第二話 北の兵士たち
黄ばんだ日記の束を繰ると、そこには端正な墨文字で当時の記録が綴られていた。
ページをめくるたび、古い紙の匂いとともに、時代を遡っていく感覚に包まれる。
――俺はいつしか、俺が十一歳の時に亡くなったじいちゃん、坂口正造の目となって、当時の景色を見つめていた。
* * *
昭和十一年、七月。
北海道の短い夏は、日差しだけは容赦なく俺たちの皮膚を焼きつけていた。
当時、二十二歳だった俺――坂口正造は、旭川の第七師団で兵役二年目を迎えていた。
「全員、歩調を合わせろ! 遅れる者は置いていくぞ!」
准士官の大声が、乾いた喉に痛く響く。
その日の訓練は、旭川の兵営から六十キロ先にある軍馬用地までの行軍だった。
参加する兵士は約百名。
三十キロを超える背嚢を背負い、三八式歩兵銃を肩に担ぎ、鉄帽を深々とかぶり直す。
腰には水筒と弾薬盒。
総重量三十キロ以上の装備が、歩くたびに容赦なく両肩へ喰い込んでくる。
行きは一泊二日。
一日三十キロの道のりを、汗と埃にまみれながらひたすら歩き抜いた。
目的地である軍馬用地に着けば、休む間もなく馬たちの世話や施設の補修作業が待っている。
泥にまみれて働いた後、翌日の復路が本当の地獄だった。
「帰りは一日で走破する! 旭川まで走り抜けろ!」
地獄のような命が下された。
装備品をつけたまま、六十キロの道のりをひたすら走って帰る。
真夏の暑さと猛烈な疲労の中、一人、また一人と隊列から脱落していった。
膝から崩れ落ち、動けなくなった兵士たちが道路脇に転がる。
後方からやってくるトラックや馬車に、まるで物のように回収されていく仲間たちの姿が視界の端に映る。
そんな絶望的な走りの中で、俺の隣を必死の形相で走っていたのが、一年下の初年兵――木島誠だった。
家が目と鼻の先にある隣同士で、幼い頃から家族同然に育った男だ。
「誠! がんばれ! 足を止めるな!」
「あんちゃん……もう、無理だよ……息が……っ」
蒼白な顔で泡を吹きかけている誠の背中を、俺は走りながら掌で強く押した。
「諦めるな! 旭川まであと少しだ! 一緒に帰るぞ!」
「う、うあぁぁぁっ!」
「へばってんじゃねえ! お前、うちの妹の桔梗のことが好きなんだろ! 倒れてる場合か!」
「な……っ!? なんでそれを……っ!」
「お前の気持ちなんかお見通しだ! 桔梗にカッコ悪いところ見せられねえだろ!」
「うおおおおっ!」
単純な男だ。
発破をかけると、誠の死に体だった足に再び力が宿った。
二人で声を掛け合い、互いの肩を支え合うようにして、俺たちは走り続けた。
夕暮れ時、命からがら旭川の兵営の門をくぐり抜けたとき、自力で帰って来られたのは百名のうち俺と誠のふたりだけだった。
兵営の門で待っていた上官は驚愕の表情を浮かべ、「よくぞ自力で帰ってきた!」と俺たちの肩を強く叩いた。
この地獄の行軍を二人きりで走り抜いたことで、俺と誠は「骨のあるやつらだ」と上官たちから一目置かれるようになった。
さらに俺は、昔から目が良く勘が冴えていたこともあり、射撃訓練では常に部隊トップクラスの成績を収めた。
的に吸い込まれるように弾が当たる俺の腕前は、射撃手として高く評価された。
やがて兵役の期を満了し、俺たちは懐かしい地元の村へと帰った。
元々隣同士で血の結束が強かった我が家と木島家は、俺が誠の姉であるハナと結婚したことで、より深い絆で結ばれることになった。
慎ましくも暖かい家庭。
ハナの笑顔と、誠という心強い義弟。
この平和で幸せな日々が、ずっと続くのだと信じ切っていた。
だが――昭和十二年、支那事変が勃発すると、世の中の空気は一変した。
平和な日常は、一通の赤い紙によって呆気なく打ち砕かれた。
翌、昭和十三年。
俺の元に再召集の赤紙が届いた。
そして、兵役を終えたばかりの誠の元にも、同じように召集令状が舞い込んだのだ。
行き先は告げられない。
軍の機密として、出征する兵士にすら目的地は伏せられていた。
ただ、北海道の第七師団が集められるとなれば、向かう先はおおかた決まっている。
極寒の北方――ロシアとの国境地帯だ。
不安を胸に抱えたまま乗り込んだ輸送船と列車が、長い旅路の果てに俺たちを吐き出した場所。
そこは、満州北部の町――チチハルだった。
見渡す限りの荒野と、どこまでも広がる低い空。
北海道の冬とも違う、肌を刺すような独特の乾いた冷気が、俺たちを出迎えた。
「……あんちゃん、えらい遠くまで来ちゃったな」
「ああ。だが誠、生きてハナと桔梗のもとへ帰るぞ」
ここが、俺たちの本当の戦いの始まりだった。




