第三話 チチハルの光と陰
昭和十三年、四月。
俺たちの新しい生活は、満州北部の重要拠点・チチハルで始まった。
当時、俺――坂口正造は二十四歳。
兵役時代からの訓練実績や優れた射撃能力が評価され、俺はこの時すでに「伍長」の階級に就いていた。
義弟の誠は二十二歳になっていた。
俺たちが所属する小隊を率いるのは、小隊長の齋藤吾郎中尉(三十一歳)。
本来なら下士官の俺たちが気安く言葉を交わせるようなお方ではない。
だが、例の六十キロ行軍を走り抜いた俺と誠のことを覚えていてくださり、齋藤小隊長は折に触れて気さくに「正造」「誠」と名前で声をかけてくれた。
分隊長は三浦平助軍曹(二十八歳)。
少々先輩風を吹かす癖があり、上官には調子が良いところもあったが、根は情に厚く、部下思いの至ってまともな人だった。
同じ分隊には、気兼ねなく話せる同い年の蔵田太郎。
一個下で生真面目な森重成。
誠と同い年で調子の良い島本金三がいた。
俺たちの所属する旭川第七師団は、「陸軍最強」と称されていた。
その理由は、部隊の成り立ちにある。
第七師団は、元々北海道を開拓し守ってきた「屯田兵」を母体として構成されていた。
全国から寄せ集められた赤の他人の集団ではない。
同じ過酷な土地で共に汗を流し、開拓してきた顔なじみの近所同士なのだ。
だからこそ、上官と部下の間には深い信頼関係があった。
軍隊にありがちに陰湿な暴力や無意味ないじめは存在せず、規律を守りながらも、どこか家族のような温かさがあった。
だが、ここチチハルはソ連国境を目前に控えた最前線だ。
街は華やかだったが、その裏には深い闇が広がっていた。
軍の食料倉庫や兵器庫、通信線の遮断を狙ったスパイやゲリラが暗躍し、突如として線路を破壊し強奪を働く。
そうした見えざる敵から拠点を守る警備も、俺たちの重要な任務だった。
駐屯地では時折、射撃大会が開かれた。
三十キロのフル装備を背負ったまま全力疾走し、そこから立射、膝射、伏射で標的を射抜く。
伍長となっていた俺だが、目と勘の良さは相変わらずで、毎度のように上位の賞を獲り、賞品のタバコや羊羹を分隊に持ち帰った。
「おい正造伍長! またお前のおかげで我が分隊の鼻が高いぞ!」
三浦分隊長も齋藤小隊長も、まるで自分のことのように喜んでくれた。
* * *
事件が起きたのは、八月の酷暑の日だった。
三浦分隊長を含めた八人の兵士で、線路沿いのパトロールを行っていたときのことだ。
伍長である俺は、分隊長を支える補佐として隊列の先頭近くを歩いていた。
突き刺すような日差しの中、汗を拭いながら歩を進める。
「暑いな……おい正造、実家の畑は今頃どうなってるかな」
三浦分隊長がふと呟いた。
「分隊長のご実家も農家なんですかい?」
「ああ、米農家だ。まあ、なんでも作ってはいるがな」
「人手が足りなくて大変でしょう」
「その辺は大丈夫だ。優秀な弟がいてな、兵役を終えてしっかり米を作ってくれてる。……戦争が終わって帰ったら、正造にもうちの美味い飯を食わせてやるよ」
「うちも米農家ですよ。じゃあ、どっちの米が美味いか勝負ですね」
「ハハッ、勝負だな! 負けんぞ!」
汗だくになりながら笑い合う。
ふと、後ろを歩いていた誠と金三が暑さでバテているのに気づいた三浦分隊長が、足を止めた。
線路の脇には、青々としたスイカ畑が広がっていた。
「お、スイカ畑か。いいな、もらっていくか」
「分隊長、ダメですよ泥棒は!」
「ばか言え、あそこで作業してる人がいるだろう。ちゃんと金払って買ってくるさ。俺の奢りだ。二つも買えばみんなで食えるだろ」
また先輩風を吹かせて、と俺たちは顔を見合わせて笑った。
寄り道してスイカを食べていたなんてバレたら齋藤小隊長に怒られるんじゃないか――そんな軽口を叩いていた。
「ん……引き金の音?」
後ろで誠がつぶやいた、次の瞬間だった。
タァン――!
乾いた一発の銃声が、夏空に響き渡った。
「……え?」
三浦分隊長の身体がグラリと揺れ、そのままゆっくりと泥の上に倒れ伏した。
胸元から溢れ出た鮮血が、一瞬で地面を赤く染めていく。
「ゲリラだ――ッ! 伏せろ!」
農作業を装っていた男たちが、仕掛けた草むらや小屋から一斉に立ち上がり、長着の下から小銃を構えるのが見えた。
その数、五人。
敵の足元には、線路を吹き飛ばすための爆薬と導火線が転がっている。
線路の破壊、そして巡回中の俺たち分隊の殲滅が奴らの目的だったのだ。
「全員退避! 俺が叩く!」
瞬時に頭が冷え切った。
三浦分隊長を撃ち抜いた敵の首謀者に狙いを定め、三八式歩兵銃の引き金を引き絞る。
パーン――!
一発目が敵の胸を撃ち抜き、男が崩れ落ちる。
間髪入れず、ボルトを引いて次弾を装填。
膝射の姿勢から、パニックを起こして銃を乱射する残りの敵へと銃口を滑らせる。
パン! パン! パン! パン!
吸い込まれるように放たれた弾丸が、次々と敵の眉間や胸元を打ち抜いていく。
射撃大会で培った精度と速度。
俺は無意識のうちに、正確無比な狙撃で五人全員を撃ち倒していた。
「誠、太郎! 走って本部に報告! 衛生兵を呼んでこい!」
「は、はい!」
「重成、周囲を警戒! 見分を行う!」
指示を飛ばしながら、俺は倒れた三浦分隊長のもとへ駆け寄った。
だが――三浦分隊長はもう、息をしていなかった。
さっきまで笑い合っていたのに。
実家の米の話をして、「勝負だ」と笑っていたのに。
俺たちを気遣って、スイカを買おうとしなければ……。
重成が、俺が射殺したゲリラたちの顔を覗き込み、息をのむような声をあげた。
「正造さん……こいつ……」
「どうした、重成」
「こいつ、いつも駐屯地に野菜や薪を売りに来ていた……あの商人ですよ」
背筋に冷たいものが走った。
昼間はヘラヘラと笑いながら俺たちに商売をし、陰では爆薬を持ち出して線路や俺たちの命を狙っていたのだ。
どこにでも敵がいる。
笑顔の裏に刃を隠している。
これが戦場の現実だった。
射撃大会で褒めはやされた俺の腕は、今日、初めて人の命を奪った。
それも一気に五人もの命を。
胸を押し潰すような激しい悲しみと、人を殺めたことへの恐ろしい罪悪感。
その間で、俺の心は激しく千切れそうになっていた。
だが、戦場は俺が傷つく時間すら与えてはくれなかった。
敵ゲリラを瞬時に全滅させた冷徹なまでの射撃能力と、緊急時における的確な指揮――。
本来ならあり得ない異例の早期昇進だったが、その功績が認められ、二十四歳の俺は「軍曹」へ昇進した。
勝手に三浦分隊長の後を継いで正式にこの分隊を率いる「分隊長」へ任命されたのだった――。




