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『引っ越したら、人生が変わりました。』住んで初めてわかった、部屋と人生のリアル  作者: 虫松


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第1話 リアル隣の生活音、全部聞こえます。壁が薄い部屋に住んだ半年間

テレビの音も、話し声も、ドアの音も。


聞こえているということは、こちらの音も聞かれている。


そのことに気づいた瞬間から、あの部屋は、私の家ではなくなった。


 


二十数年前。


初めて一人暮らしをすることになった私は、仕事から帰るたびに、分厚い住宅情報誌を開いていた。


今のように、スマートフォンで簡単に部屋を探せる時代ではない。


それでもインターネットは少しずつ普及し始めていて、私は慣れないパソコンを使いながら、新しい住まいを探した。


職場まで電車で三十分。


駅から徒歩十分以内。


家具付き。


家賃はできるだけ安く。


条件を入力すると、すぐに一件の物件が表示された。


白い壁。


明るいフローリング。


小さな机とベッド。


部屋の隅には冷蔵庫まで置いてある。


写真で見る限り、清潔で、初めての一人暮らしには申し分のない部屋だった。


「ここなら、すぐに生活を始められるな」


私はそう思った。


家賃も手頃だった。


敷金や礼金の負担も少ない。


仕事の開始日が迫っていたこともあり、ほかの物件とじっくり比較する余裕はなかった。


内見へ行った日のことは、今でも覚えている。


案内してくれた担当者は、部屋の中央に立つと、明るい声で説明を始めた。


「家具も家電も付いていますから、荷物が少なくて済みますよ」


私は部屋を見回した。


写真で見たとおりだった。


少し狭い。


だが、一人なら十分だ。


窓の外には隣の建物が見えた。


日当たりはそれほどよくない。


それでも、家賃を考えれば仕方がないと思った。


壁を確認するという発想はなかった。


床に音が響くかどうかも気にしなかった。


昼間の部屋は静かだった。


隣人は仕事か学校へ出かけていたのかもしれない。


「ここに決めます」


私は、ほとんど迷わずに答えた。


 


引っ越し当日。


段ボールを片づけ、机の上にテレビを置き、ベッドに新しいシーツを敷いた。


自分だけの部屋。


誰にも気を使わなくていい生活。


実家では家族の都合に合わせていた。


テレビのチャンネルも、風呂の時間も、食事の時間も。


これからは、すべて自分で決められる。


私はコンビニで弁当と缶ビールを買い、小さなテレビの前に座った。


「今日からここが、俺の城だ」


少し照れながら、誰もいない部屋でそう言った。


その直後だった。


壁の向こうから、笑い声が聞こえた。


私はテレビの音量を下げた。


若い男性の声だった。


何を言っているのかまでは分からない。


だが、誰かと電話をしているらしい。


続いて、相手の笑い声。


その声は、壁を隔てているとは思えないほど近かった。


私はしばらく耳を澄ませた。


隣の部屋に人がいる。


ただ、それだけのことだ。


集合住宅なのだから、多少の生活音は仕方がない。


私はそう自分に言い聞かせ、テレビの音量を元に戻した。


すると今度は、別の音が聞こえた。


隣人が見ているテレビの音だった。


ドラマらしい。


俳優の台詞のあと、観客の笑い声が流れる。


こちらのテレビと隣のテレビが混ざり合い、何を聞いているのか分からなくなった。


「ずいぶん大きな音で見ているんだな」


最初は、隣人の音量が大きいのだと思った。


しかし、その考えは翌朝には変わった。


目覚まし時計が鳴る前に、隣の部屋から物音がした。


布団をめくる音。


床を歩く音。


引き出しを開ける音。


咳払い。


水道の蛇口をひねる音まで聞こえた。


隣人が何時に起き、どの順番で支度をしているのかが分かってしまう。


壁の向こうにいる人間の生活が、音だけで手に取るように伝わってきた。


それから数日で、私は理解した。


隣人が特別うるさいのではない。


この部屋は、壁が薄いのだ。


 


音は、昼も夜も関係なく聞こえてきた。


テレビ。


電話。


足音。


ドアを閉める音。


物を床に落とす音。


何かを引きずる音。


時には、ため息まで聞こえた。


隣人が笑えば、笑っていると分かった。


怒っていれば、声の調子で分かった。


夜中に帰宅すれば、鍵を差し込む音で目が覚めた。


乱暴にドアが閉まるたび、部屋の壁がわずかに震えた。


ドンッ。


その音がするたび、心臓まで同時に跳ねた。


私は耳栓を買った。


薬局で一番遮音性が高いと書かれたものを選んだ。


寝る前に両耳へ押し込み、布団を頭までかぶった。


それでも音は消えなかった。


高い音は多少遠くなったが、床や壁を伝ってくる振動は身体に届いた。


足音が響く。


ドアが閉まる。


何かが落ちる。


音そのものではなく、衝撃が部屋全体を揺らしていた。


眠れない夜が増えた。


朝起きると、頭が重い。


身体がだるい。


職場では小さなミスが増えた。


書類の日付を間違える。


電話の伝言を忘れる。


上司から説明を受けても、内容が頭に入ってこない。


「最近、疲れてるのか?」


先輩に聞かれた。


「ちょっと寝不足で」


そう答えると、先輩は笑った。


「一人暮らしを始めたばかりだから、遊びすぎなんじゃないか?」


私は曖昧に笑った。


まさか、隣人のテレビの音で眠れないとは言えなかった。


神経質な人間だと思われる気がした。


 


週末には、別の苦痛が待っていた。


土曜日の朝。


ようやくゆっくり眠れると思っていたところへ、インターホンが鳴った。


ピンポーン。


時計を見ると、まだ午前八時を過ぎたばかりだった。


私は布団の中で息を潜めた。


ピンポーン。


もう一度鳴る。


しばらくすると、玄関の向こうから声がした。


「新聞のご案内でーす」


私は新聞を取るつもりはなかった。


出れば、断るのに時間がかかる。


居留守を使うことにした。


だが、そこで問題に気づいた。


テレビがついている。


小さな音量ではあったが、玄関の外まで聞こえているかもしれない。


私は慌ててリモコンをつかみ、テレビを消した。


その操作音さえ外へ漏れた気がした。


新聞の勧誘員は帰らない。


再びインターホンが鳴る。


私は身動きできなかった。


トイレにも行けない。


水も飲めない。


床がきしめば、在宅していると知られるかもしれない。


くしゃみが出そうになり、慌てて布団を口に押し当てた。


自分の部屋なのに、私は侵入者から隠れているようだった。


数分後、ようやく足音が遠ざかった。


私は大きく息を吐いた。


そのとき、隣の部屋から男性の声が聞こえた。


「また新聞かよ」


私は凍りついた。


隣人にも、すべて聞こえていた。


インターホンの音。


勧誘員の声。


私が応対しなかったこと。


もしかすると、テレビを慌てて消したことまで。


その日から、私は自分が立てる音を意識するようになった。


テレビの音量は小さくした。


電話では声を落とした。


夜中にはトイレを流すことさえためらった。


床を歩くときは、つま先から静かに足を下ろした。


くしゃみをするときは布団をかぶった。


友人を部屋へ呼ぶこともできなかった。


話し声が隣に筒抜けになる。


何を話したのか知られる。


笑い声をうるさいと思われる。


そう考えると、誰かを招く気にはなれなかった。


一人で自由に暮らすために借りた部屋で、私は以前よりも周囲へ気を使っていた。


 


ある夜、仕事から帰り、電気をつけずにベッドへ座った。


隣の部屋から、楽しそうな笑い声が聞こえていた。


テレビの音。


缶を開ける音。


電話の相手と話す声。


私には、隣人の生活が分かる。


そして隣人にも、私の生活が分かっている。


何時に帰宅したのか。


何時に風呂へ入ったのか。


テレビで何を見ているのか。


電話で誰と話しているのか。


一人でいるのか。


誰かが来ているのか。


そう考えた瞬間、急に部屋が狭く感じられた。


壁がこちらへ迫ってくるようだった。


私は両耳をふさいだ。


それでも音は聞こえた。


壁から。


床から。


天井から。


音が部屋全体に染み込み、逃げ場をなくしていく。


「帰りたくない」


いつの間にか、私はそう思うようになっていた。


仕事が終わっても、すぐには部屋へ戻らなかった。


意味もなく駅前の本屋を歩いた。


ファミリーレストランでコーヒー一杯を何時間もかけて飲んだ。


公園のベンチで時間をつぶしたこともある。


だが、どれだけ遅くなっても、最後にはあの部屋へ帰らなければならない。


玄関の鍵を開けるたびに、気持ちが沈んだ。


自分の部屋なのに、休まらない。


自由に話せない。


自由に笑えない。


自由にテレビも見られない。


壁が薄い部屋で失ったのは、睡眠だけではなかった。


誰にも邪魔されずに過ごせるはずの、自分の居場所そのものだった。


 


入居から半年後。


私は不動産会社を訪れた。


担当者に希望を聞かれ、真っ先に答えた。


「音が響きにくい部屋を探しています」


以前なら、駅からの距離や家賃を最優先にしていただろう。


だが今回は違った。


建物の構造。


築年数。


隣の部屋との間取り。


周辺の道路。


共用廊下や階段の位置。


私は一つずつ確認した。


内見では壁を軽く叩いた。


コンコンと高く軽い音がする壁は避けた。


部屋の中を歩き、床に音が響かないかを確かめた。


不動産会社の担当者に廊下を歩いてもらい、足音がどれくらい室内へ聞こえるのかも試した。


窓を閉め、外の車の音を確認した。


以前の私なら、そこまで細かく調べなかった。


写真がきれいで、家賃が安ければ、それで十分だと思っていた。


しかし、部屋は眠るだけの箱ではない。


疲れて帰り、心と身体を休める場所だ。


他人の音に怯えず、自分の音にも怯えずに過ごせること。


それは、広さや新しさと同じくらい大切な条件だった。


新しい部屋へ引っ越した夜。


私はテレビをつけた。


音量を少し上げた。


壁の向こうからは、何も聞こえない。


試しに咳払いをしてみた。


もちろん、誰からも反応はなかった。


私はベッドに横になった。


部屋の中は静かだった。


静かすぎて、最初は落ち着かなかった。


やがて、自分の呼吸だけが聞こえてきた。


その夜、私は半年ぶりに、朝まで一度も目を覚まさずに眠った。


 


壁の薄さは、間取り図には書かれていない。


物件写真にも写らない。


昼間の短い内見だけでは、分からないこともある。


だからこそ、確かめなければならない。


壁を叩く。


床を歩く。


廊下の音を聞く。


建物の構造や築年数を確認する。


可能なら、生活音が増える夕方や休日にも周辺を見てみる。


あの半年間は、決して楽しい思い出ではない。


けれど、あの部屋に住まなければ、私は住まいにとって何が大切なのかを知らないままだっただろう。


家賃が安いこと。


写真がきれいなこと。


家具が付いていること。


それだけでは、快適な部屋とは言えない。


安心して眠れること。


自分らしく過ごせること。


自分の生活を、誰かに聞かれていると怯えなくていいこと。


それこそが、私にとっての「住みやすい部屋」だった。


もう、壁の向こうの生活を聞きながら眠ることはない。


そして私の生活も、誰かに聞かれることはない。


静かな部屋の中で、私はようやく、自分だけの暮らしを始めることができた。

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