第12話 安い引っ越し業者に頼んだら、結局いちばん高くついた話
春。
東京の桜が散り始めた頃、私は会社から大阪への転勤を命じられた。
異動そのものには、それほど驚かなかった。
いつかはあるだろうと思っていたし、大阪での仕事にも少し興味があった。
問題は、引っ越し費用だった。
「今回は自己負担になります」
人事からそう言われた瞬間、私は一気に現実へ引き戻された。
東京から大阪。
家具も家電もある。
荷物もそれなりに多い。
普通に頼めば、それなりの金額になる。
私はその日の夜から、スマートフォンで引っ越し業者を探し始めた。
「なるべく安く……なるべく安く……」
検索結果にはたくさんの会社が出てきた。
有名な大手。
地域密着型。
単身引っ越し専門。
格安を売りにした会社。
いくつか見積もりを見ているうちに、ある業者の広告が目に入った。
東京から大阪まで、一律五万円。
私は思わず画面を二度見した。
「五万円?」
ほかの会社より明らかに安かった。
荷物量や距離によって追加費用がかかる業者が多いなか、その会社は、
「基本料金一律五万円」
と大きく表示していた。
「これだ」
私はほとんど迷わず予約した。
今思えば、そのとき私は料金しか見ていなかった。
会社名も聞いたことがなかった。
口コミもほとんど読まなかった。
保険のことも、追加料金のことも、キャンセル規定も確認しなかった。
ただ、
安い。
それだけで決めてしまった。
引っ越し当日。
予定では午前九時にトラックが来ることになっていた。
私は朝七時から準備をしていた。
冷蔵庫の中を空にし、最後の段ボールを閉じ、部屋を掃除する。
九時。
来ない。
九時半。
まだ来ない。
十時。
電話をかける。
出ない。
「大丈夫かな……」
不安になって何度も時計を見る。
十一時少し前。
ようやく外からトラックの音がした。
予定より約二時間遅れだった。
運転席から男性が降りてくる。
私は玄関から出て、
「すみません、九時の予定でしたよね?」
と聞いた。
男性は悪びれる様子もなく、
「今日は忙しいんで」
と言った。
「え?」
「前の現場が押したんですよ。こういう日もありますから」
謝罪はなかった。
その時点で少し嫌な予感がした。
けれど、もう今日引っ越さなければならない。
大阪では新しい部屋の鍵も受け取っている。
業者を変えることなどできなかった。
「お願いします」
私はそう言うしかなかった。
作業が始まった。
私は段ボールに、
「食器」
「ワレモノ」
と大きく書いていた。
それなのに。
ガシャ。
ドン。
ゴトン。
荷物を運ぶたびに、不安になる音がする。
食器の箱を二つ重ね、その上に重い箱を置く。
家具の角を壁にぶつける。
椅子を引きずる。
「すみません、それ食器なので、もう少し気をつけてもらえますか?」
私は我慢できずに言った。
作業員は箱を持ったまま答えた。
「大丈夫ですよ」
「でも今、かなり音が……」
「ちゃんと積んでますから」
その言い方は、私を安心させるものではなかった。
むしろ、
早く終わらせたい。
そんな雰囲気だった。
私は自分で運べる小さな荷物だけは、新幹線で持っていくことにした。
財布。
パソコン。
重要書類。
そして、思い出の写真。
これだけは絶対に預けたくなかった。
トラックが出発したあと、私も新幹線で大阪へ向かった。
移動中は少し安心していた。
「まあ、安いんだから多少は仕方ないか」
そう自分に言い聞かせていた。
午後。
私は大阪の新居に到着した。
部屋には何もない。
カーテンもない。
椅子もない。
私は床に座り、トラックを待った。
夕方五時。
来ない。
六時。
まだ来ない。
さすがに心配になって電話をした。
運転手が出た。
「今、どの辺ですか?」
返ってきた言葉に耳を疑った。
「まだ東京です」
「……え?」
「渋滞にはまってて」
私は立ち上がった。
「東京?」
朝十一時過ぎに出発して、夕方六時にまだ東京?
いくらなんでもおかしい。
「そんなに渋滞してるんですか?」
「今日はひどいですね」
電話を切ったあと、私はスマートフォンで道路情報を調べた。
大きな渋滞表示は見当たらない。
少なくとも、何時間も東京から出られないような状況には見えなかった。
「……嘘じゃないか?」
でも荷物は向こうが持っている。
強く言うこともできない。
私は何もない部屋で待った。
コンビニでおにぎりを買い、床に座って食べた。
照明だけが妙に明るかった。
トラックが新居へ到着したのは、夜十時だった。
私はもう疲れ切っていた。
「やっと来た……」
しかし安心したのも束の間だった。
荷物を運び込むたびに、おかしなものが見つかった。
テーブルの角がへこんでいる。
棚に新しい傷がついている。
段ボールの一部が潰れている。
そして、
「ワレモノ」
と書いた箱から嫌な音がした。
カラカラ。
私は箱を開けた。
お気に入りだった皿が割れていた。
グラスも一つ割れている。
「ちょっと待ってください」
私は作業員を呼び止めた。
「これ、割れてます」
男性は箱の中をちらっと見た。
「そうですか」
「そうですかって……」
「荷物の中身については保証してないんで」
「保証してない?」
初めて聞いた話だった。
私は予約したとき、そんな説明を受けた記憶がない。
「家具もへこんでますよ」
「運んでれば多少はありますよ」
その一言で、積もっていた怒りが一気に膨らんだ。
「多少ってレベルじゃないでしょう」
すると男性は、面倒そうな顔をした。
「じゃあ会社に言ってください」
その対応にも腹が立った。
しかし、さらに驚くことが待っていた。
荷物をすべて降ろしたあと。
作業員が伝票を持ってきた。
「追加料金、五万円になります」
「……はい?」
私は聞き間違えたと思った。
「高速代とガソリン代です」
「いやいや、ちょっと待ってください」
私は予約画面を思い出した。
東京から大阪まで一律五万円。
それを見て契約したのだ。
「一律五万円ですよね?」
「基本料金が五万円です」
「高速代とか別なんですか?」
「別です」
「そんな説明、聞いてません」
「規約にありますから」
私はスマートフォンで予約メールを確認した。
細かい文字。
いくつもの注意事項。
確かに、分かりにくい場所に追加費用についての記載があった。
ただ、広告の大きな文字だけを見ていた私は、そこまで確認していなかった。
「でも、だったら最初から十万円近くかかるって説明してくれれば……」
男性は肩をすくめた。
「僕に言われても困ります」
私は言葉を失った。
五万円で済ませるつもりだった引っ越しが、十万円。
しかも食器は割れ、家具も傷ついている。
安く済ませるどころか、最悪の結果だった。
その夜。
荷物だらけの部屋で、私は割れた皿を見つめていた。
皿自体は高級品ではない。
家具だって、新しいものではない。
それでも腹が立った。
金額だけではなかった。
時間を守らない。
説明をしない。
荷物を雑に扱う。
聞けば面倒そうな態度を取る。
そして最後に追加料金。
私は自分にも腹が立っていた。
「なんでちゃんと調べなかったんだろう」
五万円。
その数字に飛びついた。
複数社から見積もりを取ればよかった。
料金に何が含まれているのか確認すればよかった。
荷物の補償について聞けばよかった。
口コミも見ればよかった。
見積書を細かく読めばよかった。
安さだけを基準にした結果だった。
その経験以来、私は引っ越し業者を選ぶときの考え方が大きく変わった。
まず、一社だけで決めない。
必ず複数社から見積もりを取る。
安いか高いかではなく、
その料金に何が含まれているのか。
そこを見る。
高速料金。
資材代。
階段作業。
大型家具。
洗濯機の取り外し・設置。
時間指定。
段ボールの回収。
荷物の補償。
追加料金が発生する条件。
そして、見積書は必ず残す。
口頭だけの説明を信用しすぎない。
口コミも参考にする。
もちろん口コミが全部正しいとは限らない。
それでも、
「時間に遅れることが多い」
「追加料金を請求された」
「荷物の扱いが雑だった」
そんな書き込みが何件も続いているなら、考え直す材料にはなる。
名前を聞いたことがある会社だから絶対安心、というわけでもない。
逆に、安い業者がすべて悪いわけでもない。
大切なのは、
値段とサービス内容をセットで比較すること。
それを、私は身をもって知った。
数週間後。
大阪の部屋もようやく片づいた。
へこんだ家具は、そのまま使うことにした。
割れた皿は処分した。
東京で使っていた生活用品が、新しい大阪の部屋に収まっていく。
少しずつ、ここが自分の家になっていった。
ある日、傷のついたテーブルを見ながら、私は苦笑した。
「授業料だと思うしかないか」
五万円を節約しようとした。
その結果、さらに五万円を払い、大切な荷物まで傷ついた。
安いものを選ぶことと、得をすることは同じではない。
そのことを、私はこの引っ越しで嫌というほど学んだ。
引っ越しは、ただ物を運ぶ作業ではない。
自分の生活そのものを、別の場所へ運んでもらうことだ。
だからこそ、
料金だけではなく、その生活を安心して任せられる相手かどうかを見る必要がある。
もし、あの日の自分に一言だけ伝えられるなら、私はこう言う。
「一番安いからって、すぐ予約するな」
「あと二社くらい、ちゃんと見積もりを取れ」
そして、もう一つ。
安さには理由があることもある。
東京から大阪への引っ越しで、私はそれを忘れられない形で学んだ。
人生で一番安く済ませるつもりだった引っ越しは、
結果として、
人生で一番高くついた引っ越しになった。




