東雲に追われて 4
足が、もう上がらない。
地面を蹴っている感覚が、ほとんどない。
ただ惰性で前に出しているだけだ。
それでも、止まらない。
止まれない。
息はもう、吸うたびに喉が裂けそうで。
胸は痛いというより、鈍く壊れかけている感覚だった。
視界の端が、暗くなり始めている。
それでも――前へ。
路地を抜けた瞬間、風が変わる。
湿った空気。
塩の匂い。
波の音。
――海。
暗い海が、目の前に広がる。
砂浜に足を踏み入れた瞬間、体が沈む。
足が取られる。進まない。
「……っ、は……!」
呼吸が崩れる。
もう走るなんて動きじゃない。
ただ前に倒れないように、必死に足を出しているだけだ。
それでも――逃げる。
後ろから、同じ音。
砂を蹴る音。
不安定で、崩れそうで。
それでも止まらない音。
彼女も、同じだ。
振り返る。
彼女が砂浜に出てくる。
何度も足を取られながら、それでも前へ。
息は壊れている。
肩が大きく揺れている。
それでも――
ナイフを握る手だけは、強く力が入っている。
離さない。
最後まで。
――もう、無理だ。
体が限界を告げている。
逃げきれない。
わかっている。
なのに。
足はまだ、逃げようとする。
「……やめろよ……」
自分に向けて吐き出す。
逃げるな。
もう、逃げるな。
そう言っているのに。
体が、それを拒む。
理由から。
あの時から。
*
「……ねえ」
あの夜は、静かだった。
外では雨が降っていた。
窓に当たる音が、一定のリズムで続いている。
部屋の中は暗い。
テレビの光だけが、ぼんやりと揺れている。
彼女は、少し離れた場所に座っていた。
前みたいに、隣じゃない。
「これ、どういうこと?」
テーブルの上に、スマホが置かれる。
画面が、こちらに向けられる。
通知の画面。
見覚えのある名前。
知らないはずのやり取り。
でも――
全部、見覚えがあった。
自分のものだから。
心臓が、止まる。
「……」
何も言えない。
言葉が出てこない。
「ねえ」
もう一度。
今度は少し強く。
「これ、何?」
声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
でも――逃げられない。
答えないといけない空気。
なのに。
「……なんでもない」
口から出たのは、それだった。
最低の答え。
わかっているのに。
それしか出なかった。
「なんでもなくないでしょ」
即座に返される。
当たり前だ。
画面に残っている。
言い逃れなんてできない。
「これ、どういうことって聞いてるの」
声が、少し震えている。
怒りじゃない。
もっと別の――
崩れそうな何か。
「……ちょっと、遊びで」
言った瞬間、自分でもわかる。
終わったと。
取り返しがつかないと。
彼女の顔が、止まる。
表情が消える。
「……遊び?」
小さく、繰り返す。
「うん……まあ、深い意味はなくて」
言い訳を続ける。
止まれない。
沈黙が怖くて。
でも。
言えば言うほど、壊れていく。
「……へえ」
彼女は笑う。
ゆっくりと。
でも、その笑いは――
今まで見たことのない形だった。
「私といるのも?」
その一言で、空気が凍る。
「……え?」
「私といるのも、遊び?」
視線が、まっすぐ刺さる。
逃げ場がない。
なのに――
また、逃げた。
「そんなわけないだろ」
すぐに否定する。
でも、その言葉は軽い。
自分でもわかるくらいに。
何も守っていない言葉。
「じゃあなんで?」
間を置かずに、続く。
「なんで、他の人とそういうことできるの?」
答えられない。
理由なんて、ない。
ただ――
軽かっただけだ。
全部が。
彼女も。
関係も。
自分の行動も。
「……ごめん」
やっと出た言葉は、それだった。
遅すぎる言葉。
何も戻らない言葉。
彼女は、しばらく何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
じっと。
その視線が、痛い。
「……そっか」
やがて、小さく言う。
それだけ。
怒らない。
泣かない。
何もぶつけてこない。
それが――
一番、壊れている感じがした。
*
「……俺のせいだ……」
砂浜で、言葉が崩れる。
息と一緒に吐き出される。
あの時だ。
あの瞬間だ。
彼女が壊れ始めたのは。
自分が壊した。
軽く扱って。
踏みにじって。
それでも、ちゃんと謝ればいいと思っていた。
終わると思っていた。
そんなわけ、なかったのに。
後ろから、足音。
すぐ近く。
もう、ほとんど距離がない。
彼女も限界だ。
体が揺れている。
呼吸が壊れている。
それでも――
止まらない。
ここまで来て、ようやく理解する。
彼女は、あの時からずっと止まっていなかった。
あの夜から。
あの言葉から。
ずっと。
自分の中で、壊れたまま進んでいた。
足が止まる。
もう、動かない。
振り返る。
彼女が、すぐそこにいる。
数歩の距離。
波の音が、大きくなる。
風が強く吹く。
彼女はナイフを握ったまま、立っている。
息が乱れている。
それでも、目は逸らさない。
こちらを見ている。
ずっと。
「……なんで……」
かすれた声。
「なんで、そんな顔で……逃げるの……」
その問いに。
もう、逃げ場はない。
逃げてきた全部が、ここにある。
夜の海の前で。
ようやく――
終わりが、目の前まで来ている。




