東雲に追われて 6
ナイフの先が、目の前にある。
ほんの少し手を伸ばせば、触れられる距離。
冷たい光が、わずかに揺れる。
彼女の手は震えている。
力が入らないのか、それとも――
迷っているのか。
風が強く吹く。
波の音が、二人の間を埋める。
それでも。
目は逸らさない。
逸らせない。
逃げないと決めたから。
「……ごめん」
最初に出た言葉は、それだった。
小さい。
かすれている。
でも――止めない。
「……ごめんじゃ足りないの、わかってる」
続ける。
息が苦しい。
胸が痛い。
それでも、言葉を止めない。
「軽く考えてた……全部」
自分の声が、遠く感じる。
それでも、確かに口から出ている。
「お前のことも……」
「一緒にいる時間も……」
「全部……当たり前みたいに扱ってた」
喉が詰まる。
言葉が途切れそうになる。
でも、止めない。
「他のやつと遊んで……」
「それで、バレても……」
「謝ればいいって思ってた」
吐き出す。
一つずつ。
逃げずに。
「ちゃんと、壊れるって思ってなかった」
その言葉で。
胸の奥が、強く痛む。
今さら気づいたみたいに。
「……壊したの、俺だ」
はっきりと言う。
逃げずに。
「お前を、壊したのは……俺だ」
彼女の手が、わずかに揺れる。
ナイフの先が、ほんの少しぶれる。
でも、下がらない。
まだ、そこにある。
「逃げたのも……俺だ」
息を吸う。
うまく吸えない。
それでも無理やり、肺に押し込む。
「怖くて……」
「向き合えなくて……」
「ずっと、逃げてた」
目を逸らさない。
彼女を見る。
ちゃんと。
初めてみたいに。
「……ごめん」
もう一度。
さっきよりも、強く。
「本当に、ごめん」
その言葉に。
逃げはない。
言い訳もない。
ただの事実だけ。
波の音が響く。
風が通り抜ける。
彼女は、何も言わない。
ただ、見ている。
じっと。
ナイフを握ったまま。
震えながら。
時間が、止まったみたいに流れる。
やがて――
彼女の指先が、わずかに緩む。
ほんの少しだけ。
本当に、わずかに。
「……遅いよ」
小さな声。
消えそうなほど弱い。
でも、はっきり届く。
「……遅すぎる」
ナイフが、少し下がる。
完全には下がらない。
でも、さっきより確かに力が抜けている。
「私……」
言葉が途切れる。
呼吸が乱れる。
それでも続ける。
「ずっと……待ってたのに……」
その一言が、すべてだった。
胸の奥に、重く沈む。
取り返しのつかない時間。
戻らないもの。
壊れたもの。
全部が、そこにある。
主人公は、動かない。
動けない。
ただ、受け止める。
その言葉を。
その時間を。
彼女の手から、ナイフが落ちる。
砂に刺さる。
鈍い音。
それでも、はっきりと響く。
彼女の体が、揺れる。
限界だったのかもしれない。
膝が崩れる。
そのまま、前に倒れそうになる。
反射的に、手を伸ばす。
受け止める。
軽い。
思っていたより、ずっと。
こんなに軽かったのかと、今さら思う。
彼女は、抵抗しない。
ただ、力が抜けたみたいに預けてくる。
肩越しに、かすかな呼吸。
不安定なリズム。
波の音が続く。
風が吹く。
夜の海は、変わらない。
何もなかったみたいに、そこにある。
主人公は、彼女を支えたまま、動かない。
言葉も、出てこない。
言えることは、もう言った。
それでも。
遅すぎたことだけは、変わらない。
彼女も、何も言わない。
ただ、そこにいる。
壊れたまま。
でも――
まだ、終わってはいない状態で。
波が、ゆっくりと寄せては返す。
その音だけが、二人の間に残り続けていた。




