十二の夢
きっと相当追い込まれてたんだと思う。こっちでもあっちでも常に考えて、考えて、なかなか繋がってくれない糸をいくつも握りしめたままだった。そうしているうちにいつの間にかこじれた糸にがんじがらめにされてしまったんだ。
疲れ果てた身体も、心も。
わずか二時限だけの授業だった日。夕菜も梓もそれからタカも、全く別行動だった。専門学生となってからもう数ヶ月で二年目、今私たちが寝る間も惜しんで没頭しているのは卒業制作だった。それぞれ別の教師の元で別の指導を受けていた。共に過ごす時間が減るのは仕方のないこと、そして寂しがっている余裕さえなかったのだ。
まだ白々と明るい帰りの電車。ふと脇腹を押される感覚にうっすら瞼を開いた。思いのほか混んでいた車内。フラフラの身体は端っこの席を求めていたけれどそう都合よく空いているはずもなく止むを得ず真ん中あたりの隙間に腰を下ろした。
寄りかかってしまった隣の人に押される…それは決して初めてではなかった。もう何度となく経験している。その度に悪いとは思いつつも身体と意識は言うことを聞かなかった。だけど割り切っていた。そんな光景は珍しくなんかない、向かいの席を見れば同じように船を漕いでいる人と鬱陶しげに顔をしかめている人の姿が頻繁に見られた。
首都圏であるこの地域では誰もが時間に追われもみくちゃになりながら酸素の薄い過酷な通勤、通学を乗り切っている。自分だけじゃない、お互い様なんだと思うことにしていた。寄りかかられれば重いに決まっているのだから押し返すという行為に対しても特に異議はないはずだった。
だけどあの瞬間、私はそんな自然なことさえ受け入れられなかった。いや、きっと双方に余裕が欠けていたんだ。
押してくる隣の方からやがて舌打ちが聞こえた。私が座ったときそこに居たのは仕立ての良いツーピースに身を包んだ品の良さそうな淑女だった…はずなのに。
ギャップは武器だなんて世間では言われているけど使い所を誤ると落胆や更には怒りを引き起こすのだと身を持って知った。限界の身体に容赦なく浴びせられる肘打ちと舌打ち。やっと隣へ顔を向けた私は…一体どんな顔をしていたというのか。
ほんの一瞬、目が合ったことは覚えている。こちらを見る彼女の瞼の形が鋭く尖っていったことも。
また寝てる…
ウザいんだよ、クソ。
虚ろな意識の中で汚らしくわざとらしい呟きが聞こえた。安心感さえ覚えた第一印象からは信じがたいが、確かに隣の麗しき淑女の方からだった。
やがて止まった電車。プシューと扉を開く音の後に私の顔面に衝撃が走った。じん、と染みるような鼻の痛みにさすがに顔を上げた。視界から遠ざかっていく白のバッグとそれを肘にかけた淑女の後ろ姿。
恨めしく感じて睨んだ。綺麗な白のツーピースと揃いの色のバッグ。左右に揺らぐさらさらのロングヘア。それはもう純白の皮を被った悪魔にしか見えなかった。それから思った。
世の男性諸君よ、こんな腹黒女には騙されてくれるなよ、と。
しばらくまた電車の振動にも劣らない激しい船漕ぎを繰り返しながら乗っていた。ザッ、と人が流れる気配で身体を起こした。おびただしい人の波に乗って電車を降りたところで呆然と立ち尽くした。そこへ後ろから何人かが体当たりをした上、謝りもせずに過ぎ去っていく。ついに私まで汚らしい舌打ちを漏らしてしまう。
視界に入りこんだ文字は【北千住】。見慣れた柏駅と似ているようにも思えないこの場所に何故降りてしまったのか心の底から疑問だった。人が多いという当たりは決して遠くもないが…
大人しく乗っていれば良かった電車が過ぎ去っていく。私は止むなくホームの椅子に腰を下ろした。また意識が遠のきそうになる。あっちで誰かが呼んでいるのかも知れないが今はお願い、勘弁してと願っていた。
ーー浅葱…?
人混みやら何やらの雑音の中、ふと側から流れてきた声は確かに私の名を呼んだ。しかも…覚えがある。
懐かしい声色。小鳥のさえずりのような…
「砂雪…?」
立ち尽くしこちらを見ていたのは確かに彼女だった。ボブの髪は明るいミルクティーカラーに、両耳で大振りなピアスが揺れている。かつてと比べて二割は増したであろうという黒々とした両目、襟元と袖にふんだんなファーがあしらわれたタイトなコート…言う間でもないがだいぶ派手になっている。
それでも彼女と認識するまでにそれ程の時間は要さなかった。身を包むものこそ変わっていれど、気の強そうな目も、小柄な背丈も、小鳥のような可愛らしい声色も、かつて慣れ親しんだ“らしさ”をありありと示していたのだから。
進み出しそうで進まない、彼女の顔は何とも言えない表情だった。嬉しそう、だけど何処か困ったような…
もう一つ、側に居る気配に目を凝らした。一瞬で意識の覚めた私の口が動いた。
かっ…
かわsきッッ!!
むしろもつれたと言った方が正しいか。ともかく上手く名として発せなかったことは確かだ。
高1の秋以来、初めて見る川崎は更にデカくいかつくなっている。反して自信のなさげな表情…それなりに今どきの装いに身を包んではいるものの、こちらもさほど変わっていないとわかった。
ただ一つ、確かに変わっていたのは…
「こっち来てたんだ?砂雪」
「うん、ちょっと…ね。浅葱は学校帰り?」
「うん」
話したいことはいくつか浮かんでいたはずなのに、主張してくる空気がその意欲を薄れさせていった。近付く電車の音。電光掲示板の『我孫子』の文字。
「砂雪、メアドまだ変わってない?」
「うん、変わってないけど…?」
「そっか」
また会ってくれる?とあんな顔で問いかけた彼女に私は会うどころかまともな連絡さえしていなかった。私は何も言えない。それにももう決めたではないか、と胸の内で呟いてから立ち上がる。
「ごめん、私行くわ」
またメールするね、と言い残して開いた電車の口へ向かった。またって何よ、と自嘲的な問いが浮かんだがそれさえ考えたくなかった。
タイミング良くゲットできた端っこの席。これなら他人に寄りかかる心配もないと安堵して身を預けた。動き出した車内から見えた。
こちら向きに佇む二人、重なった二つの手が。
砂雪、川崎…
幸せにね。
私はもう20歳。もう大人。社交辞令だって身に付けたはずだ。それなのにたったそれだけの言葉が何故…と奥歯を噛んだ。醜いと思った。
あの白い悪魔にも決して劣りはしない。私の方がよほど醜いではないか、と。
ーー事が起きたのはその翌日だった。
誰一人居なくなった教室に私だけがいた。卒業制作の期限は間近なのにまた意識が遠のいてしまった。何も進められなかった。罫線だけを走らせたありのままのレポート用紙を見つめながらまた性懲りもなく遠のいていく、意識。
ここで帰るからいけないんだ。電車でもまた同じことを繰り返す。居心地の良い家ではなおのこと。
もう誰に呼ばれようとあっちに行く訳にはいかない。こっちの私が大ピンチなんだ。卒業してちゃんと就職しなきゃいけないんだ。そうでないと毎日泥だらけで腰を丸めているあの女はどうなるんだ。
柏に越してきた意味は、どうなるんだ。
そんな焦燥ばかりだった。他に手段はないように思えた。
握ったシャーペンを、振り上げた。
そして下ろした。勢いよく。
無防備な左手の甲へ。
ドスッ…。
確かな痛みの後、広がり始めた赤色。
痛い…痛い…
なのに、どうして…?
ーー浅葱?
背後からの声に私の身体は振り返ることもできない。シャーペンを握る右手が震えているだけ。あとはまるで力が入らない。
近付いてくる足音にも気配にも気付いてはいた。それがタカだってことも知っていた。だけど無理なんだ、動けないんだ、振り返れない、怖くって。
「は…?何それ」
すぐ傍まで歩み寄ったタカの声がこぼした。
「何やってんの?お前」
淡々とした口調はいつもより、低い。私はゆっくり見上げた。黒目全体が露わになる程目を見開いた彼に言った。
「参ったよ、タカ。こんな大事なときに…眠いんだ。もうこれしかなかったんだ。なのに…」
何故だか笑みがこぼれた。
「おかしいよね、効果ないなんて。まだ眠いなんて。これで覚めると思ったのに、何で…」
ギリ、と軋む音が鳴りそうな勢いで私の右手が捻り上げられた。滑り落ちたシャーペンが床で乾いた音を鳴らした。
「タカ…?」
今にも崩れそうな身体を包み込んでいる彼の片腕の力に虚ろながらも驚いた。もう片方の腕は机の上のレポート用紙やペンケースを素早く掻き集め私のバッグに投げ入れている。
血…拭かなきゃ。
そう思っていたとき、肩に添えられた腕に強く促された。私は為す術もなく引きずられるみたいに付いていく。
「タカ…何処に…」
「病院」
「待って、まだ…レポートが…」
ふと進む速度が緩まった。高い位置から見下ろすタカの陰った顔。
「いいから、来いよ」
ぞくりと逆立つような目つきだった。




