第八話 鉄の環と死闘の果て
昭和十四年、八月二十日。
早朝の静寂を破り、ノモンハンの全地平線が激しく揺れ動いた。
ソ連軍司令官ジューコフによる、日本軍全滅を狙った「大総攻撃」が始まったのだ。
上空を埋め尽くしたのは、五百機を超える敵爆撃機と戦闘機の群れ。
地平線からは数千発の重砲を一斉に叩きつける猛砲撃。
さらには五百両もの戦車と装甲車が地煙を巻き上げて押し寄せてくる。
対する日本軍の兵力は数分の一。
前線は一瞬で更地へと変えられ、俺たちは「鉄の環(包囲網)」の中に閉じ込められた。
退路は断たれ、水も弾薬も底をつく極限状態。
だが——俺たちはまだ死んでいなかった。
* * *
八月二十四日、深夜。
昼間の猛爆撃で陣地を耕されようとも、夜が訪れれば俺たちの時間だ。
負傷した齋藤中尉から「部隊を頼む」と指揮を託された俺は、他の分隊の生き残りも率い、包囲網の一角を打ち破るべく夜襲を敢行した。
「……あんちゃん。右前方に戦車が三台、その陰に歩兵が二十以上潜んでる」
暗闇の中、誠が耳を澄ませて敵の位置を正確に弾き出す。
「よし。……誰も死なせねえわ」
俺は静かにそう呟くと、三八式歩兵銃を深く構えた。
「突撃ィッ!」
俺の合図とともに、太郎、重成、金三が銃剣を構えて暗闇へ躍り出た。
「ウラーッ!?」
パニックに陥るソ連軍へ向けて、俺は闇の中から精密射撃を叩き込んだ。
誠の教える位置へ、次々と弾丸を送り込む。
味方には一発たりとも弾を当てず、突撃する太郎たちの邪魔になる敵兵だけを正確に撃ち抜いていく。
「うおおおーっ!」
手榴弾が弾け、銃剣が暗闇を切り裂く。
鬼気迫る俺たちの猛反撃にソ連軍は大混乱に陥り、ついに俺たちは奪われていた主要な高地陣地を一時的に奪い返すことに成功したのだった。
* * *
だが、歓喜の時間短かった。
東の空が白み始めると同時に、空を覆いつくす爆撃機と地平線を埋める戦車群が、再び迫ってきたのだ。
「撤退だ! 高地から降りろッ!」
人数が増えていたことと、高地奪還に時間をかけすぎたことが裏目に出た。
夜明けの光の中、撤退する味方の背後に敵の影が迫る。
「全員いけ! 俺が食い止める!」
俺は高地にひとり残り、手垢のついた三八式を構えた。
迫り来る戦車には、わずか数センチの視察スリットを狙って弾を撃ち込み、内部の乗員を無力化して行動を封じる。
群がるソ連歩兵には、指揮官と機関銃手を優先して急所を撃ち抜いた。
パンッ! パンッ! パンッ!
一発、また一発。
俺が狙撃で足を止めた敵戦車が、あちこちに無残な鉄の骸となって転がっていく。
その隙に、多くの仲間が高地から逃げ延びていくのが見えた。
「あんちゃん! そろそろ野戦砲が来る! 早く逃げよう!」
駆け寄ってきた誠が叫ぶ。
直後、ヒュウゥゥゥゥ——と空気を引き裂く凶悪な音が降り注いだ。
ソ連軍の野戦砲による集中砲撃が始まったのだ。
「走れッ!」
俺と誠は、放置された戦車の残骸や砲の破片に身を隠しながら、弾雨を縫うように走った。
その時だった。
ドカンッ!
激しい衝撃波とともに、誠が身を潜めた戦車の残骸に砲弾が直撃した。
「誠ーッ!」
煙の中に飛び込み、倒れていた誠を抱き起す。
外傷はない。
体は無事だ。
だが——誠の耳から、赤黒い血が流れていた。
「あんちゃん……? なんだよ……何も聞こえないよあんちゃん! なんで音がしないんだよぁぁッ!」
至近距離での爆風により、誠の鼓膜が破れてしまったのだ。
パニックになり、自分の声すら聞こえず叫び続ける誠。
「大丈夫だ! 喋るな、走るぞ!」
俺は誠の手を強引に引き、必死で走り出した。
* **
だが、悪夢は終わらない。
正面の陰から、一台のソ連戦車と歩兵の群れが回ってきた。
「くそっ……!」
俺は誠を物陰に押し込め、ひとり前へ飛び出した。
スリットへ狙撃を叩き込み、戦車の動きを止める。
「正造! 援護するぞ!」
追いついてきた太郎と重成が銃を乱射し、群がるソ連歩兵を撃ち倒していく。
最後の敵兵に狙いを定め、その瞬間だった。
バチんッ!
右足のくるぶしの下に激痛が走り、俺は激しく転倒した。
敵歩兵の放った一弾が、俺の足を撃ち抜いたのだ。
「ぐッ……あぁぁっ!」
俺は激痛に耐えながら三八式を構え直し、最後の敵兵の胸元を撃ち抜いて沈めた。
お返しはしてやった。
だが、もう立つことも、逃げることも叶わない。
「正造!」
太郎と重成が駆け寄ってくる。
「来るな! 俺を置いて逃げろッ!」
「黙って担がれろ!」
ふたりは俺の言葉を聞かず、無理やり両脇から担ぎ上げた。
「置いていけと言ってるだろ! 足手まといになる!」
怒鳴る俺を担ぎながら、重成が荒い息の下でニッと笑った。
「……つい最近も、おんなじことがあったな、重成」
「そうだね太郎さん。良い弾除けはよく喋るんだよ」
前哨戦で齋藤中尉を救った時の言葉を、ふたりはそのまま俺に返してきたのだ。
「貴様ら……っ」
頭上を敵の爆撃機がかすめ、周囲に砲弾が落ちる中、太郎と重成は俺を担ぎ、金三は何も聞こえず怯える誠の手を引いて、必死に陣地を目指して走った。
あと少し。
あと数十メートルで味方の陣地だ。
その時——
ズデンッ!
重成が前触れもなく派手に転倒し、抱えられていた俺と太郎も巻き込まれるように地面へ転がった。
「痛ぇな……どうした重成、脚でももつれたか?」
太郎が笑いながら振り返り、言葉を失った。
重成は仰向けのまま、青白い顔で荒い息を吐いていた。
その腹部からは、止めどなく鮮血が溢れ出し、砂を赤く染めていた。
「重成……!? 貴様、いつ……!」
「あれ……可笑しいな……」
重成は自分の腹の血をぽかんと見つめ、弱々しく笑った。
「さっき歩兵と撃ち合った時かな……痛くなかったから、大丈夫だと思ってたんだけどな……」
「重成! 喋るな! すぐ陣地だ、手当すれば助かる!」
俺は血を止めようと、重成の腹を必死に押さえた。
だが、温かい血は俺の手の隙間から溢れ出て止まらない。
「いや……なんか、急に力が入らなくなってさ……」
重成の視線が、かすかに泳ぎ始める。
「なんか……目の前が暗くなってきた……大丈夫だからさ……みんな……無事で……」
「重成ーッ! 目を開けろ! 重成っ!」
太郎の悲痛な叫びが響く中、重成の手からすっと力が抜け、砂の上に落ちた。
ノモンハンの酷暑の風が、動かなくなった重成の髪を優しく揺らしていた——。




