Chat.5『駅徒歩5分は7分以上掛かる』前編
「駅徒歩5分ってさ」
ベッドの中でスマホをいじってたあの子が前触れもなくそう言った。
いつもなら急に何を言い出すんだと思うところだけど、今日は違う。
なにせ今日は物件の内覧に行く予定だから、この話は私達が見に行くマンションに関連する話だろう。
……けど、あの物件、駅からは結構離れていた気がするけど。
そう思いながら私はあの子に視線を向ける。
「うん、物件の情報に書いてある数字だね」
「そう、それなんだけど。5分って書いてあるけど、絶対10分は掛かるよね?」
カーテン越しに差し込む朝日の中、全裸でシーツにくるまったあの子がそんな事を言う。
シーツ越しにも柔らかい身体のカーブが見て取れて、私は思わず昨夜の事を思い出す。
……いや、今はそう言う話じゃなかったっけ。
「不動産の情報に書いてある徒歩何分って、一応決まりがあるらしいよ?」
「そうなの?世界的アスリートがダッシュして掛かる時間とか?」
「いやいや、それじゃ徒歩じゃないし、世界記録載せても意味がないでしょ」
まともな話だと思ったけど、結局頓狂な話だった。
頭の中で、都内の駅でクラウチングスタートし、改札が開くと同時に飛び出すアスリートの姿が浮かんでしまう。
思わず苦笑しながら、私は彼女に徒歩何分という表記の説明を行った。
「確か道なりの距離で、分速80mで計算する……って話だったと思うけど」
「じゃあ、駅徒歩5分だと400m?」
「概ねそうだね。確か時間計算は端数切り上げだったはずだから、321m以上400m未満っていうのが正確なところだと思うけど」
「うわぁ、さすがリケジョ!細かい!」
いや、リケジョは関係無いでしょ。
「でもでも、私が駅からお家まで掛かる時間を計ったとき、10分以上掛かったよ?やっぱり分速80mって陸上選手並ってことじゃない?」
「えっと……それ、どうやって測ったの?」
「うーん……確か電車を降りたときに時間を見て、お家についてからもう一度時間を見たよ。11分ぐらい掛かってたと思うけど」
「ああ、なるほどね。それ、算出起点が間違ってるよ。……っていうかそろそろ服着たら?私は眼福だからいいけど」
話している間に起き上がったあの子の身体は朝日浴びて眩く輝いている。
後光が差しているようにも見えるけど、朝からこれを見せられるのは少々刺激的だ。
脱ぎ散らかしていたTシャツを放り投げて渡し、もそもそとシャツを頭から被るのを確認しながら私は続ける。
「確かあの距離って物件に最寄りの駅出口から、物件のエントランスまでの距離だったはずだけど」
「えー?私の最寄り駅、構造が複雑だしホームから改札までも長いエスカレーター登らないといけないのに!それに、おうちだってエントランスから部屋まで、結構エレベーター待ちとかあるよ?」
「だろうね。あと、途中に信号とかもあるんじゃない?」
「うん。駅前と、途中に大きな交差点があるよ」
「その待ち時間もカウント外だね」
「ええー!それって実際の時間とは違うって事じゃない!」
ふくれ面でそう言うけど、私に言われても困る。
そう言うルールだと聞いた事があるだけだ。
けど私がそう言ってもたぶんこの子は納得しないだろうな。
「あ、でもでも!」
「うん、何?」
「今日見に行く物件って、歩いてお店に行けるよね?」
「そうだね。リスポヌールまでなら……徒歩5分ってとこかな?」
「駅じゃないから、5分で着けそう?」
「んー、それは実測してみないと判らないけど……。内見した後、お店まで歩いて行ってみる?」
「うん!」
リスポヌールというのは私の勤務先である御門大学にほど近い、裏通りのパティスリーの名で、パティシエであるこの子の勤務先でもある。
そして私はこの子との同棲を決め、今の手狭なアパートからファミリー向けのマンションへ引っ越す準備中なんだけど。
服を着て、軽く朝食を済ませて、さて内見に出かけるぞ……と思った断になって、あの子が急にキョロキョロと私の部屋を見回し始めた。
「何か忘れ物?急ぎのモノじゃなかったらあとで探しておくけど」
「えっとね、今必要なんだけど。持ってるよね?」
「何を?」
「ビー玉」
「は?」
いや、いくらキョロキョロ見回しても私の部屋にビー玉なんてモノはない。
実家の物置になら、子供の頃に集めていたモノが残っているかもしれないけど。
「いや、ここにビー玉はないよ?っていうか何で急にそんなもの探してるのよ」
「え?だってお部屋を見に行くんだよね?」
「そうだけど。……あ、もしかして?」
「うん。物件を見るときはビー玉を転がすといいって何かで見たよ。おまじない的な感じ?」
「いやいや」
ビー玉の話に続けて部屋を見に行くと言い出した時点でこの子が何を考えているのかは理解できた……と思ったんだけど。内見時にビー玉を転がすのは別に呪術的なものじゃない。
「それ、床が傾いてないかチェックする方法だよね?昔流行ったって聞いた事があるけど」
「え?ビー玉を転がすと幸せになるんじゃないの?」
「まぁ、欠陥住宅を回避出来れば幸せになるのかもしれないけど……」
自分でも何を言ってるんだと思いながらも、頭からこの子の言葉を否定することはかろうじて回避する。
けどあれはあくまでも簡易的な方法だし、今はもっと確実に計測する方法がある。
私がその事を説明しようとすると、小首をかしげていた丸顔がぱっと明るくなり、ぽんと手を叩いた。
「そうだ!研究室ならあるんじゃない、ビー玉」
「えっと……家の研究室?」
「うん。生き物の研究してるんだよね?」
「まぁ、うちはバイオ系の研究室だから広い意味では生き物の研究をしてる……と言えなくもない……かな?」
私の言葉が怪しくなるのは、自分の所属する研究室が代謝生理学を専門にしているからだ。
広義の意味では生き物に関わる研究とはいえ、たぶんこの子が想像しているものとは随分と違うはずなんだけど。
「でね?生き物がいるならお魚も飼ってる筈でしょ?たしか水槽の下にビー玉を敷くって聞いた事があるよ?」
「うん、それ熱帯魚や金魚をを飼育するディスプレイ用のやつだよね?」
「そう、それ!研究室へ行って、それを分けて貰ったらいいんじゃない?」
「いや、うちバイオ系の研究室だけど魚は飼育してないからね?そもそもうちの研究室で飼育しているのはマウスだけだし、愛玩や観賞用じゃなくて実験動物だから」
「ええー!?」
いや、驚いた様子で言われても困るんだけど。
たぶんうちの研究室の専攻について話をしても半分ぐらいしか理解して食らえないはずだ。
いや別にこの子を馬鹿にしている訳じゃなくて、実際に以前一度話した結果、この子のなかでうちの研究室が動物天国に変換されてしまっている時点で……たぶん二度目の説明はあまり意味がないと私は判断した。
なので少し頭痛を感じながらも、私は強制的に話を本筋に戻すことにする。
「えっと、話を戻すね?床の傾きを見たいだけならスマホの水平器アプリで精度の高い計測ができるよ。それに今時のまともな建造物は建築基準を満たしてるから、素人がチェックする必要もないからね?」
「そうなの?スマホ、凄いね!」
スマホが凄いのは否定しないけど、話がここまで飛躍するこの子の思考の方が凄いと思いながら、私達は連れだって新居の内見へと向かう。
「そうだ。せっかっくだから徒歩5分っていうのが正しいか検証してみる?」
「え?うん、いいけど……確か駅から徒歩12分って書いてあったよ?」
私が声を掛けると、少し思案してからそう返事を返してきた。
たぶん、うちから駅までの距離と駅からの物件までの距離を足すと20分以上歩くことになる……とでも思ってるんだろうな。
「歩くの、嫌い?」
「そんなことないよ?出張用に歩きやすい靴履いてるし」
「でもあんまり歩きたくないって顔に書いてあるよ?」
「もう!そんなことないよ!歩くよ!20分でも30分でも!」
ちょっとからかうってみるとふくれっ面になった。
その表情も可愛いんだけど、不機嫌なまま物件を見に行くのはよろしくないので誤解を解いておくことにする。
「ちなみに、駅までは行かないよ?」
「え?でも物件情報に書いてあったのって駅から距離でしょ?」
「もう一つ書いてあったんだけど、見なかった?」
「えっと……なんだっけ」
まぁ、普通の人は最寄りの駅からの距離と、自分の興味がある施設が周辺にあるかどうかぐらいしか確認しないだろうからね。
でも私が目を付けた物件の情報にはもう一つ、距離が書かれていたんだ。
「御門大学からの距離。ほら、ここって学生街でしょ?」
「あ、そうか。学生さんが下宿する用?」
「んー、見に行くマンションはファミリータイプで学生用じゃないとは思うけど……一応、大学まで徒歩5分って書いてあったからね」
うちから駅を経由して物件まで移動すると20分以上掛かるけど、大学を経由するルートだとほぼ真っ直ぐだから10分も掛からない。
なら少し寄り道をして「大学から徒歩5分」って言う情報が正しいか検証してみよう、ってことなんだけど。
私がそう説明するとこの子はしばらく瞬きしてから言った。
「わぁ、さすがリケジョだね」
「いや今の話にリケジョ要素なかったよね?」
「え?だって普通の人は検証なんかしないよ?」
「……そうなの?」
「そうだよ?」
あれ?私の方が常識的だと思ってたんだけど、もしかしてこれって一般的じゃなかった?
もしかすると自分がマイノリティなのかもしれないという思いに私が悩んでいる間に、大学の建物が見えてきた。
私がスマホを取り出して時間を計る準備をしていると、周囲の様子を見ていたあの子がふと何かを思いついた様子で声を掛けてきた。
「ね、学校へ来たついでにビー玉もらいに行く?」
「いや、だからうちの研究室で金魚は飼ってないって」
「もう、冗談だよ!」
呆れた口調でそんな事をいわれた。
あれ?もしかして今の私、冗談が通じない、面白みのない人みたいになってる!?
「えっと、なんか……ごめん」
「別にあやまることなんてないよ。ほら、いこ?」
子供のように手を引かれる私を、大学の守衛さんが不思議なものを見るような目で見ていた。
いや、違うんです。そういうことじゃなくて。
内心で良くわからない弁明をしながら、私達は目的地の物件を目指す。
……もちろん、スマホのストップウォッチアプリを起動することは忘れずに。
「エントランスまでの距離、だから……ここで計測終了、っと」
「ね、何分だった?結構早かった気がするんだけど」
「えっと……7分14秒」
「えー?徒歩5分じゃない!」
そう言うけど、途中で立ち止まってカフェのメニューを見たり、コンビニの新作スイーツに興味を惹かれたり、可愛い白猫を見かけて写真を撮ってたりしたら当然ロスタイムは発生する。
「ロスタイムを全部差し引くと丁度5分ぐらいじゃないかな」
「えー、でもいつもあんな感じだから、徒歩5分は誇大広告ってことだよね?」
「いや、それはさすがに不動産屋が可哀相だよ……」




