Chat.7『スープとタルトと2つの幸せ』/Side「LysBonheur」
「あ、おかえり。早かったね?」
玄関を開けて最初に感じたのはトマトベースのスープの香り。
そして少し驚いたような表情を浮かべた、笑顔が出迎えてくれた。
「ただいま。いや、ちょっとアテが外れちゃってね。もうやってられないって感じ」
「そうなんだ?でも、今日は遅いって言ってたから、まだご飯できてないよ?」
「こんなに良い匂いがしてるのに、まだなの?」
「まだベースを作ってるところだから、ここから鳥肉を煮込むんだよ」
「ええ……もうトマトスープでいいじゃない」
そんな事を言いながら、私はリビングに鞄を放り出し、薄手とは言え暑苦しい上着を脱ぎソファへと脱ぎ散らかした。
「もう、また散らかしてる」
「あー、あとで片付けるから」
「いつもそう言って片付けないよね?」
まぁ、概ねこの子の言うとおりだ。こういう積み重ねが積もり積もって、前の家ではゴミ屋敷寸前にまでなっていた訳だし。
ただこの子と同棲するようになってからは、私も多少は片付けられる女になったと自負している。
だから……まぁ、食欲が満たされたら、脱いだ服ぐらいはハンガーに掛けておこう。
「早く帰ってきたのに、随分とお疲れだね?何かあった?」
「あったというか、無かったというか……」
「どういうこと?」
料理の手を止めて、小首をかしげてこちらを見つめてくる。
柔らかいブラウンの髪に縁取られた、丸みを帯びた顔によく似合った垂れ目は、いつ見ても可愛いと思う。今は思案顔で困り眉になってるけど、そこがまたまらなく愛おしい。
ただ、いつまでも困り顔にさせていると料理の手が止まるから、どう説明したら良いかと頭の中で話を整理しながら、話を続ける。
「うちに届く予定だったプラントが横取りされちゃってね……」
「横取り?山賊とか?」
「いや、ここ都内だからね?山賊とか見たことないでしょ?」
「じゃあ、海賊?」
いや、そもそも都内に出る族なんて……暴走族ぐらい?
いや、地方都市じゃないし、そんなのもいないけど。
「うちの大学の他部署。総合学部っていうとこなんだけどね」
「プラント……って工場だよね?工場の取り合いしてるの?」
専門領域の話なので説明は難しいだろうと思いながらも、私は手短に研究機材として取り寄せていた完全閉鎖型の植物工場モジュールが納入寸前に他学部へかっさらわれたという説明を行った。
けど、この子の表情を見ていると……たぶん半分も理解出来ていないだろうな。
「まぁ、そう言うことで得体の知れない総合学部っていう連中に横取りされたんだ。何に使うつもりなんだか、怪しい謎だらけの部署だよ」
「総合、学部……私、知ってるよ?」
「え?本当に?」
「うん。今日うちのお店に総合学部の人、来たよ」
この子が務めているお店、パティスリー「リスボヌール」は確かに大学の近くにあるから、大学関係者が現れても不思議ではない。
というか私自身が常連で、お店に通っていたことがこの子と付き合う切っ掛け……というより口説かれる切っ掛けになったんだけど。
いや、今はそれより総合学部の話だ。
うちの大学に存在する、全てが謎に包まれた学部。学部構成も所属する学生数も明らかにされていないという異常な組織の事は研究室でも時折話題になっている。
犯罪こそ行っていないが、色々と後ろ暗い事をしているんじゃないかという噂もあるし……。
もし、この子が変な事に巻き込まれた大変だ。
「どんな人が来たの?っていうか、どうして総合学部の人って判ったの?」
「ん?領収書に御門大学の総合学部って書いて欲しいって言われたよ?」
「……経費でケーキを買ってるのか、あの連中……。で、どんな人だった?」
私の言葉に再び料理の手を止め、少し考え込んでから口を開く。
「えっと、高校生ぐらいの年頃の女の子かな。長いワンレンの黒髪をセンター分けにしてて、眼鏡掛けてて……あと、瞳が赤だったよ。スタイルも良くて、まるでモデルさんか!って感じの超美人」
「赤い瞳……もしかして、セーラー服着てた?」
「ううん。カジュアルなパンツルックだったよ。年下だけど、見とれちゃった」
この子の言う特徴を持つ、総合学部の職員……か。
実のところ、私はその人物をキャンパス内で2度ほど見かけたことがある。
附属高校のセーラー服の上から白衣を纏い、高校生的な記号を前面に押し出しながらも大学のキャンパス内を闊歩している異分子。
教授がアンタッチャブルだと明言していたあの赤い瞳の少女は総合学部のスタッフだったのか。
噂では総合学部は帰国子女を集めているとも聞くし、もしかしたら国外で飛び級を繰り返して若くして研究者になった人物なのだろうか?
私自身も1年だけ飛び級したことで、研究室内では同僚共からやっかみとも妬みとも思える視線を向けられていることを思えば……その少女が所属先でどれだけ腫れ物扱いされているのか、容易に想像できる。
「そっか。その子、何か言ってなかった?」
「えっと……婚約指輪!」
「は?」
いつもの事ながらこの子の話題は飛躍がが激しいくて要領を得ない。けど今の話の展開だと……件の少女が身につけていた指輪のことだろうか?
「赤い瞳の子がつけてた指輪?
「そう!綺麗ですね、って言ったら婚約者がくれたんです、って」
「そうか、婚約者がいるのか……」
「すごく愛おしそうに指輪を見てたよ。羨ましいなぁって」
「そうなんだ。さぞかし大事にされてるんだろうね」
「……私も欲しいかな、指輪」
私が赤い瞳の少女の人物像に想いを馳せていると、上目遣いでそんな事を言い出した。
そう言えば私達は一緒に暮らすようにはなったけど、互いを結びつけるシンボリックな物は未だ無かったっけ。
私達の関係は別に物や法律でどうこうされる訳ではないけど……でも、この子がそれを欲するなら私はそれに応えてあげたい。
「……じゃあ、近いうちに指輪見に行こうか。給料の3ヶ月分……だっけ?」
「うん!嬉しい!」
「けど、その前にちょっとお仕置きが必要だよね?」
「え?ええ?なんで!?」
「だって、私以外の女の子に見とれたんでしょ?それ、浮気だよね?」
私の言葉に、目を丸くして硬直する姿をみると……つい意地悪をしたくなってしまう。
「えっと……確かに綺麗な子だったけど、私は貴女のことしか見てないよ?」
「ホントに?」
「ホントだよ!」
「じゃあ、その言葉が本当か、後で確かめさせてね?」
「……うん」
少し顔を赤らめるこの子を見て、満足した私は空腹を訴えた。
そう言えば今日はリスボヌールの新作タルトを買ってきてくれている筈だから、夕食前にそれを出して貰おう。
……と思ったんだけど。
「え……タルト、無いの?」
「ごめん……実はあの女の子が買っちゃって。だからね、今日はケーキを買ってきたんだけど、ダメかな?」
「ダメじゃないけど……今日はタルトの口になってたからなぁ。おのれ総合学部、プラントだけでなくタルトまで私から奪うとは……許すまじ」
「取り置きできなくてごめんね?明日は取り置きしておくから」
「じゃあ夕食の方を先に所望するよ」
「うん、もうちょっと待ってね」
……まぁ、そう言う日もあるか。
そんな事を思いながら、私はトマトスープの匂いに身を委ねた――




