第二十九話 残っていたもの。
ギィと鈍い音を立てながら扉を押し開く。ギルドの中を覗き込むと、そこは俺の知る閑散とした食堂……ではなく、多くの人で賑わっている場所となっていた。
特に、ほとんど姿を見かけなかった男性が、食事をし、言葉を交わし、そして掲示板に張り出された依頼書を眺めている。
「……」
俺は目を丸くしながら、立ち尽くしていた。そんな俺を見ながら、オトムは静かに口を開いた。
「俺は今朝はここには顔を出さなかった。だけど、この風景は俺にとっては馴染みのあるものだ」
「……ええ……」
オトムの言葉に同意した俺の声は、自然と小さなものになっていた。そして俺の足は扉の所から動かなくなってしまった。
正直、覚悟はしていたことだったはずだ。俺がこの世界に来てやっていたことは、あの異形があらゆる可能性がおこらないようにした後の世界でのことだった。何年も何年も、それこそ、俺がこの世界に降り立つ前から可能性を排除し、コンラッドの街の外では全てが成立しない状態になっていた。そこに、本来起こりえた様々な歴史が再び流れこめば、俺の方が情報量としては少ないものなのだろう。乾いた大地に雨粒が一つ落ちれば、それは蒸発するまで、あるいは地面にしみ込むまでは認識しやすいが、海に落ちればたちまちそれを追うことはできなくなる。たとえ雨粒に意識が残っていたとしても、誰がそれを知ることができるのか。
それでも、自分のやってきたことが無かったことになってしまっているのは、悲しかった。
「まだ、確かめることがある」
オトムは俺の横を通りすぎた。扉が吹き込む風に揺れて、再び軋む。俺は重い足取りで、オトムの後に続いた。オトムが近づいていったのは、依頼書が貼りだされている掲示板だった。興味深そうにそれらを眺めている。
掲示板は俺が初めて見た時の記憶では、びっしりと人探しの依頼で埋め尽くされていた。しかし、今はそれと比較すると、ぽつぽつと空白が存在した。そして貼りだされているそ依頼の内容は、人探しの依頼は全く無いものばかりだった。
「はあ……」
「街の近辺の魔物の討伐依頼ばかりだな」
俺のため息に、オトムは気まずそうに答えた。
俺は頷きながら、ジェリがこの掲示板の前で、依頼書を握りしめていた様子を思い出した。少なくとも、彼女の父親は無事だったのだ。この後すぐに出発してしまうのだろうが、それでも後から会うことはできる。父親不在で、一ヶ月を過ごすことは無い。そして、年不相応な覚悟と決断をすることも、必要が無くなったのだ。
それは喜ばしいことだ。
俺の中に、残念な気持ちが無いわけではない。ジェリとのやり取りを経て、俺も街を出る前にそれなりの覚悟をした。だけれど、その行為の価値はあくまでもジェリの心に寄り添っただけだ。父親が見つかることに確証があったわけではない。ただ、誰かが探しに行ったという事実を、与えてあげたかっただけなのだ。そしてそれよりも、本当に父親が戻ってきたことの方が、良いことだ。更に言うなら、そもそも、そのような喪失の時間自体が無かったことになっているのなら、そっちの方が良いことじゃないか。
自分に言い聞かせながら、俺は掲示板の近くの椅子に座った。少し席を離れた所には、様々な人が、それぞれの食事をとったり、談笑したりしている。そして、オトムが俺の傍にやってきた。
「さて、ハァト君……。俺にとっては、行き倒れていた君が、無事に街に着けたのならそれで良いんだ。俺はまるっきり君がデタラメを言っているとは思っていないけれど、君の正しさを証明できるものは残念ながら見当たらない。……そして、それの証明は躍起になって取り組むほどのものではないと思っている」
そう言いながら、オトムは自らの懐に手を入れると一枚の紙幣を取り出した。
「俺はもう行くが……これで何か頼んで腹を膨らせるといい」
「……気を遣って下さって、ありがとうございます」
俺があまりにも意気消沈していたからだろうか。オトムはそれ以上は何も言わなかった。ただ一度だけ頷くと、背を向けてギルドの扉の方に向かった。
その時だった。
「あ、お兄ちゃん! と、お父さん!!??」
聞きなれた声が、俺の耳に届く。その声は、ギルドの厨房から出てきたばかりの少女から発せられていた。
「ジェリ?」
「ジェリちゃん?」
俺とオトムは同時に反応した。そしてジェリは疾風のように、こちらに駆けてくると、オトムに飛びついた。
「ジェリ、どうしてお前がここにいるんだ。いつもなら、今ぐらいの時間に、母さんに起こされているじゃないか」
オトムは意外そうな顔で、自分の腰に抱き着いているジェリの頭を撫でた。ジェリは顔をぐりぐりとオトムに押し付けながら、くぐもった声で嗚咽を始めた。
「お、おいおい」
完全に困った様子になったオトムとそれにくっついているジェリを、俺は静かに見つめていた。そうしながら、心の中にあった靄のようなものが晴れていく気がした。……やっぱり、こういう状態が気持ちの良いものだ、と思った。自分の行いは次善策だった。その価値を否定することはしないけれど、ジェリにとって、最善の状態が訪れているのなら、やっぱりそれが良いじゃないか。
「大げさだな、ジェリ。父さんが朝のうちに出発したからといって、泣くほど悲しむことかい?」
オトムはジェリの頭を撫でながら、嬉しさと戸惑いを含んだ声色になっていた。俺はそれを聞いて、少しだけ引っかかりを感じた。
確かに、オトムの言う通りかもしれない。オトムが一ヶ月行方不明になっているなら分からなくもないが、今のジェリの反応は少々大げさにも見える。元々、ジェリがそういう子であった可能性も無きにしも非ずだが、オトムの反応を見ていると、それほど父親っ子ということでもないのか?
「あら、お帰りなさい、ハァト」
落ち着いた声が、俺の背後からかけられた。振り返ると、ルーシーがいた。ルーシーはオトムにくっついているジェリを見て、目を優しく細めたが、すぐに真剣な眼差しを俺に向けた。
「ハァト、あんた、一体何をしたの?」
「……何って……何があったんだ?」
ルーシーの低い声に少しだけ慄きながら、俺の声も低くなった。
「あんたが街を出てから、ジェリと一緒にギルドに戻ったのよ。それから少したって、いなくなっていたはずの常連が次々に、何食わぬ顔でここにやってきたの。驚いて話を聞いてみても、言っていることが全然かみ合わなくて。それに、掲示板に貼られている依頼書の内容も、いつの間にか全部変わっているし」
そう言いながら、ルーシーは食堂の端で食事をしている一組の男女を顎でしゃくった。
「あの二人……男性は街の外に行って行方不明になった奴で、女性の方はその捜索依頼をここに持ってきた人よ。それなのに、二人仲良くここにやってきて、そして女性の方は、私に依頼を出した覚えがない、なんて言うの。私も提出されたはずの依頼書をあちこち探したんだけれど、残っていなくて。記録が無いのに、記憶だけ残っている、みたいな感じなの。ジェリに聞いたら、彼女も似たようなことを言っていたし。あんたを見送ってから、こんなことが起きたんだし、何か知っているんでしょ」
俺は俯いていた。
押しとどめようとして、もう少しでそれが成功しようとしていた感情が、目尻から零れるのを感じた。記録に残っていなかった事実には、耐えることができた。しかし、記憶に残っていた事実には耐えることが出来なかった。
次回も来週月曜更新!




