二つ夢
東南東向きの部屋を眩しく照らす陽も今じゃだいぶ落ち着いている。もうそろそろ照明が必要だろうか、なんて思いながら私は一人リビングの天井を見上げた。
自分の生まれた頃の季節が一番合っている…なんて言うけれど、私は正直この時期のこの時間帯が苦手だ。日が短くなったのを感じる。よりだくる動けなくなることを意味する不気味な冬の足音が聞こえてくるようで。
窓の外を見る。静まった色合いに目を奪われる。
この空もやがて赤に染まる。中学の頃から今までずっとそうだった事を思い出す。せっかくの休日、ベッドの上で身体を起こすとすでにこんな色があったこと。流れの早いこっちの世界で何もできないまま、有意義になど過ごせないままもう一日は終わりかけてたこと。
私はいつも置いてきぼりで時計の針だけが進んでいたこと。
誰も居ないのをいいことにインスタントの粉末が入ったマグカップにポットの湯を注ぐ。ふわ、と香ばしいコーヒーの香りが立ち込める。カフェインは良好な睡眠を妨げるから控えるように、なんて先日言われたばかりだがちょっとくらい、なんて甘えた気持ちでここに来てしまった。
温かいものが欲しいが何でもいいという訳ではない。重い頭をぴりりと刺激するこの苦味がたまらんのだ、と内心で力説している私はさながら言い訳をする飲んべえのようだ。
そんな自分を可笑しく思いながらも熱いマグカップの中身をゆっくりと流し込む。奥深くに染みる感覚にため息が漏れる。季節は晩秋、11月半ば。すでに肌寒いこの時期にはやはりうってつけだと実感してしまう。
テレビもつけないただ静かなリビングの中、コーヒーを半分程飲んだあたりで私は壁にもたれた。ガスは閉めた、給湯器も切った、戸締りも万全、薬の効果もそろそろ切れてくる…なのに、こんなときに限ってあっちの世界からの召喚はかからない。こんなときに限って覚めている意識。
やはりカフェインのせいか?いや、そんなはずはない。今までだってずっと好んで飲んできたのに効いた試しなんてないんだから、と逃れるように思考を巡らす私の元にやがて記憶が流れ込んだ。掻き消そうにも追いつかないくらいの勢いで攻めてくるんだ。
ーータカに抱えられて職場を去った9月の末。何処に向かうかもわからないまま乗せられた車は目覚めたときにはすでに見慣れない場所で止まっていた。虚ろなまま窓の外を見た。夕暮れの空の下にそれはあった。初めて目にする大きな病院だった。
まず先に整形外科。待ち時間は相当なものだったが右足の処置自体にそれ程の時間は要さなかった。捻挫ですと言われ、湿布と包帯を巻かれたくらいだ。
次に脳神経外科。MRIの予約を入れた。マジかと思った。何となく知っていたのだ、これは高いと。
さすがに焦った私が頭は打っていないと力説するも譲らなかったタカ。こんなときばかりやけに頑固な彼を前にため息を漏らした。せっかくの初給料はこんなところに消えるのか…とうんざりして。
母から半ば無理矢理に費用を握らされ、いろんな意味でしぶしぶ引き受けたMRIは二週間後に行われた。結果は異常なし。ほれみろ、と内心で鼻を鳴らしていた私に主治医は一枚の紙を差し出した。
是非一度ここへ、と言われた。
『睡眠外来』と書いてあった。
MRIを終えた後に私はやっと店長から職場に復帰することが許された。足の腫れならもう引いていたのに二週間も休暇を取らされたことには正直驚いていた。何か別の意味があるのでは、と恐れていただけに少し安堵した。
それでもやっぱり…気がかりはあった。そして的中してしまった。
復帰した私を仲間のみんなはごく自然に迎え入れてくれた。きっと彼女もそうしたつもりなんだろう。だけどやっぱり無理があるよ…まるで目をそむけるみたいに黙々と仕事に勤しむその姿を遠目から見て思っていた。
「やだぁ!そんなことないですってばぁ!!」
キャハハ!!
あれからますます熱心に接客へ赴くようになった星華ちゃん。彼女の不自然なくらいに高い笑い声を聞きながら思い浮かべた姿。今なら気持ちがわかる気がする二人へ問いかけた。
タカ、それから砂雪…
アンタたちはずっとこんな痛みに耐えていたの?と。
中身を飲み終え茶色いの跡だけを残したマグカップをシンクに置いた私はまた元の場所へと引き返した。西側に位置する自室はもう薄暗く赤い。意識ならはっきりしている。こんなときは大概あることに没頭するのが常だったことを思い出す。
ベッドの上に座った。壁掛けのコルクボードに貼り付けた我ながらお気に入りの数枚を眺めながら内心でぼやいてた。
ーーどれもこれも海の絵ばかり。望むものも憧れも、変りばえしないな、私は。
山ばかりの町で生まれ育ったせいなのかずっとこんな景色に憧れていた。晴れの海、荒れた海、夕暮れの海、朝日の登る海…数えながら身体を傾けた。自ら描いた7枚の海から遠ざかるように仰向けの身体を投げ出した。
医師からの紹介状に記された睡眠外来のことをタカは何故か知っていた。こちらから切り出す前に連絡をよこしてきて予約の日にちまで聞いてきた。
場所は都内。別に電車でだって行けるのに彼が車を出してくれることになった。何でそこまで…聞き出したいのに口にできないまま、ただ彼の好きな本やバンドの話にばかり付き合っていた。
おびただしいビル街の中に紛れるみたいにその病院はあった。中に入って驚いた。予約が必要という時点である程度察してはいたがまさかここまで患者が多いとは、と。
予約と言っても更に前の人が多かったようで待ち時間は実に二時間。ようやく呼ばれた私を待っていたのはあっちの世界の病室と何処か似た簡素な部屋、そしてすでに優しい笑みを浮かべた40代くらいの男性医師だった。問診としてまずいくつかを聞かれた。
睡眠時間は何時間ですか?
眠気が訪れてから実際に眠りに落ちるまでは急速ですか?起きたらすっきりしますか?
寝入りばなに金縛りはありますか?
感情が高ぶると力が抜けたりしますか?
私は順番に答えていく。睡眠時間にはばらつきがある。だけど休みなら12時間から長くて14時間くらい。
眠気が訪れてから…?これはいまいちよくわからない。いつの間にか落ちてるときもあれば、あ、ヤバイかな、くらいのときもある。どっちにしても最終的には寝てしまうのだが。
寝入りばなの金縛りというとあのガガガッ!ってやかましい上に息苦しいあれか。何度もあるよ、それはうんざりするくらい。
感情が高ぶったとき…うん、これは一瞬迷ったけど笑ったり怒ったりする度に倒れるなんてことはさすがにないかな。“ウラカシ”でのあれは…ショックがデカすぎただけだ、多分。
まぁ考えとしてはこんなとこなのだが、実際は必要最低限に絞った答えを伝えた。医師は黙々とパソコンに入力を進めながら時折小さく呟いていた。
長時間睡眠、カタプレキシーなし…
聞きなれない言葉に戸惑う私に医師は更に聞きなれない案を提示した。
「終夜睡眠ポリグラフ検査、それから反復睡眠潜時検査を行いましょう。今から予約が取れるのは…」
キャンセルが入ったのでいくらか早めにできます、と卓上カレンダーを指し示した。それでも一ヶ月半先になるその日に検査入院の予約を取って下さいと言われた。
更に薄暗さを落としてくる空、ベッドの上の私はついに布団にくるまり身を小さくする。考えなければいいことをわざわざ考えては頭を抱える。
提示された二つの検査、入院代込みで49500円。MRI、初診料込みで13800円。
これらの検査だけで63300円…
って、ふざっ…けん、なよ…!!
あああっ、と呻きを漏らしながら私は更に布団の奥深くへと潜り込んでいく。この63300円、私は払った覚えがない。いやそもそも払えるはずがない。出処さえ知らない、だけど大体察しはついている。
働き始めたばかりのバイトにとってはかなりデカい金額だ。言うまでもない。でもそれはきっと私だけではない、アイツらもなんだ、と。
地元の一軒家を売っぱらったって小規模に収まっている我が家。この街で駅近を優先して選べばおのずとこうなることはもう知っている。都内の葛飾区、江東区とそれ程変わらないそれなりの家賃だって取られているはずだ。
バイトよりは貰っているとは言え、入社一年にも満たない準社員。唯一共に暮らす母親の治療の為に親戚から援助を受けたばかり。あの車が自分のものならきっとローンだって残ってる。っていうかこの間のカード払いってもしかして分割?リボ払い?まさかこの為に??好きなものにしか出費をしないタイプ、浪費家ではないだろうけれど動く金額はデカいはず…
ここまで考えたところで先日知った更なる新事実を思い出して青ざめた。こっちは今回ばかりのことではない、この先も付きまとう継続的なもの。
頭に電極を付けて一晩眠る【終夜睡眠ポリグラフ検査】
眠っては起きてまた眠りを繰り返す【反復睡眠潜時検査】
二つの検査を終えた私に医師はこう告げた。
「睡眠時の呼吸には異常ありません。よって睡眠時無呼吸症候群の線は消えます。反復睡眠潜時検査では6分強でノンレム睡眠が始まっています。ナルコレプシーとはグレーゾーンですが寝入りのレム睡眠は一回しか見られませんでしたし、問診からも判断できるように長時間睡眠ありの情動脱力発作(※3)はなし…」
長時間睡眠を伴う【特発性過眠症(※1)】という判断が妥当かと。
突発性?と聞き返す私に医師は首を横に振って特発性だと訂正。原因不明という意味です、と付け加えた。
「特発性過眠症には今のところ特効薬はありません。大抵の場合、年齢を重ねるごとに落ち着きますが、それが早い場合もあれば遅いときもあります。治る、とも言い切れません。ただ今できる対処として症状を抑えることなら…」
医師は薬の説明に入った。私は実感も沸かずぼんやりとしたまま座っていた。
「症状の重いときもあるでしょうが、メチルフェニデートの薬剤は現在ナルコレプシー(※2)の患者にしか処方できません。モダフィニルがいいでしょうね」
訳のわからない薬名、訳のわからない状態、訳のわからない今後…
どんなに説明してくれても一向に内容が入って来ないのはこの優しい医師のせいなどではないと思った。新薬だという薬の処方箋を貰ってすぐ側の薬局へ行った。表示された金額にまた言葉を失くした。
帰りはまたタカが迎えに来てくれた。あれ程のショックを受けたというのにまた襲ってきた眠気に負けた。家に着いて、タカが帰って、改めて薬の袋を出した。
入れておいたはずの領収書が抜き取られていた。
犯人と思われるそいつに問い詰めたかったけどそれで一体何ができるというのか。満足に働けないが故、一文無しに近い私に一体何が?出来てせいぜい金の出処が身近な別の人間に代わるくらいじゃないか、と一人痛む頭を抱えて部屋に閉じこもった夜。
トン、トン
入っていい?浅葱。
軽快なノックといやに柔らかい声で固く閉ざした扉を開いたのは母だった。電気もついていない月明かりだけの青ざめた部屋に薄く笑んだあの女の顔が浮かんだ。ベッドの上に座っている私の傍へ腰を下ろして言った。
「ごめんね、浅葱。こういうこととは気付かなくて。わかってたんだ、私と同じだってことは…」
私と同じ憑依体質かと思ってた。
何とそんなオカルトなことを抜かしてきた。そっちの解釈はまるで思いつかなかった、とほんの少し笑いそうになった私に母もまた笑って言った。
「私もだったんだ。若い頃全然起きていられなくて、出来のいい兄貴と比べられてさぁ…グレちまったんだよ」
ああ、と今更のように思い出した。終始ぼんやりと聞き流してしまったように思えた医師の話も少しは叩き込まれていたようだ。
抑え難い眠気“睡眠発作”に襲われる過眠症の一種【特発性過眠症】。これは先天性だったり遺伝性の可能性もあると言っていた。この女もだったなんて、ね。
いつの間にか目にいっぱい涙を溜めていた母。無防備に垂れた私の手を両手で強く握った上、詫びるみたいにこうべを垂れて更に言った。
「悪いね、こんなの遺伝させちまって。私はもういいよ。散々やんちゃもしたしさぁ、こんないい歳だからか昔みたいな眠気もない。ただ…こんな病気があるって知ってたらねぇ」
くずっ、と鼻をすする音の方へ私はかぶりを振った。しょうがないよ、だって、最近注目され始めたばかりの病気だってお医者さん言ってたもん。アンタみたいなどっぷり昭和の女が知ってるはずないじゃん。
「睡眠外来があることだって、みーくんが教えてくれなかったら…」
みーくん?少しだけ考えてしまったけどすぐに合点がいった。アイツか…まぁそういうあだ名もアリかもね、ミタカだから。
それからいろいろと聞いた。眠くなるまでずっと。
知らなかったことが次から次へと続いてきたけれどもう驚きもしなかった。公衆の面前でアイツに受け止められたあの日から何となく、何となくわかっていたことばかりで。
それは専門学生の頃から始まってた。初めてタカと一緒に乗った帰りの電車、北千住で降りようとしていた彼は呼んでも呼んでも虚ろな私の様子に何か尋常ではないと察して降りずに柏まで付き合ってくれた。
迎えのロータリーで母とタカは初めて対面した。乗っていきな、と促すもさらりと受け流して去っていく彼の後ろ姿にこのときすでに目を奪われていたらしい。
こんな子がずっと浅葱の傍にいてくれたら…
そんな母の願いはやがて通じることとなった。奇しくも私が自らを痛めつけたあの事件によって、だ。
あのとき互いに連絡先を交換していつでも繋がれるようにしていた二人。職場で足を怪我した日は普段電車通勤の父が得意先の接待の為に車を使っていた日。駅から遠い実家で畑仕事をしていた母はとっさにタカを頼ったという。
「みーくん!浅葱が職場で怪我して…」
「行ってきます」
ブツッ。
話し終わる前に電話を切られたそうだ。クールな顔して案外せっかちだよね、あの子、と母は笑った。
ーー何だかすごく懐かしく思えた母の手の温もりを感じながら眠った夜。あのときみたいにまた暗い青さが迫ってきている。窓の外から、見下ろす空から、ゆっくりと。
やっと虚ろになった意識、閉じた瞼の目尻から何か、流れた。
薬の効果が切れたせいなのか、耳鳴りが始まる気配を感じた。息苦しさの中で思ってた。
みんな、みんな、勝手に動いて、私が知らない間に、勝手に決めて…
止めたくなかった。私は…
アンタたちを止めたくなかったのに。
※1)特発性過眠症・・・日中の耐え難い眠気(睡眠発作)を主症状とする睡眠障害の一種。急激な眠気ではなく徐々に強まる眠気が特徴であるが、一度眠ってしまうと1~4時間という長時間に渡り眠り続け、目が覚めた後もだるくすっきりはしない。主睡眠が10時間以上のタイプと6~10時間のタイプとの2種類に分類されている(本作主人公の場合は前者に近い)。睡眠障害の中でも知名度が低い上、眠ってはならないシチュエーションでも睡眠発作が生じる為、周囲の理解が得られにくい。
※2)ナルコレプシー・・・特発性過眠症と同じく睡眠発作を主とする睡眠障害。眠気は急激であり、歩行途中や立っている最中に突然倒れてしまうケースもある。その反面、15~30分くらいの仮眠で覚醒後は意識がすっきりと冴えている。感情の高ぶりの際に起こる情動脱力発作(カタプレキシー)、入眠時に起こる金縛り(睡眠麻痺)が存在するのも特発性過眠症とは異なる特徴である(本作主人公がグレーゾーンと言われたのは睡眠麻痺の症状が見られたことと、入眠までの時間が短い為)。
※3)情動脱力発作(カタプレキシー)・・・笑い、怒り、喜びなどの感情が誘引で起こる脱力症状。ナルコレプシーの患者が服症状として併発することが多い(併発しないナルコレプシー患者もいる)。




