねると、担当者はエアコンへ視線を向けた。
「はい、設置されています」
その答えを聞いて、私は安心した。
冬の東京は寒いと聞いていた。
だが、エアコンがあるなら何とかなる。
私はリモコンを手に取らなかった。
動かしてみようとも思わなかった。
不動産会社の人が「設置されています」と言ったのだから、当然使えるものだと思い込んでいた。
設備表を見ることもなかった。
契約書の細かな項目について、その場で質問もしなかった。
転勤の日が迫っている。
これ以上探しても、条件のよい部屋が見つかる保証はない。
「ここにします」
私はその日のうちに申し込みをした。
年が明けて間もないころ、私は福岡を離れた。
引っ越し当日の東京は、肌を刺すような寒さだった。
駅へ降りた瞬間、思わず肩をすくめた。
福岡も冬は寒い。
だが、東京の寒さは空気が乾き、皮膚の表面から体温を奪っていくようだった。
アパートへ着くと、部屋の中は外とほとんど変わらないほど冷えていた。
吐く息が白く見える気さえした。
引っ越し業者が荷物を運び終えるまで、私はコートを脱げなかった。
段ボール箱を開け、布団を敷く。
カーテンを取り付ける。
冷蔵庫の電源を入れる。
最低限の作業が終わったころには、外はすっかり暗くなっていた。
「まずは暖房だな」
私はエアコンのリモコンを手に取った。
暖房。
二十八度。
風量は強。
電源ボタンを押す。
ピッ。
リモコンからは音がした。
だが、エアコン本体は動かなかった。
もう一度押した。
ピッ。
反応はない。
電池が古いのかもしれない。
近所のコンビニへ行き、新しい電池を買った。
リモコンの電池を交換し、再び電源を入れる。
それでも動かない。
本体の応急運転ボタンらしきものも押してみた。
何の音もしなかった。
「嘘だろ……」
部屋の温度は、ますます下がっていくように感じられた。
手がかじかみ、指先がうまく動かない。
私は契約時にもらった書類の中から、大家の連絡先を探した。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、年配の男性が電話に出た。
「はい」
「あの、今日から二〇三号室に入居した者ですが」
「ああ、はいはい」
「部屋のエアコンが動かないんです。リモコンの電池も替えたんですが」
電話の向こうで、少し間があった。
大家は、まるで以前から知っていたことを伝えるように言った。
「ああ、それ壊れていますよ」
私は言葉を失った。
「……壊れている?」
「前から動かないんです」
「では、修理してもらえますか。今日引っ越してきたばかりで、かなり寒いんです」
大家は、すぐに答えた。
「いや、それはできません」
「どうしてですか」
「そのエアコンは設備じゃないから」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
部屋に取り付けられている。
内見のときにも見た。
不動産会社の担当者も、設置されていると言っていた。
それなのに、設備ではないとはどういう意味なのか。
「エアコンが部屋に付いているんですよね」
「前の人が置いていったものです。残置物というやつです」
「残置物……?」
「大家の物じゃないんで、こっちで直す義務はありません」
「そんな説明、聞いていません」
私は慌てて契約書を開いた。
細かな文字が並んでいる。
設備の欄。
特約事項。
どこを見ればいいのか分からない。
少なくとも、エアコンが壊れていて使用できないとは書かれていないように見えた。
「契約書にも、使えないなんて書いていません」
「そういう決まりですから」
「でも、冬ですよ。暖房がないと生活できません」
「自分で暖房器具を買ってください」
大家の声には、申し訳なさがなかった。
最初から自分には関係のない問題だと決めているようだった。
「不動産会社にも確認します」
「どうぞ」
電話は切れた。
部屋に静寂が戻った。
私は動かないエアコンを見上げた。
そこにある。
壁にしっかり取り付けられている。
リモコンまで置かれている。
それなのに、使えない。
修理もしてもらえない。
部屋にエアコンが「ある」ことと、エアコンが「使える」ことは違う。
私はその夜、初めてそれを知った。
不動産会社へ電話すると、担当者は困ったような声を出した。
「確認してみます」
しばらく待たされたあと、担当者は戻ってきた。
「貸主さんのお話では、エアコンは残置物という扱いだそうです」
「内見のとき、そんな説明はありませんでした」
「申し訳ありません。設備表には……」
担当者が何か書類をめくる音がした。
「エアコンについて、設備としての記載がないようです」
「設備として書いていなければ、壊れていてもいいんですか」
「残置物の場合、基本的には修理の対象外とされることがあります」
「壊れていると分かっていたんですよね」
「そこまでは、こちらでも把握していませんでした」
誰に話しても、責任の行き先が見つからなかった。
大家は不動産会社へ。
不動産会社は契約書へ。
契約書は、確認しなかった私へ。
結局、寒い部屋に残されたのは私一人だった。
私はすぐに近くのホームセンターへ向かった。
電気ヒーターでも、石油ファンヒーターでもいい。
とにかく部屋を暖めるものが必要だった。
しかし、暖房器具の売り場には、空いた棚が並んでいた。
店員に尋ねると、申し訳なさそうに首を振った。
「この寒さで、ほとんど売り切れてしまいまして」
「入荷はいつですか」
「次回は未定ですね」
その冬、関東では強い寒波が続いていた。
暖房器具を求めていたのは、私だけではなかった。
別の家電量販店へ行った。
そこでも、小型ヒーターは売り切れだった。
残っていたのは、広い部屋用の高価な機種か、持ち帰るのが難しい大型商品ばかりだった。
私はインターネットでも探した。
だが、手頃な商品は在庫切れ。
すぐに届くと表示された商品は、通常より明らかに高い値段が付けられていた。
「こんなにするのか……」
引っ越しには、すでに多額の費用がかかっていた。
敷金。
礼金。
仲介手数料。
引っ越し業者。
新しいカーテンや寝具。
給料日まで、自由に使える金はそれほど残っていなかった。
私は注文ボタンを押せなかった。
その夜から、暖房のない生活が始まった。
持っていた毛布を二枚重ねた。
厚手の靴下を履いた。
コートを着たまま布団へ入った。
コンビニで使い捨てカイロを買い、腹と背中に貼った。
湯たんぽも買った。
だが、どれも一時的に身体を温めるだけだった。
部屋そのものは、冷え切ったままだった。
窓の隙間から、冷たい空気が入ってくる。
カーテンがわずかに揺れる。
玄関のドアの下からも、細い冷気が流れ込んでいた。
築四十年の建物は、外の寒さを防いでくれなかった。
布団の中で身体を丸める。
足先が冷たい。
指先が痛い。
湯たんぽに触れている場所だけは暖かいが、少し離れるとすぐに冷える。
夜中に何度も目が覚めた。
目を開けると、部屋の暗さと寒さが同時に迫ってきた。
眠ろうとしても、身体が震えた。
歯が小さく鳴った。
朝が来るころには、ほとんど眠った気がしなかった。
布団から出るのも苦痛だった。
冷たい服へ着替える。
氷水のような水で顔を洗う。
シャワーを浴びても、浴室から出た瞬間に身体が冷える。
私は会社へ行くためだけに、自分を無理やり動かした。
東京支社での仕事は、福岡にいたころより忙しかった。
扱う案件も多く、会議の回数も増えた。
新しい職場で早く結果を出したかった。
転勤を命じられたときは、そのつもりだった。
だが、頭が働かなかった。
資料の数字を写し間違えた。
メールの宛先を間違えそうになった。
会議の時間を一時間勘違いした。
上司から頼まれた書類を、期限までに提出できなかった。
「どうしたんだ。福岡ではもっと仕事ができると聞いていたぞ」
上司の言葉が胸に刺さった。
「申し訳ありません」
「環境が変わって大変なのは分かる。でも、仕事には関係ないからな」
その通りだった。
会社にとって、私の部屋が寒いことなど関係ない。
エアコンが壊れていることも。
大家に修理を断られたことも。
毎晩震えながら眠っていることも。
すべて私生活の問題だった。
昼休み、同僚たちは私から少し離れた場所で話していた。
「またミスしたらしいよ」
「転勤してきたばかりだからじゃない?」
「でも、あれはちょっと多すぎない?」
聞こえないふりをした。
弁当の味は、ほとんど分からなかった。
会社は暖かかった。
暖房の風が天井から流れている。
私は仕事が終わっても、すぐに帰りたくなかった。
会社にいれば寒くない。
終電近くまで残業した日さえあった。
だが、どれだけ遅くなっても、最後にはあの部屋へ戻らなければならない。
玄関を開けると、冷たい空気が私を迎えた。
部屋ではなく、大きな冷蔵庫の中へ帰ってきたようだった。
春が近づくころ、私は動かないエアコンを見上げた。
冬の間、一度も風を出さなかった古い機械。
今では、見るたびに怒りが湧くことはなくなった。
苦い思い出ではある。
だが、あの経験がなければ、次に部屋を借りるときも、同じように外見だけを見て決めていたかもしれない。
次に引っ越すなら、内見時にはエアコンを実際に動かす。
冷房だけではなく、暖房も確認する。
異音や臭いがないか確かめる。
製造年を見る。
設備表を読む。
契約書と重要事項説明書に、どのような記載があるのか質問する。
「これは設備ですか。それとも残置物ですか」
その一言を、必ず尋ねるだろう。
分からない言葉があれば、そのままにしない。
急いでいるときほど、確認する。
入居日まで時間がないからといって、生活に必要な設備を曖昧にしてはいけない。
部屋を借りるということは、空間だけを借りることではない。
そこで眠り、食事をし、体調を整え、翌日の仕事へ向かう。
住まいは、生活すべての土台になる。
暖房一つが壊れているだけで、睡眠が崩れる。
睡眠が崩れれば、仕事に影響する。
余裕を失えば、大切な人を傷つけることもある。
あの一か月で、私はそのことを思い知った。
東京での生活にも、少しずつ慣れていった。
近所の安いスーパーを見つけた。
通勤電車で空いている車両も分かるようになった。
会社では話せる同僚が増えた。
週末には、恋人が福岡から遊びに来た。
彼女は部屋へ入るなり、窓の上のエアコンを指さした。
「これが、例の壊れたエアコン?」
「そう。東京生活を一度終わらせかけたやつ」
「本当に動かないの?」
「やってみる?」
二人でリモコンを押した。
ピッ。
音だけがして、本体は沈黙したままだった。
彼女はしばらくエアコンを見つめ、それから笑った。
「設備じゃありません、って顔してるね」
「どんな顔だよ」
私も笑った。
あの冬、笑う余裕などなかった。
だが今では、あの出来事を笑って話せる。
部屋の隅では、小さな電気ヒーターが置かれていた。
もう使う季節ではなかったが、私はすぐに片づける気になれなかった。
それは暖房器具というだけではない。
あの一か月を乗り越えた証しのように思えた。
部屋にエアコンがあるからといって、使えるとは限らない。
使えたとしても、故障したときに直してもらえるとは限らない。
物件広告の写真だけでは、それは分からない。
契約書の小さな文字の中に、生活を左右する重要な違いが隠れていることがある。
設備か。
残置物か。
ほんの一言の違いに見える。
しかし、その違いによって、真冬の暮らしが大きく変わることもある。
私があの冬に失いかけたのは、快適さだけではなかった。
仕事への自信。
恋人との関係。
東京で新しい人生を始めようとした気持ち。
それらすべてが、寒さの中で少しずつ凍りついていった。
そして、小さなヒーターの熱によって、私はようやく生活を取り戻した。
今でも暖房を入れるたびに思う。
暖かい部屋で眠れることは、当たり前ではない。
安心して暮らすためには、契約前に確かめなければならないことがある。
内見した部屋に何が置いてあるのか。
それは本当に使えるのか。
壊れたとき、誰が直すのか。
新しい部屋の鍵を受け取る前に、それを知っておくべきだった。
あの冬の私は、知らなかった。
だから今度は、必ず確認する。
「このエアコンは、設備ですか」
あの日、大家から言われた言葉を、もう二度と聞かなくて済むように。




