東雲に追われて 5
波の音が、やけに大きい。
風が強い。
髪が乱れる。呼吸がうまく整わない。
もう、走れない。
お互いに。
足が、動かない。
砂に沈んだまま、踏み出せない。
それでも。
倒れないように、必死に立っている。
数歩の距離。
それだけの距離を挟んで、向かい合う。
「……はっ……はっ……」
息が、壊れている。
吸っても、足りない。
胸が上下するたびに、痛みが走る。
彼女も同じだ。
肩が激しく揺れている。
今にも崩れそうなのに、踏みとどまっている。
ナイフを持つ手が震えている。
それでも――離さない。
そのまま、こちらを見ている。
ずっと。
「……なんで……」
かすれた声。
それでも、届く。
「なんで……逃げるの……!」
叫ぶ。
息を絞り出すみたいに。
声が震えている。
怒りじゃない。
それだけじゃない。
もっと、ぐちゃぐちゃな感情。
抑えきれなくなったもの。
「……っ……」
言葉が詰まる。
何を言えばいいのか、わかっているのに。
うまく出てこない。
喉が締まる。
でも――
逃げられない。
「……俺のせいだからだよ……!」
やっと、声になる。
かすれて、崩れた声。
「全部……俺のせいだってわかってるからだよ……!」
吐き出す。
息と一緒に。
押し込めていたものを。
「だから……」
言葉が続かない。
苦しい。
息が足りない。
でも。
「……だから、逃げてんだよ……!」
叫ぶ。
自分でも、情けないと思う言葉。
それでも、それが本音だった。
彼女の顔が歪む。
「……なにそれ……」
小さく、漏れる。
震えた声。
「なにそれ……!」
次の瞬間、叫びに変わる。
「逃げるって何!?」
一歩、踏み出す。
足が崩れそうになりながら、それでも前へ。
「自分のせいだから逃げるって、何!?」
ナイフを持つ手が大きく揺れる。
それでも落とさない。
感情と一緒に、振り回すみたいに。
「ふざけないでよ!!」
声が割れる。
涙が混ざる。
風に飛ばされながら、それでも届く。
「私は……!」
息が詰まる。
それでも続ける。
「私は逃げなかったよ……!」
その一言が。
胸に刺さる。
「壊れそうでも……!」
「苦しくても……!」
「ずっと……ちゃんと見てたよ……!」
言葉がぶつかる。
波の音を押しのけるように。
「全部……全部見てた……!」
声が震える。
泣いているのかもしれない。
でも、暗くてよく見えない。
「他の人と話してるのも……!」
「どうでもいい顔してるのも……!」
「私のこと、軽く扱ってるのも……!」
一つ一つが、重い。
逃げてきたもの全部が、突きつけられる。
「それでも……!」
息を吸う。
大きく。
壊れそうなほど。
「それでも一緒にいようって思ってたのに……!」
叫ぶ。
その声は――
怒りじゃない。
それだけじゃない。
どうしようもないほどの、執着と、願いと、壊れた感情。
「なんで……!」
さらに一歩。
もう、ほとんど距離がない。
「なんで、逃げるの……!!」
その問いに。
もう、言い訳はない。
逃げ場もない。
「……怖いからだよ……」
絞り出す。
小さく。
でも、はっきりと。
「お前がじゃない……」
首を振る。
息が乱れる。
「自分がだよ……」
胸を押さえる。
痛い。
息が苦しい。
それでも。
「こんなことして……」
「こんな風に壊して……」
「それで向き合うとか……無理だろ……!」
声が崩れる。
「そんな顔で見られて……!」
「それで平気でいられるほど……強くねえよ……!」
吐き出す。
全部。
情けないまま。
逃げてきた理由を。
彼女が、止まる。
その場で。
数秒。
何も言わない。
波の音だけが響く。
風が吹き抜ける。
やがて。
「……弱いね」
小さく、言う。
その声は――
優しかった。
昔みたいに。
でも。
「でも……」
一歩、近づく。
もう、手が届く距離。
「それでも……」
ナイフを持つ手が、ゆっくりと上がる。
震えている。
力が入らないのかもしれない。
それでも。
「逃げないでよ……」
声が、崩れる。
「最後くらい……ちゃんと見てよ……」
その言葉に。
もう――逃げられない。
足は動かない。
体も動かない。
ただ。
目を逸らさずに、彼女を見る。
初めて。
真正面から。
壊した相手を。
彼女も、見ている。
まっすぐに。
ナイフが、ゆっくりと近づく。
距離が、消える。
息がぶつかる。
その瞬間――
もう、逃げないと決めた。




