第四話 迫り来る鉄の嵐
チチハルで迎えた初めての冬は、俺たちの想像を遥かに超える地獄だった。
北海道育ちの俺たちは、寒さには強い自負があった。
だが、満州の大陸的な寒さは全くの別物だった。
気温はマイナス三十度まで落ち込む。
これほど寒いのに雪はほとんど降らず、視界を遮るのは凍てついた砂ぼこりだ。
遮蔽物のない見渡す限りの大平原。
氷のような風が吹けば、砂が刃物のように肌を突き刺し、体感温度はマイナス四十度近くまで跳ね上がった。
吐く息で髭や眉毛が真っ白に凍りつく世界。
「おい正造! 絶対に素手で金属を触るなよ!」
齋藤中尉の叫び声が極寒の風に紛れる。
銃身を素手で触ろうものなら、一瞬で皮膚が金属にくっつき、無理に剥がせばそのまま皮膚が破れ落ちる。
分厚い防寒手袋は生命線だった。
銃のオイルすらカチコチに凍りついて動かなくなる。
最も恐ろしいのは凍傷だった。
靴の中のつま先の痛みを少しでも放置すれば、一気に組織が腐り、足を切断する羽目になる。
過酷な環境と戦いながら、俺たちは必死に拠点を守り抜いた。
* * *
そんな厳しい冬がようやく終わりを告げ、春を迎える頃だった。
昭和十四年(1939年)、三月。
満州国と外蒙古(ソ連の傀儡国)の国境線にあたる「ハルハ川」周辺で、両軍による国境をめぐる小競り合いが頻発し始めた。
駐屯地では、不安と期待が混ざり合った噂が飛び交っていた。
「どこかの部隊が、境界の揉め事の応援に行ったらしいぞ」
訓練の合間、日陰で汗を拭いながら金三がため息混じりに言った。
「まあ、いつもの国境の小競り合い(紛争)ですね」
「何を言ってるんだ! 俺たちは北鎮部隊だぞ! ソ連なんて一捻りだ!」
太郎がいつもの元気な調子で声を張り上げる。
俺たちの所属する旭川第七師団は、「北鎮部隊」と呼ばれていた。
北海道の屯田兵を母体とし、極寒地での行軍や射撃訓練を徹底的に叩き込まれてきた部隊だ。
雪中戦や防寒装備の扱い、そして射撃の精度においては、「陸軍最強」「対ソ連戦の精鋭」と自他ともに認める存在だった。
同郷の者同士が多く、厳しい上下関係の中にも家族のような結束があった。
「いざとなれば俺たちがソ連軍を食い止める」という絶対の自負が、俺たちにはあったのだ。
「一射必中のあんちゃんがいれば、負けなしだからね!」
誠が誇らしげに俺の肩を軽く叩く。
確かにゲリラとの戦闘においても、俺の率いる分隊は確実な成果を上げてきた。
だが、俺がやってきたことはどこまでいっても「人殺し」だ。
決して賞賛されるようなことではない。
俺が思わず暗い顔をしていると、重成が破顔して笑い飛ばした。
「またそんな暗い顔して! 坂口軍曹がいなければ、俺たちはあのスイカ畑でとっくに死んでますよ!」
「そうですよ! 正造さんが一番度胸があって頼りになるんですから!」
金三や太郎も口々に頷く。
人を殺めてしまったという深い罪悪感。
だが、こいつらと一緒に笑い合っていると、胸の奥の苦しみが少しだけ軽くなるような気がした。
俺はこの命に代えても、この仲間たちを守り抜かなければならない。
そう心に誓った。
* * *
だが、事態は俺たちの想像を超える速さで悪化していった。
「ハルハ川付近で国境の揉め事が大きくなった。お前たち分隊も出撃だ」
ついに、小隊長の齋藤中尉から出撃命令が下った。
「まあ、ソ連兵なんてサクッと撃ち倒して、すぐに帰って来ましょう!」
「チチハルの美味しい料理でも奢ってくださいよ、軍曹!」
島本や太郎たちは意気揚々と声を掛け合い、弾薬箱を抱えてトラックの荷台へと乗り込んでいった。
俺も三八式歩兵銃を抱え、荷台の端に腰を下ろす。
トラックが巻き上げる煙の向こうに、チチハルの街並みが遠ざかっていく。
——だが、この時の俺たちはまだ知らなかった。
向かった先に待っていたのは、これまで経験してきたゲリラ戦などとは全く違う、不穏な戦場への行軍だったことを。




