第一話 開かずの箱
八月半ばの風は、北海道の短い夏の終わりを告げるように、どこか冷たさを孕んでいた。
お盆を迎え、俺――坂口淳也は久しぶりに実家へ帰省していた。
仏壇のある奥の間の風通しを良くし、父の勝と一緒に古い押し入れの整理を進める。
「うわ、これまだあったんだ……」
押し入れの隅から引っ張り出したのは、重厚な木製の将棋盤だった。
分厚い盤の裏には、ちゃんと四本のクチナシの足(盤脚)が取り付けられている。
昔、じいちゃんがどこかの上等な店で買った高級品だと思っていたものだ。
幼い頃、この奥の間に寝転がって遊んでいた俺は、暗がりに置いてあったこの将棋盤に気づかず思いっきり頭をぶつけ、大きなタンコブを作って泣いた思い出がある。
「これ、じいちゃんの将棋盤だろ? 高級そうなのに、なんでこんな雑に押し入れに入ってんだ?」
「それか……あぁ、それな、実は店で買ったやつじゃないんだよ」
「え?」
「じいさんの手作りだ。どこからか大きな木を拾ってきてな、ノミと鋸で削って、足まで自分で手彫りで作ったんだそうだ。あんたが三歳の頃、膝に乗せて将棋を教えてたろ? そのために夜な夜な作ってたらしいぞ」
父の言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
分厚い盤面を撫でると、手彫りならではの僅かな凹凸と、丁寧に磨かれた温もり、そして幼い俺がぶつかった時の小さな傷痕が残っていた。
正造じいちゃんが、自分の手で一つひとつ削り出した将棋盤——。
さらに長年の埃を被った段ボール箱の奥を進めると、飴色に固くなった紙の束と、黒革の古いアルバムが出てきた。
「なんだこれ、父さん。すごい昔の写真ばっかりだぞ」
「どれ見せてみろ。あぁ……ほら、叔父の実おんちゃんに盛おんちゃん、後ろで笑ってるのが『たこじいさん(曾祖父さん)』だ」
父が懐かしそうに写真を指でなぞる。
白黒の粗い粒子の中に、聞いたことのある親戚たちの顔が並んでいた。
さらにページをめくると、背景の空気ががらりと変わった。
軍服を着た若き日のじいちゃん――坂口正造が、硬い表情で直立不動姿勢をとっている。
「これ、出兵の時の写真か。……ん? 裏になにか書いてあるぞ。『昭和十三年 支那事変記念』だって。じいちゃんが戦争に行ったのって、第二次世界大戦じゃないの?」
「さあな。じいさん、戦争の話を聞こうとすると嫌がって黙り込むから、俺も詳しいことは何も聞かされずに育ったんだよ」
父は少し寂しそうに肩をすくめた。
次のページには、厚手の病衣を着たじいちゃんが、窓の外の雪景色を背景に松葉杖をついて立つ写真があった。
裏面には『昭和十四年十二月 札幌陸軍病院』と小さく墨書きされている。
「昭和十四年の冬……? 父さん、じいちゃんって足を撃たれて帰ってきたんだろ?」
「ああ、右足のくるぶしあたりを打ち抜かれたって言ってたな。それ以上は何も話さなかったが……」
太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦したのは、昭和十六年の十二月だ。
だが、この写真のじいちゃんはそれより丸二年前に怪我を負い、すでに雪の札幌で療養していたことになる。
俺たちが「太平洋戦争に行っていた」と思い込んでいたじいちゃんは、実はそれより前に、別の激戦地で傷を負って帰ってきていたのだ。
俺はふと、押し入れの最深部に押し込められていたふたつの桐箱に気づいた。
「親父、これ何?」
「ん? ああ……それは爺さんの遺品だ。生前、絶対に触らせてくれなかったんだよ。俺も中身は知らん」
ひとつ目の箱を開けると、ずっしりと重い金属の盃が出てきた。
中央には鮮やかな菊の御紋。
箱の側面に『傷痍軍人』と墨書されている。
怪我をして復員した際にもらった記念品だろう。
そして、もうひとつの箱を引き寄せ、慎重にフタをスライドさせた。
中から出てきたのは、古びた手紙の束と、表紙の破れた日記帳。
知識として上部に『感状』と太く書かれた賞状のような紙と、菊の御紋が入った美しい懐中時計だった。
「……あれ? これ、誠おんちゃんから聞いたことあるわ」
俺は思わず声をあげた。
じいちゃんの妻、ハナばあちゃんの弟である誠おんちゃんが、昔お酒の席でポツリと漏らしていた言葉。
『あんちゃんは昔、銃の腕前がすごくて表彰されたんだ。でも嫌がるから言うなよ』
「手柄を立てて表彰された時の時計と感状じゃないか? なんで親父に黙ってたんだろ」
「さあな……誠おんちゃんも『お前に聞くな』って言ってたんだろ?」
手柄を立て、表彰までされたというのに、なぜじいちゃんはそれを隠し続けたのか。
なぜ家族にすら、傷負いの過去も、戦場での誉れも語ろうとしなかったのか。
* * *
その日の夜、盆の準備を終えた俺は、ひとり二階の部屋へ戻った。
卓上ライトのオレンジ色の光の下、昼間見つけた桐箱から日記帳を取り出す。
家の中はすっかり静まり返り、窓の外からは虫の鳴き声だけが聞こえてくる。
俺は息をひそめ、黄ばんで角が擦り切れた日記の、最初のページを静かに開いた――。




