第11話 18歳、福岡から東京へ。美容師になるために初めて一人暮らしを始めた話
十八歳の春。
私は、生まれ育った福岡を離れて東京へ行くことになった。
理由は一つだった。
美容師になりたかったからだ。
高校を卒業する少し前、東京の美容室への就職が決まった。場所は恵比寿。雑誌やテレビで何度も見たことのある街だった。
「恵比寿で働くんだ」
友達にそう話すと、
「すごいじゃん!」
「東京とか絶対おしゃれ!」
と羨ましがられた。
私も最初は浮かれていた。
けれど、就職先が決まったあと、すぐに現実的な問題が出てきた。
住む場所がない。
会社の寮はない。
部屋は自分で探さなければならなかった。
人生で初めての一人暮らし。
しかも、知らない東京である。
美容師になる期待よりも、いつの間にか部屋探しへの不安のほうが大きくなっていた。
私は福岡の自宅で、毎晩のようにパソコンを開いた。
不動産会社のホワイトホームのホームページを見ながら、希望条件を入力していく。
家賃七万円以下。
ワンルーム。
エアコン付き。
バス・トイレ別。
そして、できれば恵比寿の美容室から近い場所。
検索ボタンを押した。
「おお、いっぱいある!」
最初は安心した。
画面には、きれいな部屋の写真が並んでいる。
白い壁。
明るいフローリング。
おしゃれなキッチン。
窓から差し込む光。
「東京でも七万円くらいで住めるじゃん」
私は簡単に考えていた。
ところが、物件の詳細を一つずつ見ていくと事情が違ってきた。
駅から徒歩二十分。
築年数がかなり古い。
洗濯機置き場が外。
ユニットバス。
美容室まで電車を何度も乗り換える。
希望条件を全部満たす部屋は、ほとんどなかった。
「東京ってこんなに難しいの?」
家賃を上げれば部屋は増える。
けれど十八歳で働き始める私に、高い家賃を払い続ける余裕はない。
給料から家賃。
水道光熱費。
携帯代。
食費。
交通費。
さらに美容師は、仕事で使う道具や練習用のウィッグを買うこともある。
家賃だけにお金を使うわけにはいかなかった。
私はようやく、
「住みたい部屋」と「住める部屋」は違う
ということを知った。
もう一つ、大きな問題があった。
内見である。
写真だけで決めるのは怖かった。
ネットでは広く見えても、実際に行けば驚くほど狭いことがある。
明るく加工された写真でも、現地では一日中薄暗いこともある。
駅から徒歩十分と書いてあっても、信号や坂道を考えればもっと時間がかかるかもしれない。
私はホワイトホームへ電話した。
「すみません。福岡に住んでいるんですけど、東京で部屋を探したくて……」
担当してくれた営業マンは、私の話を丁寧に聞いてくれた。
「東京へ来られる日はありますか?」
「一日だけなら」
「では、その日にできるだけまとめて見ましょう」
その言葉を聞いて、少し安心した。
希望条件も改めて伝えた。
恵比寿まで通いやすいこと。
家賃七万円以下。
できればバス・トイレ別。
エアコン付き。
十八歳で初めての一人暮らしなので、安全面も気になること。
担当者は言った。
「全部かなえるのは難しいかもしれません。でも、優先順位を決めれば探せますよ」
優先順位。
その言葉は、その後の部屋探しでとても重要になった。
私は考えた。
一番大事なのは、仕事へ無理なく通えること。
次が家賃。
その次が安全性。
設備については、ある程度妥協する。
それで候補を絞ってもらった。
初めての東京
内見の前日。
私は大きなバッグを持って福岡を出発した。
新幹線に乗るのも、一人で東京へ行くのも初めてだった。
窓の外を流れる景色を眺めながら、何度も思った。
「本当に東京で暮らすんだ」
途中で見えた富士山に感動した。
東京へ近づくにつれ、建物が増えていく。
駅へ着くと、今度は人の多さに驚いた。
「みんな歩くの速い……」
大きな荷物をコインロッカーへ入れ、私は恵比寿へ向かった。
駅を出ると、見たことのない店が並んでいる。
カフェ。
レストラン。
美容室。
しゃれた服を着た人たち。
これから毎日、この街で働く。
そう思うと、緊張した。
美容室へ行くと、オーナーが迎えてくれた。
「遠かったでしょ。よく来たね」
「はい!」
私は緊張して必要以上に大きな声で返事をした。
店内を案内してもらった。
鏡が何台も並び、スタッフが忙しく動いている。
ドライヤーの音。
シャンプーの香り。
楽しそうに話すお客さん。
私は思った。
ここで美容師になるんだ。
不安だった気持ちが、その瞬間だけ少し消えた。
翌朝。
不動産屋さんの担当者と待ち合わせをした。
車に乗り、候補の物件を回る。
最初の部屋。
玄関を開けた瞬間、私は思った。
「……狭い」
もちろん口には出さなかった。
写真ではもっと広く見えていた。
窓を開けても、目の前には隣の建物の壁。
昼なのに室内は薄暗かった。
私は持ってきたメジャーで部屋を測った。
ベッドを置く。
小さなテーブルを置く。
美容師の練習用ウィッグを置く。
想像すると、ほとんど歩く場所が残らない。
担当者が聞いた。
「どうですか?」
「……次も見たいです」
二軒目。
こちらは明るかった。
窓も大きい。
収納もある。
お風呂とトイレも別。
「ここ、いい!」
と思った。
しかし家賃を見る。
「七万八千円……」
八千円くらいなら、と一瞬考えた。
でも一年なら九万六千円。
更新や初期費用まで考えれば負担はさらに増える。
私は迷った末に断った。
十八歳の私にとって、その判断はかなり勇気が必要だった。
三軒目。
正直、私は少し疲れていた。
「これでダメならどうしよう」
そんなことを考えながら玄関へ入った。
すると、意外だった。
派手ではない。
新築でもない。
けれど、きれいだった。
窓から光が入っている。
エアコンもある。
収納も十分。
バスとトイレも別だった。
私は部屋の中央に立った。
「ここ、好きかも」
駅からも遠すぎない。
そして何より、美容室まで自転車なら十分ほどだった。
「自転車で行けるんですか?」
「十分もかからないと思いますよ」
私は窓を開けた。
風が入ってきた。
周囲の音を聞く。
道路の騒音も、それほど気にならない。
コンセントの位置を見る。
洗濯機置き場。
収納。
玄関。
インターフォン。
ベランダ。
スマートフォンで写真も撮った。
さらに駅までの道も実際に確認した。
担当者が聞いた。
「どうします?」
私はほとんど迷わなかった。
「ここにします」
初めて、自分で選んだ家だった。
契約の説明は、聞き慣れない言葉ばかりだった。
敷金。
礼金。
保証会社。
火災保険。
更新料。
原状回復。
私は分からないたびに質問した。
担当者も一つずつ説明してくれた。
「分からないままサインしないでくださいね」
その言葉がありがたかった。
初期費用も何とか予算内に収まった。
そして鍵を受け取った。
小さな金属の鍵だった。
けれど私には、特別なものに見えた。
十八年間住んだ福岡の実家ではない。
自分のお金で借り、自分で暮らす部屋。
扉を開ける。
誰もいない。
家具もない。
静かなワンルーム。
私は部屋の真ん中に座った。
「今日からここが家なんだ」
嬉しい。
でも少し怖い。
その二つの感情が同時にあった。
引っ越しが終わると、私は荷物を少しずつ片づけた。
服。
食器。
ドライヤー。
美容師の道具。
そして最後に取り出したのが、友達からもらった壁掛け時計だった。
福岡を離れるとき、
「東京で寂しくなったら、これ見て思い出して」
と言われたものだった。
壁に掛ける。
カチ、カチ、カチ。
小さな部屋に時計の音が響いた。
急に福岡が恋しくなった。
家族。
友達。
知っている道。
いつもの店。
全部が遠い。
その夜は、少し泣いた。
東京へ来たことを後悔したわけではない。
ただ、自分が本当に一人になったのだと初めて実感した。
数日後。
美容室での仕事が始まった。
最初は掃除。
タオル。
シャンプー台の片づけ。
道具の準備。
先輩の補助。
華やかな仕事ばかりではなかった。
営業が終わったあとも練習した。
夜遅く、自転車で家へ帰る。
疲れている。
足も痛い。
それでも自分の部屋の明かりをつけると、少し安心した。
壁掛け時計を見る。
「今日も終わった」
そうつぶやく。
次の日も仕事。
また練習。
失敗する。
注意される。
落ち込む。
それでも少しずつ、できることが増えていった。
お客さんから、
「ありがとう」
と言われた日は、帰り道がいつもより短く感じた。
東京へ来る前、私は部屋探しを簡単に考えていた。
家賃。
広さ。
駅からの距離。
それだけ比べればいいと思っていた。
でも実際には違った。
駅まで本当に何分かかるのか。
夜道は明るいか。
玄関の鍵はどうなっているか。
インターフォンはあるか。
窓から中が見えないか。
コンセントは使いやすい場所にあるか。
収納は足りるか。
エアコンはきちんと動くか。
窓を開けたときの音や匂いはどうか。
そして、自分が毎日そこで暮らしている姿を想像できるか。
内見では、ただ部屋を見るのではなく、
そこで始まる生活を見る必要がある。
私は東京へ来て、それを知った。
ある朝。
私は美容師の道具をバッグへ入れ、自転車を玄関から出した。
春の風が吹いていた。
福岡から持ってきた時計は、部屋の中で今日も時を刻んでいる。
十八歳。
知らない東京。
小さなワンルーム。
そして美容師という大きな夢。
完璧な部屋ではない。
もっと広い部屋もある。
もっと新しい部屋もある。
もっとおしゃれな街にも住めるだろう。
でも、この部屋は私が自分で選んだ最初の家だった。
私は鍵をかけ、自転車へ乗った。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かって言う。
そして恵比寿の美容室へ向かった。
東京へ引っ越したことで、夢が叶ったわけではない。
夢を叶える生活が、ようやく始まったのだ。




