第十九話 境界線。
自分より遥かに強い、圧倒的な力を持つ存在を前にして、俺は自分の力の無さはもうすっかり受け入れていた。悔しさも、絶望も、存在はしていない。しかし、路地裏で妄言を吐いていた老人パックの姿が離れなかった。
彼と接することで、何も得られなかったわけではないけれど、仲良くなれているとは思えなかった。そして、仲良くしたいとも思っていない。ジェリに対して、俺は気持ちを奮い立たせて仕事を受けたが、パックはそのような気持ちにさせるほどの人物ではなかった。
気を揉むほどのものではない。無視しても構わないはずだ。自分にとって大切な人ではない。仲間でもない。友人でもない。
彼の人生など、どうでもいい、と思う気持ちが湧きおこるのは否定しない。
ただ、同時に申し訳なさも浮かんでくる。
それは……俺がそうされるのが、嫌だからだ。
その瞬間、俺は思い出した。あぶれたコオロギの話を。パックはある意味それだった。生物の作り出すコミュニティ。そのキャパシティからあふれ出てしまった人。
本人に非が無いとは言わない。社会の向上のため、求められ、良しとされ、あるいは必要悪という名前などを付けてもらいながら行われる淘汰は、今に始まったことではない。人間だけでなく、生物の歴史として組み込まれている。それに抗う術はない。むしろ、それが行われることこそ、有限の資源の中で生きていく生物の姿に違いない。しかし、同時に、痛みを感じる心もある。存在している。
あの路地裏にいたのは、そういう人だ。俺はそれを知っている。俺自身がそうだったからだ。
存在しているということは、呼吸し、思考し、心臓を脈動させ、生きているということだ。どんな妄言を吐こうと、その存在に生産性がなかろうと、彼の毎日が楽しそうに見えないものであっても……。
だからこそ、俺は、彼の人生に遠慮しているのだ。彼と仲良くなりたいとは思わない。それでも、彼の人生をないがしろにしてまで、自分の望みを達成しようとは思っていない。
そして、彼に遠慮するということは、同時にその他の人に対しても、そうするということだ。無論、そこにはジェリやルーシーやケビンだけではない。俺が、俺自身にも、遠慮するということだ。
俺自身の、望みから。
それなのに……。どうしてこいつは……。
「なんで、お前は遠慮しないんだ?」
自然と、口から言葉が出ていた。
「……は……? 何だ……? 遠慮……だと……?」
異形は頭を少しだけ動かして聞き返した。心底わけが分からないと言ったように、首を少しだけ、まるで人間のように傾けた。
「そうだ。遠慮だ。お前はそれだけの力があって、様々なものを為しえることができる。それなのに、どうして……」
「ああ……なんだ……。何を言い出すかと思えば……。配慮の話か……。その話を……我の前で持ち出したのは……お前が初めてではない……。我の前に対峙した……今までのエステルの遣い達も……他者への配慮や……憐憫の話を持ち出して……我に説教を……しようとした……」
俺はそれを聞いて、言葉を飲み込むしかなかった。説教をしようとした奴らがどうなったかは、想像に難くない。俺の背中には冷や汗が垂れ、口の中はぱりぱりに乾いていた。
「他者への配慮は……自身の身の安全の確保……。ひいてはその土台となる社会の維持……。そのような目的を達成するための……人間社会が生み出した古来より存続する思考の一種だ……。ああ……あとは……娯楽の確保も目的として挙げられるな……。しかしながら……我は自分の身の安全は他者に労力を依頼することのない……。そして……我にとっての娯楽は……もはや他者から提供されるものではない……。胸の内より湧き出る興味……探求……。その最果て……いや……最果てがあるのかすら分からないが……。それを確かめてみたい……。ただそれだけだ……。勿論……我を阻むものがいるのは受け入れよう……。我の興味に……関心を持たぬのも……その者の自由だ……。そして……我が内なる興味を追求することも……また自由である……。自由と自由がぶつかれば……」
俺は異形の話を聞きながら、奴が口の端を釣り上げて、笑ったような表情を作った気がした。見えないはずなのに。声色には人間のような抑揚はないはずなのに。
「より強いものが残る……それだけだ……」
「……っ」
俺は言葉を返せなかった。強い者の意が通され、弱き者の意は淘汰される。それは絶対的な自然の法則。生物である限り、その原則から逃れることはできない。
「……そのために……我は自らを鍛え……育てたのだ……。勿論……運に助けられたこともある……。全能でない我にも……ある程度の適性のようなものが……なかったとは言わぬ……。これまで出会った師の中に……我を感動させる教えを施してくれたものもいた……。感謝の心というものも……抱いたことはある……しかし……」
完全に固まっている俺に対して、異形は俺に顔を近づけた。
「……だからと言って……我が自らの望みを追求しない理由には……ならない……」
その時、頭巾の中に埋もれて良く見えなかった異形の顔が見えた。
つるり、として、何もない顔だった。肌は青みがかった黒色だった。鼻筋は通っており、眼窩もある。ただ、目玉はついていなかった。人間であれば目玉が付いている場所は、黒々とした闇が溜まっていた。そして、唇は無かった。
俺は突然の接近に驚き、後ろにのけ反った。
不快だった。奴の行動も、言葉も、そして今説明された思考も。
しかし……それを否定したくても……否定できなかった。否定したい気持ちはあっても、否定する言葉を持たなかった。
なぜなら、俺だって……。異形が言うように、力があれば……。それを持たない、あぶれたコオロギに割く思考など持ち合わせていなかっただろうから。
「お前は……コンラッドの街で……調べものをするだけか……?」
俺は掠れ声で呟いた。そんなわけがない。奴はさっき言ったじゃないか。なんでもするのだ。文字通り、何でも。それでも、俺は一縷の望みにかけたかった。どうか、俺の知りえる人々が不幸な目に合わないようにと。
「……別に……我はお前にも遠慮することはない……。それ故に……教えてやろう……。余すことなく……。お前が想像しているであろう……忌避されるような事柄も行う……。全てを確かめるということは……そういうことだ。……殺すこともする……。様々な方法も試すし……わざと仲間になって裏切りもする……。子を為して……その子供を殺して……伴侶にどのようなことが起きるのかも……一人一人試す……。時間は無限にあるのだからな……」
異形は静かに言った。
俺はこいつが、俺と同じ、エステルからこの世界に連れて来られた人間だとは思いたくなかった。
しかし、俺も……無限と思えるだけの時間と……力があれば……。そして、湧き出てくる望みがあれば……。こいつのようになってしまうんじゃないのか……。俺だって、こいつと同じ、エステルからの遣いであり、彼女からスキルを授かって……。
その時、俺はあることを思い出した。
エステルが最初に、俺にスキルを授けようとしてくれた時。
彼女は戦闘系のスキルが人気だったことを教えてくれた。しかし、俺はその時に望まなかった。
強かったら、できることはたくさんあるだろう。惨めな思いをしなくても済むだろう。自分が、淘汰される側の人間にならなくて、安心できるだろう。それでも、俺はその時に、言ったじゃないか。
『こうやって生きて、なんになるんだ』
その時から、俺は道を選んでいたのだ。先がどうなっているかもわからない。惨めで悔しい思いをしながら淘汰されるだけの結末かもしれない。それでも、歩みたいと思う『道』があったのだ。
そう思った時、世界が白く輝いた気がした。
真っ白な世界の中で、俺だけだった。
ふと、パックが立っていた。少し離れた所に、ジェリもいる。ルーシーもいた。ケビンはかなり離れた所に見える。
パックの周りだけ路地裏の石畳となっていた。ゴミも落ちている。近くに焚火もある。石畳は完全に円形ではなく、パックの右斜め前だけ、少しだけ突き出たように石畳が伸びていた。
ジェリがパックに近づこうとした。ジェリの足元は青々とした芝生だった。彼女が歩くたびに、彼女の周りのも、追随した。しかし、ジェリがパックに近づいた時、パックは大声を上げてジェリを威嚇した。
「ははは、それじゃだめだよ、ジェリ」
悲鳴を上げて離れていくジェリを見ながら、俺はそう声をかけていた。
「パックさんの敷地に入れてもらうには、入口から声をかけないと」
俺はそう言って、少し突き出た石畳の前に立っていた。そうして、パックを見ると、その表情は笑っていた。
俺は目を瞬かせた。
目の前には相変わらず、異形がいる。しかし、離れている。距離にして3メートルといったところだろうか。いつの間に、離れたのだろう。
「……貴様……」
異形の声がした。その声には驚きの感情があった。
「なんだ……そのスキルは……」
「……」
俺は目を見開いていた。
異形と俺との間に、白く光る境界線が出来ていた。3メートルほどの幅がある。
それは『道』だった。
既存の道の上に、十字に重なるようにして、光り輝く道が出来ていた。
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