第九話 闇を裂くトラック
重成の体は、驚くほど軽かった。
さっきまで隣で汗を拭い、笑い合っていた同い年の仲間。
腹部を打ち抜かれ、血を流し尽くした重成の瞼は固く閉じられ、二度と開くことはなかった。
「重成……おい、重成っ……!」
太郎がその冷たくなり始めた体を必死に揺さぶる。
俺は右足の激痛も忘れ、砂まみれの重成の顔を見つめていた。
敵の猛射を潜り抜け、奇跡的に味方の野戦救護所へ担ぎ込まれたものの、そこに重成の命を繋ぎ止める術はなかった。
戦場の野戦病院は、地獄の様相を呈していた。
あちこちから上がる絶叫と、血と汗と壊死した肉の匂い。
衛生兵たちは血塗れの手に鋸や包帯を握り、泥のように担ぎ込まれてくる負傷兵の対応に追われていた。
重成の遺体が、他の物言わぬ仲間たちとともに静かに布を被せられる。
あまりにも呆気ない最期だった。
スイカ畑で三浦分隊長を失い、今また重成まで――。
胸を押し潰すような激しい憤りと悲しみが、俺の体を激しく打ち震わせた。
簡素な止血処置と包帯を巻かれた俺は、右足の激痛に耐えながら、三八式歩兵銃を支えに立ち上がろうとした。
「坂口軍曹! 何をしている、横になれ!」
衛生兵が叫ぶが、俺はそれを振り払った。
「俺はまだ動ける! 指揮官を失った分隊のもとへ戻る! 太郎も金三も、まだ前線で戦ってるんだ!」
右足のくるぶしを撃ち抜かれ、骨が砕けた足ではまともに立つことすらできない。
激痛で視界が真っ白になりながらも、俺は前線へ戻ろうと足掻いた。
仲間を失った恐怖を掻き消すように、分隊長としての責任感と意地だけで身体を動かそうとしていたのだ。
そこへ、手の手当を終えた太郎と金三が駆け込んできた。
俺の姿を見るなり、二人の顔色が変わる。
「正造さん! なにバカなことやってんスか!」
「帰るんだよ! 重成を置いて、お前たちだけを戦場に残していけるかッ!」
俺が怒鳴り散らした、その瞬間だった。
「いい加減にしてくださいッ!」
太郎が見たこともないような恐ろしい形相で叫び、俺の胸元を掴み上げた。
「重成は死んだんだよ! これ以上、俺たちに誰かを死なせろって言うのか! あんたまで死んだら、ハナさんはどうなるんだよッ!」
太郎の言葉が、胸にぐサリと刺さった。
金三も涙をボロボロとこぼしながら、俺の肩を強く掴む。
「正造さんが一番度胸があって、一番頼りになる……だからこそ、生きて帰らなきゃダメなんだ! 誠だって、この状態なんですよ!?」
金三が指さした先には、救護所の隅で小さく丸まっている誠がいた。
至近距離での爆風により両耳の鼓膜が破れ、何も聞こえない恐怖から、誠はガタガタと震えながら俺の姿を目で探していた。
当時の軍事規律において、全聾となった兵士は「不具廃疾」として即座に戦闘不能と判定される。
命令も聞こえず、敵の足音も察知できない兵を前線に置くことは、死を意味していた。
その時、救護所の外から「後送トラックが出るぞ! 重傷者を急いで乗せろ!」と衛生兵の声が響いた。
ノモンハン前線からハイラルやチチハルなどの後方病院へ向かう救護トラック。
昼間はソ連軍の爆撃機や重砲の標的になるため、敵の包囲網の隙間を縫って「夜間・無灯火」で疾走する決死の輸送便だ。
「よし、運べ!」
太郎と金三は、俺が口を開く間もなく、二人掛かりで俺を力任せに抱え上げた。
「おい! 離せ! 太郎、金三っ!」
「大人しくしててください!」
二人は俺の抗議を完全に無視し、救護所の外へ飛び出すと、発進準備を進めていたトラックの荷台へ俺を強引に押し込んだ。
続いて、金三が怯える誠の手を引き、俺の隣へ座らせる。
荷台の奥には、すでに片足を失い、包帯を血で染めた齋藤中尉が横たわっていた。
太郎は荷台のフチに手をかけ、齋藤中尉に向かって大声で叫んだ。
「中尉殿! この分隊長、頭が硬くて全然話を聞かないんで、連れて行ってください! 正造のことは丸投げします!」
足を失った痛みに耐えていた齋藤中尉は、一瞬目を見開いたが、やがて力なく、けれど温かく苦笑した。
「……ふん、自分を『弾除け』扱いしたバカどもが。……任せろ、俺が責任を持って連れて行く」
俺たちが中尉を「高級な弾除け」と言って救い出した時のやり取り。
それをそのまま返されたのだ。
「金三……太郎……お前たち……」
俺の目から、溢れる涙が止まらなかった。
「正造さん、誠を頼みます。……俺たちの分まで、絶対に北海道へ連れて帰ってください」
金三が泥と涙に塗れた顔で笑い、誠の手を固く握った。
何も聞こえない誠は、金三の様子から別れを察し、必死に首を振って涙を流している。
「重成の仇は、俺と金三で絶対に討つぜ。……じゃあな、正造! チチハルで……いや、旭川でまた会おうぜ!」
ブォォォンッ!
重いエンジン音が夜の暗闇に響き渡り、無灯火のトラックがガタガタと激しく揺れながら走り出した。
「太郎ーッ! 金三ーッ!」
俺は荷台のフチにしがみつき、遠ざかっていく二人に向かって声を限り叫んだ。
暗闇の中、胸を張って敬礼を捧げる太郎と金三の姿が、だんだんと小さくなっていく。
トラックはライトを一切つけず、ソ連軍の照明弾が上がるたびにエンジンを切り、漆黒の草原を縫うように疾走する。
遠くでは、今なおノモンハンの空を赤く染める砲火の光が見えていた。
ガタガタと揺れる荷台の中で、俺は何も聞こえず怯える誠の肩を強く抱き寄せた。
手袋越しに伝わる誠の震え。
隣で静かに息を吐く齋藤中尉。
そして、もう二度と会えない重成と、前線に残してきた太郎と金三――。
俺たちのノモンハンの戦いは、激しい罪悪感と、仲間たちから託された重い命の温もりとともに、夜の闇の中へ消えていったのである。




