第十話 チチハルの歓喜と壊滅の傷痕
過酷な夜間輸送を経て辿り着いたチチハル陸軍病院は、内地や戦場とは異なる独特の静けさと、重苦しい消毒液の匂いに満ちていた。
後方の医療設備と軍医の手によって、俺の右足には即座に外科手術が施された。
砕けた骨を繋ぎ合わせ、ギプスで固める痛みに耐える日々。
軍医はレントゲン写真を見つめながら、静かに、けれど力強い声で俺に告げた。
「骨は綺麗に繋がった。しっかりリハビリに励めば、日常で生活する分には不自由しないまでに回復するだろう」
「本当ですか!」
「……ただし坂口軍曹、重い荷を背負って走ったり、行軍したりするのはもう無理だ。君は『公傷』による不具廃疾……傷痍軍人として除隊となる。君のノモンハンでの戦いは、これで終わりだ」
もう兵士として戦うことはできない。
その事実は、仲間を前線に残してきた俺にとって胸を締め付けられる思いでもあったが、同時に「生きてハナの元へ帰れる」という一筋の救いでもあった。
一方、至近距離での爆音で両耳の鼓膜を痛めた誠も、軍医による念入りな診察を受けていた。
軍医が誠の耳元で声を張り上げ、両耳の聞こえ具合を詳しく確かめていく。
「右耳はかなりの難聴だが、左耳の方はまだそこそこ聞こえているな。全ろうではない。……これなら日常生活や会話は何とかこなせるだろう」
軍医の言葉に、誠はホッとしたように胸を撫でおろした。
左耳を傾ければ、俺の声も少し大きめの声ならしっかりと聞き取ることができる。
「あんちゃん……声、聞こえるよ。左耳ならちゃんと聞こえる……!」
感極まったように声を詰まらせる誠。
俺は誠の肩を強く抱き締め、「よかった……本当によかった」と何度も頷いた。
同じ病床には、トラックの荷台で共に運ばれてきた齋藤中尉の姿もあった。
片足を失いながらも一死を報いた中尉もまた、公傷による傷痍軍人として内地還送を待つ身となっていた。
静かに義足の準備を進める中尉の存在は、俺と誠にとって大きな心の支えだった。
だが、俺たちの胸から不安が消えることはなかった。
ノモンハンの前線に残してきた太郎と金三の消息が、全く分からないのだ。
後送されてくる傷痍兵に「歩兵連隊の者を知らないか」「太郎と金三という兵を見なかったか」と尋ねて回るが、誰もが首を横に振るばかりだった。
そんな中で迎えた、昭和十四年九月十六日。
日ソ間で停戦協定が結ばれたという知らせが、病院内を駆け巡った。
ノモンハンの地獄のような戦いは、ようやく終わりを告げたのだ。
停戦から数日が過ぎた、九月下旬のある日のことだった。
「正造さん……っ! 誠……ッ!」
聞き覚えのある懐かしい声に振り返ると、病室の入口に二人の兵士が立っていた。
頬が削げ落ち、すっかり痩せこけた姿の——太郎と金三だった。
「太郎! 金三っ! 生きてたのか……ッ!」
俺は跳ね起きるようにベッドを降り、松葉杖をついて崩れそうになりながら二人へ駆け寄った。
誠も目を見開き、二人へ飛びついていく。
「正造さん! 誠! 無事だったんだな……! 生きてたんだなッ!」
太郎と金三は俺たちを力任せに抱きしめ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
俺も誠も、二人の背中を何度も叩きながら涙を流した。
重成を失った悲しみは決して消えない。
だが、こうして残された仲間が生きて再会できた歓喜が、胸の中に爆発するように広がっていた。
ベッドの端でその光景を見つめていた齋藤中尉も、目を細めて穏やかに微笑んでいた。
「……よく生きて戻ったな、二人とも。このバカ分隊長を無事に届けてくれた礼を言うぞ」
中尉の冗談めかした言葉に、太郎と金三は涙を拭いながら敬礼を捧げた。
落ち着きを取り戻した二人から語られたのは、俺たちが去った後の想像を絶する前線の凄惨な激闘だった。
「正造さんたちが去った後、敵はさらに物量を増やして押し寄せてきたんです」
太郎が握り拳を震わせながら語る。
「射撃じゃ束になっても勝てねえ。だから俺と金三は、夜陰に紛れて手榴弾と火炎瓶を抱え、敵の戦車へ肉弾攻撃を仕掛けました」
「正造さんに叩き込まれた銃剣術と、あの夜襲の経験がなかったら、俺たちは初日で死んでましたよ」
金三が言葉を継ぐ。
二人は手榴弾を抱えて敵の装甲車の下へ飛び込み、ハッチを開けて手榴弾を叩き込むという鬼神の如き死闘を繰り広げたのだ。
その勇猛果敢な抵抗は、肉弾戦を極度に恐れるソ連兵を大いに戦慄させ、彼らは「対戦車肉弾戦の精鋭」として地獄の戦場を最後まで戦い抜いたのだった。
「だけど……俺たちの歩兵連隊は……もう、壊滅状態です」
太郎の口から漏れた言葉に、俺は息をのんだ。
北海道の屯田兵を母体とし、「陸軍最強」「対ソ連の精鋭」と自他ともに誇っていた歩兵連隊。
連射力と圧倒的な重砲・戦車の物量を誇るソ連軍の前に、連隊の生存者はごくわずかとなり、部隊としての機能を完全に失ってしまったという。
「三浦分隊も、生き残ったのは俺たち四人だけです……。連隊はこれから、後方で組織の再編に入ることになります」
金三が静かに俯いた。
自分たちの奮闘も虚しく、圧倒的な歴史の濁流の前に多くの同郷の戦友たちがノモンハンの砂漠に散っていったのだ。
「……よく戦った。本当によく生きて戻ってきてくれた」
俺は二人の肩に手を置き、静かに言葉をかけた。
どんなに部隊が壊滅しようとも、命を削り合って生き抜いたこの絆だけは失われなかった。
やがて、軍医から俺と誠、そして齋藤中尉に「傷痍兵」としての内地(日本本土)への還送命令が下りた。
本格的なリハビリと治療のため、故郷・北海道の「札幌陸軍病院」へ送られることが決まったのだ。
出発の朝、チチハル駅のホームで、連隊の再編に残る太郎と金三が見送りに来てくれた。
「正造さん、誠。一足先に北海道へ帰って……奥さんによろしく伝えてやってください」
太郎が少し照れくさそうに笑う。
「俺たちも部隊の再編が終わったら、絶対に旭川へ帰ります。そしたらまた、みんなで旨い酒を飲みましょう!」
金三が強く頷く。
誠は聞こえる方の左耳をふたりに向け、しっかりと頷いて見せた。
「ああ、待ってるぞ! 旭川で……絶対にまた会おう!」
汽笛の音が響き、列車がゆっくりと動き出す。
ホームで胸を張り、力強い敬礼を捧げ続ける太郎と金三の姿が、遠ざかっていく。
過酷なノモンハンの地獄を生き抜いた俺たちは、傷痍兵として仲間たちの想いと命の温もりを胸に抱き、雪の舞う故郷・北海道へと向かう列車の中にいたのである。




