第六話 鉄の雨と夜襲の地獄
昭和十四年、七月下旬。
満州と外蒙古の国境に位置するノモンハンの大草原に到着した俺たちは、直ちに陣地構築を始めた。
夏が、本気を出し始めていた。
冬のマイナス三十度とは打って変わり、日差しを遮る木ひとつない平原は、四十度近い猛暑に包まれる。
汗は噴き出た瞬間に蒸発し、水筒の水は一瞬で底をついた。
「……あんちゃん。なんか音が聞こえるなぁ」
スコップの手を止め、誠が首を傾げた。
「なんの音だ?」
重成が尋ねる。
「金属が擦れるような……戦車かなぁ?」
金三があたりを見回すが、地平線には何も映らない。
「んなもん、見えねえぞ」
「暑さと乾きで疲れてるんだろ。誠、木陰で休めって」
太郎が笑いながら言った。
だが、誠は昔から人一倍耳が良い男だ。
俺は念のため、齋藤中尉へ一報を入れておくことにした。
喉の渇きで舌が引きつる中、俺たちは再び汗と泥に塗れて作業に戻った。
だが——陣地が完成する間もなく、地獄の幕が上がった。
「砲撃だーッ!」
誠が悲鳴のような叫び声をあげた。
何が起きたのか分からず、呆然と「何が?」という顔をする者たち。
「全員、塹壕と蛸壺に退避ーッ!」
俺は叫ぶと同時に、呆然としていた太郎、重成、金三の首根っこを掴んで穴へ叩き込み、自分もその上から飛び込んだ。
誠も間一髪で隣の穴へ滑り込む。
だが、周りの兵士たちは動けていない。
上空から、ヒューーッという空気を切り裂く悪魔の咆哮が迫っていた。
「伏せろッ! 蛸壺から頭を出すな!」
ウー……ドォン! ドォン! ドドドドドンッ!
直後、地響きとともに叩きつけられたのは、ソ連軍の凄まじい砲撃の雨だった。
まさに間一髪だった。
すぐ目と鼻の先で地面が跳ね上がり、頭上から熱い泥と、見たくもない肉片のようなものが降り注ぐ。
退避が遅れた付近の兵士たちは……もう生きてはいないだろう。
訓練で叩き込まれた華々しい歩兵戦など、そこには存在しなかった。
ただひたすら穴の中で丸くなり、耳を塞いで土をかぶりながら、砲撃が止むのを祈るように耐えるしかなかった。
「軍曹……ッ! 水が……水がもうありません!」
隣の穴で太郎が絶叫する。
猛暑と泥と恐怖で、全員の唇は乾ききり、白くひび割れていた。
「我慢しろ! 探照灯が消えるまで動くな!」
* * *
「おい、あっちの砲兵隊が反撃を始めたぞ!」
金三が指さす方角で、味方の九二式歩兵砲が乾いた発砲音を響かせた。
日本軍も黙って殺されているわけではない。
果敢に反撃の砲撃を撃ち込んでいた。
だが——その反撃が、さらなる惨劇を呼んだ。
一発撃った瞬間に立ち上った白い発砲煙を、ソ連軍は見逃さなかった。
ヒュウゥゥゥゥ——ドン! ドドドドドンッ!
数十門の敵重砲が一斉にその場所へ集中砲撃を叩き込んだ。
一瞬にして味方の砲兵陣地が猛烈な炎と土煙に包まれ、砲もろとも跡形もなく吹き飛んだ。
「そんな……一発撃っただけで……」
重成が言葉を失い、震える手で銃を握りしめる。
射程も、弾薬の数も、威力も段違いだった。
味方の砲兵は「一発撃ったらすぐ逃げる」か、「撃つ前に陣地ごと更地にされる」という悲惨な状況に追い込まれ、砲による反撃は早々に封じられてしまったのだ。
* * *
「昼間は奴らの天下だ。……だが、夜になれば話は別だ」
日没後、暗闇が草原を覆うと、齋藤中尉が鞘から軍刀を軽く抜き、刃を光らせながら俺たちを集めた。
「これより小隊を挙げ夜襲を敢行する! 敵は暗闇での戦いを極度に恐れている。我が第七師団の銃剣術を見せてやれ!」
「「「はっ!」」」
狙うは敵の戦車部隊の駐留場と、野戦砲陣地の砲手たちだ。
小隊長である齋藤中尉自らが先頭に立ち、腰を低くして闇の中へ踏み出していく。
「誠、お前の耳が頼りだ。中尉殿をご案内しろ」
「任せて、あんちゃん。……中尉殿、あっちに二人、こっちには五、六人います」
誠の研ぎ澄まされた聴覚を頼りに、俺たちは息を殺して闇を進んだ。
空へ照明弾が打ち上がった瞬間、齋藤中尉の合図で全員が即座に地表へ伏せ、息を止める。
光が消え、再び暗闇が訪れると、静寂に紛れて敵の陣地や戦車の目と鼻の先――わずか数メートルの距離まで音もなく忍び寄った。
「抜き刀――ッ! 突撃ィ――ッ!」
齋藤中尉が暗闇の中で軍刀を高く掲げ、鋭い一閃とともに先頭を切って跳び出した。
「手榴弾投擲! 突っ込めーッ!」
俺の号令とともに一斉に手榴弾を投げ込み、三八式歩兵銃の銃剣を構えて敵陣へ躍り出た。
「エイッ!」
「ウラーッ!?」
闇を切り裂く突撃の歓声と、敵の悲鳴が錯綜する。
夜襲を受けたソ連兵は激しいパニックに陥り、狂ったように暗闇へ向かって銃を乱射し始めた。
味方同士での誤射(同士撃ち)が多発し、敵陣地内は一瞬で大混乱に陥った。
こちらわずか一小隊に対し、敵は数十人以上。
だが、齋藤中尉が真っ先に敵将校を斬り伏せ、俺たちも血のにじむ訓練を重ねてきた銃剣術で次々と襲いかかる。
俺たちはパニックを起こした戦車へ這い上がり、ハッチをこじ開けて手榴弾を放り込み、飛び出してきた操縦士を叩き伏せた。
一射必中の射撃と、容赦のない銃剣の突き。
齋藤中尉の果敢な指揮のもと、俺と誠、分隊の仲間たちは無我夢中で敵を打ち倒し、短時間で敵の拠点を壊滅させ、陣地を奪い返すことに成功した。
「やった……! 追い払ったぞ!」
誠が荒い息を吐きながら叫ぶ。
ソ連兵の死体が転がる陣地で、俺たちはつかの間の勝利に酔いしれた。
——だが。
東の空が白み始めると、その歓喜は一瞬で打ち砕かれた。
ヒュウゥゥゥゥ——!
朝の光とともに、遠くの地平線から再び地鳴りのような猛砲撃が始まった。
さらには上空からソ連軍の爆撃機が飛来し、俺たちが奪い返したばかりの陣地に容赦なく爆弾を落としていく。
「全員退避! 元の陣地まで引けッ!」
齋藤中尉の悲痛な叫びが響く。
せっかく命がけで奪い返した陣地が、わずか数分で再び更地にされていく。
夜に血を流して陣地を奪い、朝になれば圧倒的な物量で更地にされて退却する。
終わりの見えない、あまりにも残酷で虚しい「いたちごっこ」が、俺たちをじわじわと追い詰めていった——。




